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該当件数320件
  • 1917(大正6)年に日本で最初の駅伝「東海道五十三次駅伝徒歩競争」京都~東京間の508㎞23区間で開催されました。スタートは京都の三条大橋で、ゴールは上野の不忍池で開かれていた博覧会場の正面玄関でした。
    上野・御徒町エリア
  • 横山大観は、近代日本画壇の巨匠です。明治22年(1889)に開校した東京美術学校に第一期生として入学し、岡倉天心に多大な啓発を受けました。その後海外に渡り、ニューヨークやパリなどで相次いで展覧会を開き、高い評価を得ました。日本でもその画風が評価され始め、第一回文化勲章の受章者となりました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 岡崎屋勘六は江戸末期の書家・勘亭流の祖で、勘亭流とは江戸歌舞伎の看板、番付、台本などに使われる特殊な書体のことです。安永8年(1779)、江戸中村座の依頼を受け、春狂言の大名題を書きました。これが歌舞伎文字勘亭流の始まりとされます。現在もこの伝統は継承され歌舞伎看板などで使われています。 お墓は清光寺(せいこうじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 昭和24年(1949)に国立図書館が文部省から国立国会図書館に移管されて成立した、国立国会図書館の支部図書館です。戦前の日本において唯一の国立図書館であった帝国図書館の後身で、上野公園に林立する文化施設の一つとして親しまれてきましたが、現在は国際子ども図書館へと改装開館しました。
    上野・御徒町エリア
  • 彰義隊戦死者碑は、明治新政府に反抗して討滅された彰義隊の戦死者を供養するために明治15年(1882)に建てられました。上野恩賜公園内の西郷隆盛像の裏手にあります。墓石には旧幕臣山岡鉄舟の筆によって「戦死之墓」とのみ記され、「彰義隊」の文字はありません。
    上野・御徒町エリア
  • 人形の街のはじまりは、正徳元年(1711)吉徳初代、三河出身の次郎兵衛が開いた人形の店で、陳列や販売方法の工夫など、たくましい商魂で一大問屋街を作り上げました。以来、東京の人形問屋の約70%以上がこの浅草橋界隈に集まりました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 浅草御蔵とは、江戸幕府が全国に散在する天領から運んだ年貢米や買い上げ米などを収納・保管した倉庫のことです。大坂、京都の二条城と合わせて三御蔵と呼ばれていました。浅草御蔵跡碑は昭和31年(1956)に浅草南部商工観光協会が建立し、現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは昭和9年(1934)のことです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 弁天院は、水谷(みずのや)伊勢守勝隆が寛永元年(1624)不忍池に弁財天を建立すると同時にその下屋敷であったこの地の邸内の池にも弁財天を祀ったのが由来とされています。両者は姉妹弁財天と呼ばれています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 北村季吟は江戸時代前期の歌人・俳人で、祖父・父を継いで医学を業としていましたが、俳人安原貞室、松永貞徳の門に入り、和歌・俳諧を学び貞門派俳諧の新鋭といわれました。同門は松尾芭蕉らを輩出しました。元禄2年(1689)、幕府歌学所に補せられ、再昌院法印の称を受けました。お墓は正慶寺(しょうけいじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • KIWAYAウクレレミュージアムは、ウクレレ文化の保存と継承を目的に平成16年(2004)にKIWAYA社屋に創設されたミュージアムです。正式名称はウクレレミュージアム「樂」です。古今東西の歴史的なウクレレから珍しいウクレレまでを所蔵・展示しています。
    浅草中央部エリア
  • 護国院は、天海僧正の弟子の生順が釈迦堂の別当寺として寛永元年(1624)に現在の東京国立博物館右手裏に創立した寺です。上野公園一帯には約1200本の桜があり、開花時には花見客で賑わいます。約400年前に、寛永寺を創建した天海僧正が吉野山から桜を移植させ、以来、江戸一番の桜の名所として今日に及んでいます。
    上野・御徒町エリア
  • 東京自動車三十年会記念碑は、上野不忍池の弁天堂境内にあります。わが国自動車業界の黎明期を支えた先達を顕彰する記念碑です。昭和28年(1953)に結成された「三十年会」は、その当時業界歴が30年以上の方々で構成され、会の名の由来となっています。この記念碑は昭和50年(1975)に同会が建立しました。
    上野・御徒町エリア
  • 昭和46年(1971)、日本ゴム工業会 三田土会によって建立された石碑です。明治19年(1886)に松前藩士の四人の兄弟が日本で初めてゴムの熱加硫法に成功し、土屋護謨(ゴム)製造所をこの地に創設しました。後に「三田土ゴム工業」となり大規模な工場を建設、軟式のゴムボールや消しゴムなど新しいゴム製品を次々に開発しました。
    上野・御徒町エリア
  • 不忍池の中央には、琵琶湖の竹生島を模して造られたという弁天島があり、そこに弁財天を祀る弁天堂があります。弁天堂の周囲には「ふぐ供養碑」「魚塚」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸時代後期の儒学者である塩谷宕陰の墓は谷中墓地と称される区域の天王寺霊園にあります。宕陰は昌平黌に入門し、また松崎慊堂に学びました。遠江掛川藩主の太田氏に仕え、ペリー来航の際に献策し、海防論を著しました。芳野金陵、安井息軒と並んで安政・文久の三博士と称えられ昌平黌の教授として多くの文人を育て、慶応3年 (1867)に没しました。
    谷中エリア
  • 【現在この像は朝倉彫塑館に収蔵されており、定期的に公開される予定です】
    この像は、台東区名誉区民にして彫刻家である朝倉文夫の作品の一つであり、嘉納治五郎が全身全霊を傾けた1940年の東京オリンピック招致が成功(のちに返上)した、1936年に制作されました。
    朝倉文夫は、1907~1910年ころに嘉納と知り合ったと推察されます。その後も縁があり、嘉納の人柄や骨格などを熟知していた朝倉は、嘉納の海外出張中に本作を制作して周囲を驚かせました。しっかりした体幹を感じさせるポーズは、嘉納の柔道家としての「不動の姿勢」を意識したと思われます。
    谷中エリア
  • 荷田在満は江戸中期の国学者で、荷田春満の甥にあたり、学問的後継者です。享保年間江戸に下り学問普及に努力し、その後、幕府の命により京師に赴き大嘗会議を記録し注釈を加えました。また、貞観格式の校訂を行い、田安家に仕えましたがまもなく辞任し、その後は人々を集めて教育を業としました。お墓は金竜寺(きんりゅうじ)境内にあります。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にある石碑で、昭和51年(1976)に「東京魚商業協同組合」によって建立されました。碑文には「四海を海に囲まれた我が国では、(中略)私共水産小売業者は、水揚げされる水産資源に感謝し慎んで魚の霊を悼み、組合創立50周年を機に供養のためこの塚を建立します」とあります。
    上野・御徒町エリア
  • 細井平洲は江戸時代の儒学者です。農家の次男として生まれた平洲は少年の時代より勉学を積み重ね、私塾「嚶鳴館」を開き、多くの人々を教えました。特に上杉鷹山の師として有名になり、内村鑑三は鷹山を「代表的日本人」として挙げ、その師である平洲を「当代最大の学者の一人」として紹介しています。お墓は天嶽院(てんがくいん)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 寿永寺は寛永7年(1630)建立で、寿永法尼が徳川二代将軍秀忠公の菩提を葬うため、この地に庵室を営んだことに起源しています。また、放生会という動物慰霊の文を発願し、布袋尊を勧請して祀っています。幸福を授けるという布袋尊は、地域の人々に長く愛されています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 明治新政府に反抗して討滅された彰義隊の戦死者を供養するために明治15年(1882)に建てられました。上野恩賜公園内の西郷隆盛像の裏手にあります。墓石には旧幕臣山岡鉄舟の筆によって「戦死之墓」とのみ記され、「彰義隊」の文字はありません。墓碑の右手には上野彰義隊資料室があります。
    上野・御徒町エリア
  • 川柳発祥の地碑は、三筋2丁目交差点の南東角に建っている石碑です。平成19年(2007)、川柳発祥250年を記念して建立されました。旧浅草新堀天台宗龍宝寺前(現在の蔵前4丁目)に住んでいた里正柄井八右衛門が無名庵川柳と号し、初めて万句合を興行しました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 扇塚は、上野不忍池の弁天堂の少し手前の左側にある作家佐藤春夫氏の詩文で、扇の形をした碑です。初代花柳寿美の舞扇を納めて、昭和24年(1949)2月、6代目尾上菊五郎、二世花柳寿輔、花柳章太郎氏らの手によって建てられました。
    上野・御徒町エリア
  • 昭和52年(1977)にこけら落としされた浅草公会堂は、毎年1月の新春浅草歌舞伎などの演芸・演劇などの興業や、集会室や展示会などが催されます。客席1000席の大ホールには、浅草寺三社祭や広重の「江戸百景 浅草仲見世」の情景が描かれた鍛帳が雰囲気を創り上げています。
    浅草中央部エリア
  • 対鴎荘は、明治時代の政治家三条実美の別邸でした。征韓論をめぐって政府内に対立が続いていた頃、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していました。明治天皇は病床の実美を気遣い、この邸を訪れています。碑は、この事績を顕彰して建立されたものです。対鴎荘は、多摩市連光寺に移築されました。
    奥浅草エリア
  • 大原重徳は幕末・明治維新期の尊攘派公卿です。幕府が調印した日米修好通商条約に強く反対し、新進公家と共に調印不許可を朝廷に訴え、その後も一貫した尊王攘夷派として活躍しました。維新後は参与、刑法官知事、集議院長官を歴任し明治新政府で活躍しました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 長唄碑は、幕末の長唄中興の祖である杵屋六三郎を賛辞する碑で、不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 東覚寺の創建は室町時代中期(1491)で、門前にある赤紙仁王(あかがみにおう)(石造金剛力士立像)は江戸中に流行していた疫病を鎮めるために宗海(しゅうかい)という僧侶が願主となって寛永18年(1641)に造立されたと伝えられています。この赤紙仁王は、自分の身体に悪いところがあれば、仁王像の同じところに赤紙を貼ると病気が治ると信仰されています。
    谷中エリア
  • 松尾芭蕉(1644~1694)の句碑は、江戸時代寛政8年(1796)、芭蕉の103回忌に、浅草寺弁天山の鐘楼の入り口に建立されました。この句碑、元は浅草寺本堂の銭塚地蔵の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。佐脇嵩雪が描いた芭蕉の座像が線刻してありますが、200年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっています。
    浅草中央部エリア
  • 目黄不動は寛永年間(1624~1643)の中頃、三代将軍家光が天海大僧正の具申をうけ、江戸の鎮護と天下泰平を祈願して、5つの方角の不動尊を選んで割り当てた江戸五色不動(目白・目赤・目黒・目青・目黄)の一つです。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 柳瀬美仲は、江戸時代中期の歌人。、京都で詠歌を武者小路実陰の門に学んだ後、江戸に出て和歌を教授しました。「はつせ路や 初音聞かまく尋ねても まだこもりくの山ほととぎす」の一首によって、世人は美仲を「こもりくの美仲先生」と呼びました。元文5年(1740)に没し、「隠口先生美仲甫之墓」と刻まれた墓が教證寺(きょうしょうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 上野恩賜公園内の下町風俗資料館に近い植え込みの中に「龍門橋」と刻まれた石碑です。江戸時代には池の周りをめぐる堀があり、その堀にかかる小橋がいくつかありました。龍門橋はその中の一つで、ほかに月見橋、蓮見橋、花見橋などがありましたが、いずれも昭和初期にその姿を消し、今はこの石碑にその名残がわずかに残るだけです。
    上野・御徒町エリア
  • 暦塚は、第73代首相中曽根康弘氏による碑文が刻まれており、全国カレンダー出版協同組合連合会等により建立されました。この石碑は不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 幕末・明治時代の戯作者・新聞記者である假名垣魯文の墓と魯文の猫塔記念碑は永久寺(えいきゅうじ)にあります。魯文は長じて商家に奉公したが、戯作者を志し、式亭三馬や十返舎一九などの戯作を耽読、諸方を遊歴して作家生活に入りました。その後、世相を風刺した作品を発表し、明治開花期の花形作家となりました。墓石には、聖観音を線刻した板碑がはめ込まれています。
    谷中エリア
  • 屋形船は、江戸時代の末頃に始まった船遊びで、水の流れや川面を渡る風とともに料理を味わいながら、川岸の風景や夜景を肌で感じることができます。屋形船には乗合船と貸切船があり、浅草橋や柳橋をはじめ月島、浜松町などの発着場から、隅田川をはじめお台場などを周遊するコースがあります。
    浅草中央部エリア
  • 笠森稲荷の本尊は、現在の天王寺の境内にあった養寿院末寺福泉院に祀られていました。明治3年(1870)にこの寺が廃寺になり、現在は江戸百観音の札所として信仰を集めていた養寿院に遷つされています。
    上野・御徒町エリア
  • 宮戸座は明治29年(1896)に開場、座名は隅田川の古称「宮戸川」にちなんだといわれます。関東大震災で焼失後、昭和3年(1928)に再建され、昭和12年(1937)に廃座となりました。この舞台で修業し、のち名優になった人は多く、別名「出世小屋」ともいわれています。宮戸座跡之碑は昭和53年(1978)に建てられました。
    浅草中央部エリア
  • 櫛淵碑は、上野恩師公園内、不忍池の弁天島境内の裏にある「虚沖軒先生碑」と刻まれた石碑です。石碑には、櫛淵彌兵衛宣根の先祖に伝わる香取神道流から、神道一心流を興すに至るまで、簡略に記されています。櫛淵彌兵衛宣根は、一橋徳川家に召抱えられ、以後三代にわたって徳川将軍直々の護衛役として仕えました。
    上野・御徒町エリア
  • 弘田龍太郎は、「春よ来い」や「叱られて」などで知られる大正時代から昭和初期の作曲家である弘田龍太郎の墓は全生庵(ぜんしょうあん)にあります。平成元年(1989)春、親族によって、龍太郎夫妻が眠る墓のかたわらに、「叱られて」(清水かつら作詞)の譜面と、作曲家松村禎三の撰文が浮き彫りされる碑が建立されました。
    谷中エリア
  • 修性院は、江戸時代には境内に数多くの草木を植えて「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、四季の自然を楽しむことができたといわれています。現在の修性院は、本堂に祀られている大きな布袋尊の徳のある姿が有名で、「日ぐらしの布袋」とも呼ばれています。見とれているうちに日が暮れてしまった、という言い伝えです。
    谷中エリア

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