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おでかけや観光におすすめの魅力的なスポットをご紹介します。
うえの華燈路浮世絵行燈は、上野に新しい賑わいを創り出し、観光客などの誘致をさらに高めようと、区観光課が企画して平成19年から始まりました。歌川広重の「名所江戸百景」を用いた浮世絵行燈や高さ1mを超える大型行燈などが上野公園内の大噴水広場から袴腰広場にかけて設置され、夜には行燈が灯されて江戸風情を楽しむことができます。
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明治11年(1878)に三菱財閥初代の岩崎弥太郎が牧野弼成から邸地を購入しました。現存する洋館、大広間は三菱財閥3代の岩崎久弥によって建てられ、明治29年(1896)に竣工したものです。庭園は近代庭園の初期の形を残しています。煉瓦塀を含めた敷地全体が重要文化財に指定されています。
源空寺は、浄土宗の寺で、天正18年(1590)円誉上人が湯島に開山し、明暦3年(1657)の大火で浅草に移転しました。湯島の草庵で多くの信者を集めて、徳川家康も円誉に帰依し江戸城に召して法を聞いていたといわれています。慶長9年(1604)に家康は、寺地と法然上人源空の名にちなんだ源空寺の号を円誉に与えました。
厳有院(家綱)水盤舎は、寛永寺にある厳有院(家綱)霊廟の一部です。寛永寺にある四代将軍家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失しましたが、この水盤舎(重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構です。水盤舎は手水舎のことです。
厳有院(家綱)霊廟は、寛永寺にある霊廟で四代将軍家綱が埋葬されています。霊廟の構造は、天海大僧正の指導により天台宗の根本聖典である法華経の思想に基づいて造営されました。しかし、御霊廟は第二次大戦の際にほとんどが焼失してしまいました。現在では勅額門と水盤舎が現存し、また宝塔は難を逃れ往時を偲(しの)ぶことができます。
徳川家霊廟は、江戸幕府の将軍職を務めた徳川将軍家歴代の墓所のことで、東京の寛永寺、増上寺、日光の輪王寺にあります。上野寛永寺墓地には、徳川将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っています。厳有院(家綱)霊廟と常憲院(綱吉)霊廟の建築物群は、昭和20年(1945)の空襲で大部分を焼失しました。
浄名院は、寛文6年(1666)、上野寛永寺36坊のひとつとして開かれました。江戸時代の寺の隆盛の陰で不徳な僧も生まれたため、妙立和尚が不徳な僧を戒め、清い信仰を広めようと安楽律宗を開き、これを引き継いだ38世妙運大和尚が民衆を救うために八万四千体の石地蔵建立を発願しました。現在では2万体を超える像が造立されています。
昭和34年(1959)に設立され、本館の設計はル・コルビュジエによるものです。財界人松方幸次郎が明治37年(1905)から第二次大戦後にかけて収集した美術品、いわゆる松方コレクション(印象派の絵画およびロダンの彫刻を中心とするフランス美術コレクション)を基礎に、西洋美術に関する作品を広く展示しています。平成28年(2016)7月国立西洋美術館を構成資産に含む「ル・コルビュジェの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」が世界文化遺産に登録されました。
薬祖神の二神、大巳貴命と少彦名命が祀られるとともに、相殿に学問の神様・菅原道真が祀られている五條天神社では、節分の日の夕方、病の鬼を祓う古式床しい追儺式で「蟇目式」「病鬼との問答」「豆まき」等の神事が執り行われます。当日は「追儺の御札・神矢」の他、無病健康の「うけら餅」や「鬼討ち豆・福杓文字」が受けられます。
東京下町八社福参りは、 台東区内の鷲神社・今戸神社・第六天榊神社・下谷神社・小野照崎神社、中央区内の水天宮・小網神社・住吉神社の8つのお社をお参りして8つのお恵みを受けることです。正月七草までの年の始めに家族の開運・無事息災を祈り、お守を受けることで「八方除け、八方開き」にも通じます。