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該当件数320件
  • 天明2年(1782)に本物の溶岩を運んで築かれた、都内でも珍しい富士塚「下谷坂本富士」。
    富士山に誰もが行けるわけではなかった時代、その姿を伝えるべく作られた、直径約15m、高さ約6mのミニチュアの富士山が小野照崎神社の境内にあります。
    一合目から順に十合目まで記されており、南無妙法と書かれた石碑や修験道の開祖である役小角の像も残る等、神仏習合の名残が見て取れます。
    先人の山守りの知恵によって今も当時の荘厳な姿を残していて、国の重要有形民俗文化財に指定されています。
    富士山に合わせて、お山開きが行われ、6月30日と1日には富士塚に登ることができます。

    【Twitter】https://twitter.com/onoterupr
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 室生其角は14、5才の頃に芭蕉に入門し、早くから頭角をあらわしたといわれ、蕉門十哲の第一人者とされる俳人です。芭蕉の死後、次第に蕉風をはなれ、清新華麗な独自の句風をなし、江戸俳壇の中心となりました。宝永4年(1707)に没しています。句碑は出山寺(しゅっさんじ)にあり、「草茎を つつむ葉もなき 雲間哉」と刻まれています。
    奥浅草エリア
  • 上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にある石碑で、昭和51年(1976)に「東京魚商業協同組合」によって建立されました。碑文には「四海を海に囲まれた我が国では、(中略)私共水産小売業者は、水揚げされる水産資源に感謝し慎んで魚の霊を悼み、組合創立50周年を機に供養のためこの塚を建立します」とあります。
    上野・御徒町エリア
  • 護国院は、天海僧正の弟子の生順が釈迦堂の別当寺として寛永元年(1624)に現在の東京国立博物館右手裏に創立した寺です。上野公園一帯には約1200本の桜があり、開花時には花見客で賑わいます。約400年前に、寛永寺を創建した天海僧正が吉野山から桜を移植させ、以来、江戸一番の桜の名所として今日に及んでいます。
    上野・御徒町エリア
  • 細井平洲は江戸時代の儒学者です。農家の次男として生まれた平洲は少年の時代より勉学を積み重ね、私塾「嚶鳴館」を開き、多くの人々を教えました。特に上杉鷹山の師として有名になり、内村鑑三は鷹山を「代表的日本人」として挙げ、その師である平洲を「当代最大の学者の一人」として紹介しています。お墓は天嶽院(てんがくいん)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 至徳の古鐘は、南北朝時代至徳4年(1387)に鋳造されたもので、その時代の鐘は東京都では珍しく、都内有数の古鐘として、特に「至徳の古鐘」と呼ばれています。当初、武蔵国多西郡または騎西郡、あるいは相模国西郡のいずれかの寺にあったものを、後に浅草寺に移したと推察されます。
    現在は、五重塔北側の絵馬堂内に保管されています。絵馬堂は通常非公開となっていますが、不定期で行われる「伝法院庭園拝観と絵馬展」が開催される際は、展示されている至徳の古鐘を見ることができます。
    浅草中央部エリア
  • 狩野芳崖は、墓明治初期に活躍した日本画家で、代表作として「不動明王図」があります。お墓は長安寺(ちょうあんじ)の墓地の中ほどにあり、板碑は死者の菩提を弔うため、生前に自らの死後に備えて供養を行うため建立した塔婆の一種です。長安寺境内には鎌倉・室町時代合わせて4基あり、「長安寺板碑」として台東区の有形文化財に指定されています。
    谷中エリア
  • 宋紫石は江戸中期の画家で、長崎に遊学し、清朝の画家沈南蘋の精緻な写実画をうけついだ熊代熊斐に学びました。さらに宋紫岩の薫陶を受け、名を宋紫石と改め、遂に一家をなし、江戸に帰って、大いに南蘋派を流布させた名匠です。南蘋派は日本の伝統画に写実の思想を再覚醒せしめた近代日本画壇の源流です。お墓は徳本寺(とくほんじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 浄厳律師は江戸時代の真言宗を代表する高僧の一人です。5代将軍徳川綱吉の帰依を受け、招請によって霊雲寺(文京区湯島)の祖となりました。上州馬庭念流18代当主剣豪樋口定伊は神田下谷に道場を構え、門弟は1万人を数えたといわれます。水戸藩徳川斉昭に見込まれ剣術の教授し、天留の術を創案しました。お墓は妙極院(みょうごくいん)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 清水浜臣は、松平定信の知遇を受けた江戸時代後期の医者・国学者で、平安時代の物語や和歌の考証に励みました。広く県居門の遺稿を収集・校正して、「県門遺稿」と題して刊行しました。著書には、「杉田日記」「後撰和歌集補注」「源氏物語名寄図考」などがあります。お墓は善照寺(ぜんしょうじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 聖天宮は、上野不忍池の弁天堂にあるお宮です。江戸時代後期の「江戸名所図会」には、弁天島の北には小島が描かれ、「聖天」と記されています。(「聖天宮 本社の北の方、小島に勧請す。此島は其始弁天の祠ありし旧地なり。其頃もこの聖天の宮ありしにや、今も地主の神と称せり」)
    上野・御徒町エリア
  • 江戸時代の国学者で著名な俳諧師である石川雅望の墓は榧寺(かやでら)境内にあります。雅望は晩年、狂歌をよくし、著書には「源注余滴」「雅言集覧」などがあり、戯者小説類も数種あります。墓がある榧寺は樹齢千年の榧の木にちなんで名づけられた寺で、大きな榧の木から作られた火除けの神、秋葉権現で知られています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 曹源寺(かっぱ寺)は、江戸時代には大雨のたびに掘割の溢れた水に苦しむ住民のために雨合羽商の喜八は私財を投じて水はけ工事を行い、これを河童が手伝って瞬く間に完成させたといわれています。この噂が広まり「かっぱ寺」とも呼ばれ、特に水に縁のある商売人から信仰されています。
    浅草中央部エリア
  • 地下鉄浅草駅は、昭和2年(1927)に東洋初に地下鉄開業した浅草~上野間の始発駅として誕生しました。重厚な鋼鉄製の柱や地下鉄開業当時のレトロなポスター、駅構内の出入り口の上屋など社寺のような和風デザインは、昭和初期のならではのモダンなセンスがうかがえます。
    浅草中央部エリア
  • 明治時代の教育者、啓蒙学者である中村正直の墓は了~寺(りょうごんじ)にあります。正直は昌平坂学問所に入り、佐藤一斎について儒学を学びました。大蔵省翻訳御用・女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)校長・東京帝国大学教授・貴族院議員などに歴任しました。また、訓盲院の開設など女子教育や障害者教育にも力を注ぎました。明治24(1891)病没しました。
    谷中エリア
  • 長唄碑は、幕末の長唄中興の祖である杵屋六三郎を賛辞する碑で、不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 長昌寺の銅鐘は、総高147cm。享保5年(1720)に小幡内匠勝行という当時を代表する鋳物師の一人が製作しました。銅鐘は長昌寺(ちょうしょうじ)の歴史を刻んでいますほか、今戸付近の歴史を知る上で貴重な文化財となっています。
    奥浅草エリア
  • 嘉永・安政時代に下谷坂本村字入谷に住んでいた植木師の成田屋山崎留次郎が、東の朝顔造りの大関であったと記録が残っています。入谷が朝顔で有名になったのは、明治になってからのことで、土質が朝顔造りに適していたのか、十数件の植木屋が、一軒500~600坪の土地を有し、軒を連ねて朝顔造りをはじめました。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 琵琶の碑は、福徳・諸芸能上達の神として広く信仰されている弁財天の琵琶を模してつくられた石碑です。この石碑は、不忍池の中央にある弁天島にあり、「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 幕末から明治時代にかけての武士(幕臣)・ジャーナリスト・作家・劇作家である福地桜痴の墓は谷中霊園にあります。通称は源一郎といいます。毎日新聞の前身である東京日々新聞の主筆として筆を奮い、初めて社説を採用するなど明治時代のジャーナリズムに大きく貢献し、新聞界を去った後は、文学者として活躍しました。
    谷中エリア
  • 両大師は、江戸時代正保元年(1644)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立されました。天海僧正と天海が最も尊敬した平安時代の高僧慈恵大師の二大師を祀ることから「両大師」と呼ばれるようになりましたが、正式には「寛永寺開山堂」といいます。堂内にある天海僧正坐像は有形文化財に指定されています。
    上野・御徒町エリア
  • 滋養のため、食材として、人々の胃袋におさめられたスッポンに感謝するために建立された塔です。上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にあります。塔自体はスッポンの形をしていませんが輪郭が彫ってあります。
    上野・御徒町エリア
  • 阿部友之進は、江戸中期、徳川吉宗治世期に活躍した本草学者です。本草学を曽占春、岩崎灌園に学び、漢学を登場琴台に学びました。元年(1861)幕府が派遣した咸臨丸に乗船し小笠原の実地調査にあたりました。明治3年没。そのお墓は梅林寺(ばいりんじ)にあり、都の旧跡に指定されている(昭和3年指定)。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 荷田在満は江戸中期の国学者で、荷田春満の甥にあたり、学問的後継者です。享保年間江戸に下り学問普及に努力し、その後、幕府の命により京師に赴き大嘗会議を記録し注釈を加えました。また、貞観格式の校訂を行い、田安家に仕えましたがまもなく辞任し、その後は人々を集めて教育を業としました。お墓は金竜寺(きんりゅうじ)境内にあります。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 亀田鵬斉は、江戸時代の代表的な儒学者の一人で、詩、書、画にも人並みはずれた才能を発揮した学者、芸術家です。作品は寺社仏閣の碑や扁額、個人所有書画等、数多く存在します。 お墓は称福寺(しょうふくじ)にあります。
    奥浅草エリア
  • 江戸時代後期の著名な歴史人物画家である菊池容斎の墓は谷中霊園にあります。容斎は高田円乗の門に入って狩野派の画法を学び、絵を極めるには先哲の古跡を研究する必要があるとしてこれに専念し、一家を成しました。88才の時にアメリカの博覧会に出品して賞牌を受けました。また、明治天皇に「日本画史」の称を賜りました。
    谷中エリア
  • 慈海僧正は、寛永寺の門主・輪王寺宮の名代を勤める東叡山凌雲院の学頭の4代目です。東叡山護国院、目黒不動、比叡山西塔宝園院、川越仙波の喜多院を経て東叡山凌雲院の住職となりました。お墓は、当初凌雲院境内墓地にありましたが、昭和33年(1958)東京文化会館の建設のため寛永寺に移築されました。
    上野・御徒町エリア
  • 小花作助は、江戸時代の幕臣で小笠原諸島の開発者です。文久元年(1861)には小笠原開拓御用を命ぜられ咸臨丸で渡航して島務にあたりました。維新後は小笠原島内務省出張所の初代所長を命ぜられました。遺品は小笠原の実体を明らかにする貴重な資料として、東京都有形文化財に指定されています。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 明治新政府に反抗して討滅された彰義隊の戦死者を供養するために明治15年(1882)に建てられました。上野恩賜公園内の西郷隆盛像の裏手にあります。墓石には旧幕臣山岡鉄舟の筆によって「戦死之墓」とのみ記され、「彰義隊」の文字はありません。墓碑の右手には上野彰義隊資料室があります。
    上野・御徒町エリア
  • 虫塚は、寛永寺境内にあります。伊勢長島藩主である増山雪斎の遺志で写生に使った虫類を供養した碑で、文政4年(1821)に建てられました。当初、寛永寺子院勧善院内にありましたが、昭和初期に現在地に移転しました。碑は自然石で、正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は、詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 木製の本棚と家具が配された居心地のよい図書室では、開催中の展覧会の関連書籍を多数紹介するほか、美術図書や展覧会カタログ、美術雑誌などを自由に閲覧できる。館の歴史に関するアーカイブズ資料をはじめ、教育普及に関連する資料や、公募団体に関連する資料も保管している。
    (画像提供:東京都美術館)
    上野・御徒町エリア
  • 宝永7年(1710年)、江戸六地蔵の2番目に奥州街道の旅人の安全を祈願して街道の入口にある東禅寺に建立されました。その他、品川寺(東海道)、太宗寺(甲州街道)、真性寺(中山道)、霊巌寺(千葉街道)、永代寺(千葉街道)に地蔵が建立されていました。
    奥浅草エリア
  • 日本スポーツ文化賞栄誉広場は、平成8年(1996)に上野恩賜公園内に設置されました。日本スポーツ文化賞栄誉広場には、国民栄誉賞受賞者の手形が展示されています。
    上野・御徒町エリア
  • 白鬚橋は隅田川にかかる橋で、橋名は東岸にある「白鬚神社」にちなんでいます。創架は大正3年(1914)で近在の人々が基金を募り完成した木橋でした。現在の橋は、昭和6年(1931)に竣工し、橋長は168m、幅員は22mのアーチ形式です。
    奥浅草エリア
  • 板碑は石造の塔婆で、板石塔婆ともいいます。鎌倉時代から室町時代にかけて、追善供養などの目的で造られました。龍宝寺にある板碑は高さ155.8cm、上端の幅39cm、下端の幅44.5cm、厚さ約5cmです。中央に不動明王の種子(仏体を表した梵字)を刻むため、「不動板碑」と呼ばれ、区内現存の板碑を代表するもののひとつです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 目黄不動は寛永年間(1624~1643)の中頃、三代将軍家光が天海大僧正の具申をうけ、江戸の鎮護と天下泰平を祈願して、5つの方角の不動尊を選んで割り当てた江戸五色不動(目白・目赤・目黒・目青・目黄)の一つです。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 了翁禅師塔碑は、寛永寺にある石碑です。了翁は僧門に入り、諸国を巡錫している途中、夢の中で一種の筆法を修得し、これを錦袋円と名付け、上野不忍池の池畔に店舗を営みました。そこで得た私財を江戸大火の際に罹災民の救済に投じ、また、勧学寮という学問所などを建立し教育に尽力しました。
    上野・御徒町エリア
  • 修性院は、江戸時代には境内に数多くの草木を植えて「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、四季の自然を楽しむことができたといわれています。現在の修性院は、本堂に祀られている大きな布袋尊の徳のある姿が有名で、「日ぐらしの布袋」とも呼ばれています。見とれているうちに日が暮れてしまった、という言い伝えです。
    谷中エリア
  • 坂東報恩寺にあるこの鐘が鋳造されたのは、慶安元年(1648)で、当時報恩寺(ほうおんじ)は八丁堀にありました。銘文によると、報恩寺14世住持宣了らの発願で作られました。鋳造者は江戸幕府の命で京都から江戸に下った御用釜師堀浄栄の息子浄甫をさします。この銅鐘は平成8年(1996)に台東区有形文化財として登載されました。
    上野・御徒町エリア
  • 東京文化会館内にある音楽資料室です。数少ない音楽専門の図書館として昭和36年(1961)に開設されました。クラシック音楽を中心に、民族音楽、邦楽、舞踊などの資料を無料で閲覧・視聴することができます。また、都内で活動するアマチュアの演奏団体にオーケストラ・吹奏楽用のパート譜の館外貸出も行っています。
    上野・御徒町エリア

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