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該当件数319件
  • 江戸時代後期の儒学者である塩谷宕陰の墓は谷中墓地と称される区域の天王寺霊園にあります。宕陰は昌平黌に入門し、また松崎慊堂に学びました。遠江掛川藩主の太田氏に仕え、ペリー来航の際に献策し、海防論を著しました。芳野金陵、安井息軒と並んで安政・文久の三博士と称えられ昌平黌の教授として多くの文人を育て、慶応3年 (1867)に没しました。
    谷中エリア
  • ㈱大淵銀器の中にある展示館です。台東区には銀器製作に携わる職人が多く、伝統工芸「東京銀器」として広く知られています。この展示館では、東京銀器の他、イギリス・イタリア・トルコなど、世界各地の銀器を新作からアンティークなものまで展示公開しています。
    上野・御徒町エリア
  • 日暮里の地は、江戸時代中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれて、四季折々の花樹を楽しむ江戸の人々の行楽地として賑わいました。青雲寺は修性院と共に「花見寺」と呼ばれ、豊かな自然に囲まれて草花を数多く植えた美しい庭園があったといわれています。また、滝沢馬琴(たきざわばきん)筆塚の碑があります。
    谷中エリア
  • 太皷館では世界各国から収集された太鼓とその参考資料を永久保存し、広く一般に公開されています。収蔵品は900点にものぼり、いずれもが歴史・文化・民俗学的観点からも貴重であるばかりでなく資料的価値では世界一級のものばかりです。
    浅草中央部エリア
  • 谷中1丁目のみかどパン店のあるヒマラヤ杉の入り口から頤神禅院へと北へのびる約100mほどの直線の参道の名前です。クチナシの垣根があり、花期(梅雨が始まる時期)には甘い香りが漂います。この道の風景は谷根千界隈のランドマークとして挙げられる風景でもあります。
    谷中エリア
  • 花川戸助六の歌碑は、明治12年(1879)に九世市川団十郎が中心となり、花川戸公園内の仰願寺に建立されました。関東大震災で崩壊し、後に現在地に再造立されました。碑面には「助六にゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で鬼は外なり」とあります。歌舞伎十八番の一つ「助六」は、代々の団十郎が伝えていますが、助六の実像は不明です。
    浅草中央部エリア
  • 江戸時代の初期、寛文年間(1661~72)遊女采女(うねめ)は若い僧侶との悲恋の末に鏡ヶ池に身を投げ、翌朝、草刈りの人たちが「名をそれとしらずともしれさる沢の あとをかがみが池にしずめば」としるした短冊を見つけ、采女とわかり、塚に葬りました。塚の碑は出山寺(しゅっさんじ)にあります。
    奥浅草エリア
  • 初代柄井川柳は、川柳の創始者です。川柳は江戸時代の前句付の点者で、川柳撰集である「柳多留」の編纂でも有名です。その墓は龍宝寺(りゅうほうじ)にあり、別名「川柳寺」とも呼ばれます。龍宝寺は上野の寛永寺を開山した天海大僧正の法兄にあたる豪海大僧正が開山した天台宗寺院で、不動明王の梵字を刻んだ板碑が境内に残っています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 川路聖謨トルは、幕末の外国奉行。奈良奉行、大阪奉行を歴任した後、外国奉行に就任し、下田で日露和親条約に調印したましが井伊大老と日米和親条約締結で対立により失脚しました。後に外国奉行に復権しましたが、慶応4(1868)年、江戸開城の報に接し、ピストルで自決しました。お墓は大正寺(たいしょうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 駒形堂の横に建つ「浅草観音戒殺碑」の趣旨は「十町余の川筋で魚介の殺生を禁じる」というもので、江戸時代元禄6年(1693)に浅草寺第四世宣存が願主となって建立、その後の火災で倒壊して宝歴9年(1759)に造り直されています。昭和2年(1927)に土中から発見され、同8年に修補再建された碑がどちらのものであるかは不明です。
    浅草中央部エリア
  • 浅草文庫は、明治7年(1874)に創設された官立の図書館で、その跡碑が榊神社境内にあります。当時の和・漢・洋の蔵書数は11万~13万冊ともいわれ、明治14年に封鎖されました。現在、その蔵書は国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館などに所蔵され、太政大臣三条実美の筆蹟と伝える「浅草文庫」の朱印が押されています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 創業90余年の伝統的木造銭湯です。日替わりの薬湯が人気で、地元の人々を長年にわたり癒してた「下町の銭湯」です。店内にはジャズ音楽が流れ、グレープフルーツの輪切りや生姜、吟醸酒を使った湯が提供されることもあるといいます。谷中散歩の途中に立ち寄る人も多いです。
    谷中エリア
  • 日本スポーツ文化賞栄誉広場は、平成8年(1996)に上野恩賜公園内に設置されました。日本スポーツ文化賞栄誉広場には、国民栄誉賞受賞者の手形が展示されています。
    上野・御徒町エリア
  • 背面地蔵は正保4年(1647)の創立で一丈三尺余りです。 その昔奥州街道の傍、 道路仏として西向きに立てられましたが、 後に明和元年 (1764) 道筋が寺の東側に改り、 地蔵尊を前向きに建て直したところ、 不思議な事に一夜のうちに元の向きになったと人々に伝えられて、 この尊称が起こったといわれています。薬王寺(やくおうじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 八橋検校顕彰碑は、東京・上野不忍池の弁天堂境内にあります。八橋検校(1614-1685)は、生田流、山田流などの箏曲の祖と言われています。箏組歌13曲、段物3曲などを制定し、現在の箏曲の基礎を築きました。顕彰碑は昭和41年(1966)に建立されました。顕彰碑の下方には石造りの箏も置かれています。
    上野・御徒町エリア
  • 滋養のため、食材として、人々の胃袋におさめられたスッポンに感謝するために建立された塔です。上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にあります。塔自体はスッポンの形をしていませんが輪郭が彫ってあります。
    上野・御徒町エリア
  • 岡崎屋勘六は江戸末期の書家・勘亭流の祖で、勘亭流とは江戸歌舞伎の看板、番付、台本などに使われる特殊な書体のことです。安永8年(1779)、江戸中村座の依頼を受け、春狂言の大名題を書きました。これが歌舞伎文字勘亭流の始まりとされます。現在もこの伝統は継承され歌舞伎看板などで使われています。 お墓は清光寺(せいこうじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 下村観山は、現代日本美術の発展に寄与した画家です。観山は幼少から絵を好み、東京美術学校(東京芸術大学)に学び、卒業後、同校助教授となりました。岡倉天心の日本美術院創立に参加し、横山大観らと活躍、昭和5年(1930)に没しました。歴史を題材としたものを得意とし、「弱法師」は代表作です。お墓は安立寺(あんりゅうじ)にあります。
    谷中エリア
  • 【現在この像は朝倉彫塑館に収蔵されており、定期的に公開される予定です】
    この像は、台東区名誉区民にして彫刻家である朝倉文夫の作品の一つであり、嘉納治五郎が全身全霊を傾けた1940年の東京オリンピック招致が成功(のちに返上)した、1936年に制作されました。
    朝倉文夫は、1907~1910年ころに嘉納と知り合ったと推察されます。その後も縁があり、嘉納の人柄や骨格などを熟知していた朝倉は、嘉納の海外出張中に本作を制作して周囲を驚かせました。しっかりした体幹を感じさせるポーズは、嘉納の柔道家としての「不動の姿勢」を意識したと思われます。
    谷中エリア
  • 下谷神社(したやじんじゃ)の境内に「寄席発祥之地」の石碑があります。江戸時代寛政10年(1798)に馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎(のちの三笑亭可楽)が、素人噺家として入場料をとって興行を行ったことが、寄席のはじまりだといわれています。
    上野・御徒町エリア
  • 宮戸座は明治29年(1896)に開場、座名は隅田川の古称「宮戸川」にちなんだといわれます。関東大震災で焼失後、昭和3年(1928)に再建され、昭和12年(1937)に廃座となりました。この舞台で修業し、のち名優になった人は多く、別名「出世小屋」ともいわれています。宮戸座跡之碑は昭和53年(1978)に建てられました。
    浅草中央部エリア
  • 泥舟は幕末期の幕臣・槍術家である高橋泥舟の墓は大雄寺(だいおうじ)にあります。山岡鉄舟の義兄にあたります。剣術の名人として世に賞賛され、幕府講武所教授、師範役となり従五位下伊勢守に叙任されました。廃藩置県後は要職を退き、隠棲し書を楽しんだといわれます。勝海舟・山岡鉄舟と共に幕末の三舟といわれています。
    谷中エリア
  • 昭和24年(1949)に国立図書館が文部省から国立国会図書館に移管されて成立した、国立国会図書館の支部図書館です。戦前の日本において唯一の国立図書館であった帝国図書館の後身で、上野公園に林立する文化施設の一つとして親しまれてきましたが、現在は国際子ども図書館へと改装開館しました。
    上野・御徒町エリア
  • 渋沢栄一は、幕末から大正初期に活躍した大実業家で、近代日本の資本主義の父といわれています。大蔵省退職後は第一国立銀行や東京ガス、帝国ホテルなど、500以上の企業の設立・経営に関わり財界に君臨しました。経済界引退後は教育家としても活躍し、商法講習所(一橋大学)などの設立に参画しました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 江戸中期の儒学者である太田錦城の墓は一乗寺(いちじょうじ)にあります。錦城は皆川洪圓、山本北山に折衷派を学びましたが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、ついに一家を成しました。いわゆる折衷学派といいます。 晩年に至り一時、近畿に遊び、老中吉田候に仕えましたが、前田家に賓使としてまぬかれ、三百石を給せられました。
    谷中エリア
  • 家康の頃から幕府のお菓子司をつとめた大久保主水の墓は瑞輪寺(ずいりんじ)にあります。家康が江戸で町づくりを始めた際に用水事業を命ぜられ、井の頭池などの河流を利用し江戸城・市中の引水に成功し、これが日本の水道の先駆けとなりました。この功により家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「もんと」と読むようになったといわれます。
    谷中エリア
  • 蓬莱園と命名された庭園は、江戸時代、肥前の国平戸藩主の松浦家の別邸庭園として造られたものです。鳥越川の水を取り込んだ大泉水を中心に、二千六百坪の敷地に築山や東屋、四季の花木、蓬莱の仙郷を思わせる名園だったようですが、関東大震災で荒廃し、現在は都立忍岡高校校庭に池の一部と都指定の天然記念物の大イチョウを残すのみです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 北村季吟は江戸時代前期の歌人・俳人で、祖父・父を継いで医学を業としていましたが、俳人安原貞室、松永貞徳の門に入り、和歌・俳諧を学び貞門派俳諧の新鋭といわれました。同門は松尾芭蕉らを輩出しました。元禄2年(1689)、幕府歌学所に補せられ、再昌院法印の称を受けました。お墓は正慶寺(しょうけいじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 柳瀬美仲は、江戸時代中期の歌人。、京都で詠歌を武者小路実陰の門に学んだ後、江戸に出て和歌を教授しました。「はつせ路や 初音聞かまく尋ねても まだこもりくの山ほととぎす」の一首によって、世人は美仲を「こもりくの美仲先生」と呼びました。元文5年(1740)に没し、「隠口先生美仲甫之墓」と刻まれた墓が教證寺(きょうしょうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 暦塚は、第73代首相中曽根康弘氏による碑文が刻まれており、全国カレンダー出版協同組合連合会等により建立されました。この石碑は不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 室生其角は14、5才の頃に芭蕉に入門し、早くから頭角をあらわしたといわれ、蕉門十哲の第一人者とされる俳人です。芭蕉の死後、次第に蕉風をはなれ、清新華麗な独自の句風をなし、江戸俳壇の中心となりました。宝永4年(1707)に没しています。句碑は出山寺(しゅっさんじ)にあり、「草茎を つつむ葉もなき 雲間哉」と刻まれています。
    奥浅草エリア
  • 狩野芳崖は、墓明治初期に活躍した日本画家で、代表作として「不動明王図」があります。お墓は長安寺(ちょうあんじ)の墓地の中ほどにあり、板碑は死者の菩提を弔うため、生前に自らの死後に備えて供養を行うため建立した塔婆の一種です。長安寺境内には鎌倉・室町時代合わせて4基あり、「長安寺板碑」として台東区の有形文化財に指定されています。
    谷中エリア
  • 明治時代の教育者、啓蒙学者である中村正直の墓は了~寺(りょうごんじ)にあります。正直は昌平坂学問所に入り、佐藤一斎について儒学を学びました。大蔵省翻訳御用・女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)校長・東京帝国大学教授・貴族院議員などに歴任しました。また、訓盲院の開設など女子教育や障害者教育にも力を注ぎました。明治24(1891)病没しました。
    谷中エリア
  • 虫塚は、寛永寺境内にあります。伊勢長島藩主である増山雪斎の遺志で写生に使った虫類を供養した碑で、文政4年(1821)に建てられました。当初、寛永寺子院勧善院内にありましたが、昭和初期に現在地に移転しました。碑は自然石で、正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は、詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 幕末から明治時代にかけての武士(幕臣)・ジャーナリスト・作家・劇作家である福地桜痴の墓は谷中霊園にあります。通称は源一郎といいます。毎日新聞の前身である東京日々新聞の主筆として筆を奮い、初めて社説を採用するなど明治時代のジャーナリズムに大きく貢献し、新聞界を去った後は、文学者として活躍しました。
    谷中エリア
  • 幕末から明治初期にかけての大名・政治家で宇和島藩8代藩主伊達宗城の墓は谷中霊園にあります。宗城は藩政の重点を富国強兵・殖産興業策をとり、蝋の専売制、藩兵の洋式訓練等を実施し、藩権力の強化に成功しました。将軍継承問題では松平慶永、島津斉彬、山内豊信の諸侯と共に慶喜を擁立し(幕末の四賢候といわれます)幕政改革を志す一橋派の有力メンバーとなって活躍しました。
    谷中エリア
  • 永久寺は江戸五色不動(えどごしきふどう)の一つ、目黄不動として知られています。開創は14世紀の南北朝騒乱の頃とされます。その後の歴史の流れの中でいくたびか戦乱などによって焼失し、 再建を繰り返してきました。 一歩山門を入りますと樹齢一千年を越える松の木が、 御仏と共に訪れる人を静かに迎えています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 荷田在満は江戸中期の国学者で、荷田春満の甥にあたり、学問的後継者です。享保年間江戸に下り学問普及に努力し、その後、幕府の命により京師に赴き大嘗会議を記録し注釈を加えました。また、貞観格式の校訂を行い、田安家に仕えましたがまもなく辞任し、その後は人々を集めて教育を業としました。お墓は金竜寺(きんりゅうじ)境内にあります。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 笠森稲荷の本尊は、現在の天王寺の境内にあった養寿院末寺福泉院に祀られていました。明治3年(1870)にこの寺が廃寺になり、現在は江戸百観音の札所として信仰を集めていた養寿院に遷つされています。
    上野・御徒町エリア
  • 細井平洲は江戸時代の儒学者です。農家の次男として生まれた平洲は少年の時代より勉学を積み重ね、私塾「嚶鳴館」を開き、多くの人々を教えました。特に上杉鷹山の師として有名になり、内村鑑三は鷹山を「代表的日本人」として挙げ、その師である平洲を「当代最大の学者の一人」として紹介しています。お墓は天嶽院(てんがくいん)境内にあります。
    浅草中央部エリア

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