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該当件数320件
  • 常陸山谷右衛門は、明治時代に活躍した第19代横綱です。現役時代には二代目梅ヶ谷藤太郎との「梅・常陸時代」で角界を隆盛に導き、引退後は、年寄・出羽ノ海として名力士を多数育成、現在まで続く出羽海一門の礎を築きました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 銅地蔵は、上野不忍池の弁天堂にある地蔵です。生殖器崇拝(せいしょくきすうはい)は、ヒトの男女の生殖器をかたどった象徴的造形物に、多産、豊穣などをもたらす呪術的な力をみとめ、それに対する信仰、崇拝であり、性器崇拝とも呼ばれています。地蔵の背面は男根形で、前面は陰形をしています。
    上野・御徒町エリア
  • 背面地蔵は正保4年(1647)の創立で一丈三尺余りです。 その昔奥州街道の傍、 道路仏として西向きに立てられましたが、 後に明和元年 (1764) 道筋が寺の東側に改り、 地蔵尊を前向きに建て直したところ、 不思議な事に一夜のうちに元の向きになったと人々に伝えられて、 この尊称が起こったといわれています。薬王寺(やくおうじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 明治6年(1873)、明治天皇は元勲三条実美の別邸対鴎荘に行幸し病床にあった三条実美を見舞われました。御見舞いの帰途、伊達宗城邸で御休息の際、隅田川の冬景色を賞せられた和歌「いつみてもあかぬ景色は隅田川 難美路の花は冬もさきつつ」をお詠みになりました。碑は今戸町の隅田公園内にあります。
    奥浅草エリア
  • 宝泉湯はサウナと日替り薬湯が人気の銭湯です。熱帯魚の水槽が目印となっています。浴室奥の主浴槽、深内に超音波気泡ジェット3連とブクブクの気泡湯、電気風呂があり、並びに、別室となったミストと薬風呂があります。ぬるめの湯の薬風呂、頭上から降りそそぐミストの細かい霧雨が気持ちいいと評判です。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 安藤東野は、荻生徂徠の最初の頃の弟子で、柳沢吉保に仕え、詩文にすぐれた才能を発揮しました。享保4年4月、37歳で没し、没後「東野遺稿」が刊行されました。お墓は福寿院(ふくじゅいん)にあります。
    奥浅草エリア
  • 横山大観顕彰碑は、横山大観記念館入口脇にあります。近代日本画壇の巨匠である横山大観は、明治26年(1894)に東京美術学校卒業、終生校長岡倉天心を敬愛し、東洋の理想を受け継ぎながら、新しい日本画風を創造しました。碑は昭和43年(1968)に東京百年を記念してこの地に建てられました。
    上野・御徒町エリア
  • 亀田鵬斉は、江戸時代の代表的な儒学者の一人で、詩、書、画にも人並みはずれた才能を発揮した学者、芸術家です。作品は寺社仏閣の碑や扁額、個人所有書画等、数多く存在します。 お墓は称福寺(しょうふくじ)にあります。
    奥浅草エリア
  • 弘田龍太郎は、「春よ来い」や「叱られて」などで知られる大正時代から昭和初期の作曲家である弘田龍太郎の墓は全生庵(ぜんしょうあん)にあります。平成元年(1989)春、親族によって、龍太郎夫妻が眠る墓のかたわらに、「叱られて」(清水かつら作詞)の譜面と、作曲家松村禎三の撰文が浮き彫りされる碑が建立されました。
    谷中エリア
  • 至徳の古鐘は、南北朝時代至徳4年(1387)に鋳造されたもので、その時代の鐘は東京都では珍しく、都内有数の古鐘として、特に「至徳の古鐘」と呼ばれています。当初、武蔵国多西郡または騎西郡、あるいは相模国西郡のいずれかの寺にあったものを、後に浅草寺に移したと推察されます。
    現在は、五重塔北側の絵馬堂内に保管されています。絵馬堂は通常非公開となっていますが、不定期で行われる「伝法院庭園拝観と絵馬展」が開催される際は、展示されている至徳の古鐘を見ることができます。
    浅草中央部エリア
  • 明治新政府に反抗して討滅された彰義隊の戦死者を供養するために明治15年(1882)に建てられました。上野恩賜公園内の西郷隆盛像の裏手にあります。墓石には旧幕臣山岡鉄舟の筆によって「戦死之墓」とのみ記され、「彰義隊」の文字はありません。墓碑の右手には上野彰義隊資料室があります。
    上野・御徒町エリア
  • 清水浜臣は、松平定信の知遇を受けた江戸時代後期の医者・国学者で、平安時代の物語や和歌の考証に励みました。広く県居門の遺稿を収集・校正して、「県門遺稿」と題して刊行しました。著書には、「杉田日記」「後撰和歌集補注」「源氏物語名寄図考」などがあります。お墓は善照寺(ぜんしょうじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 日暮里の地は、江戸時代中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれて、四季折々の花樹を楽しむ江戸の人々の行楽地として賑わいました。青雲寺は修性院と共に「花見寺」と呼ばれ、豊かな自然に囲まれて草花を数多く植えた美しい庭園があったといわれています。また、滝沢馬琴(たきざわばきん)筆塚の碑があります。
    谷中エリア
  • 大雄寺のクスノキは、大雄寺境内にある巨木で都内で一番大きいクスノキといわれています。幹回り6.2m、樹高13m、枝張12mで推定樹齢200~300年です。「都市の美観風致を維持するための樹木の保存に関する法律」に基づく都知事指定樹であり、「台東区みどりの条例」保護樹木です。
    谷中エリア
  • 谷文晁は江戸後期文人画家で、狩野派、土佐派、文人画、西洋画など手法を研究し独自の画風を作りました。江戸文人画壇の重鎮となり、画業は上方の円山応挙、狩野探幽とともに「徳川時代の三大家」に数えられます。親交のある松平定信に乞われて近習となって諸国を随行しながら絵を描いたといわれています。お墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 明治時代の教育者、啓蒙学者である中村正直の墓は了~寺(りょうごんじ)にあります。正直は昌平坂学問所に入り、佐藤一斎について儒学を学びました。大蔵省翻訳御用・女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)校長・東京帝国大学教授・貴族院議員などに歴任しました。また、訓盲院の開設など女子教育や障害者教育にも力を注ぎました。明治24(1891)病没しました。
    谷中エリア
  • 虫塚は、寛永寺境内にあります。伊勢長島藩主である増山雪斎の遺志で写生に使った虫類を供養した碑で、文政4年(1821)に建てられました。当初、寛永寺子院勧善院内にありましたが、昭和初期に現在地に移転しました。碑は自然石で、正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は、詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 島田虎之助、直心影流島田派の剣客。幼少より中津藩剣術師範堀十郎左衛門の道場で学び、上達が早く16歳の頃には九州一円を武者修行し名声をあげました。浅草新堀で道場を開き、そこには勝麟太郎(のちの海舟)も通いました。虎之助は幕末の剣豪といわれましたが、嘉永5年(1852)に病没しました。お墓は正定寺(しょうじょうじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア 浅草中央部エリア
  • 東京自動車三十年会記念碑は、上野不忍池の弁天堂境内にあります。わが国自動車業界の黎明期を支えた先達を顕彰する記念碑です。昭和28年(1953)に結成された「三十年会」は、その当時業界歴が30年以上の方々で構成され、会の名の由来となっています。この記念碑は昭和50年(1975)に同会が建立しました。
    上野・御徒町エリア
  • 松尾芭蕉(1644~1694)の句碑は、江戸時代寛政8年(1796)、芭蕉の103回忌に、浅草寺弁天山の鐘楼の入り口に建立されました。この句碑、元は浅草寺本堂の銭塚地蔵の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。佐脇嵩雪が描いた芭蕉の座像が線刻してありますが、200年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっています。
    浅草中央部エリア
  • 弁天院は、水谷(みずのや)伊勢守勝隆が寛永元年(1624)不忍池に弁財天を建立すると同時にその下屋敷であったこの地の邸内の池にも弁財天を祀ったのが由来とされています。両者は姉妹弁財天と呼ばれています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 両大師は、江戸時代正保元年(1644)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立されました。天海僧正と天海が最も尊敬した平安時代の高僧慈恵大師の二大師を祀ることから「両大師」と呼ばれるようになりましたが、正式には「寛永寺開山堂」といいます。堂内にある天海僧正坐像は有形文化財に指定されています。
    上野・御徒町エリア
  • かわとはきものギャラリーには、世界各国の歴史的なはきものや各種参考靴、工具などが展示されています。足形測定機により自身の足の甲回りを採寸することができたり、シマウマや象など変わった皮に触れることもできます。
    浅草中央部エリア
  • 乾山窯元之碑は入谷鬼子母神(真源寺)側の交差点一郭にあります。隣には、「入谷朝顔発祥之碑」があります。琳派の創始者の画家・尾形光琳の弟で作陶が有名な尾形乾山が入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれました。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 明治時代に活躍した詩人、石川啄木の歌碑は等光寺(とうこうじ)の境内にあり、啄木の処女歌集「一握の砂」に収められた「浅草の夜のにぎわひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」という句が刻まれています。啄木生誕70年にあたる昭和30年(1955)に建立されました。
    浅草中央部エリア
  • 扇塚は、上野不忍池の弁天堂の少し手前の左側にある作家佐藤春夫氏の詩文で、扇の形をした碑です。初代花柳寿美の舞扇を納めて、昭和24年(1949)2月、6代目尾上菊五郎、二世花柳寿輔、花柳章太郎氏らの手によって建てられました。
    上野・御徒町エリア
  • 大原重徳は幕末・明治維新期の尊攘派公卿です。幕府が調印した日米修好通商条約に強く反対し、新進公家と共に調印不許可を朝廷に訴え、その後も一貫した尊王攘夷派として活躍しました。維新後は参与、刑法官知事、集議院長官を歴任し明治新政府で活躍しました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 長唄碑は、幕末の長唄中興の祖である杵屋六三郎を賛辞する碑で、不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 鳥居清信は、江戸中期の浮世絵師で鳥居派の始祖。画法を浮世絵師の父から学んだ後、菱川師宣に私淑し、更には狩野派や土佐派の画風もとり入れて独自の画風を築きました。代表作に「立美人」「傘持美人」等があります。享保14年(1729)に没し、浅草法城寺に葬された後、墓は妙顕寺(みょうけんじ)に移されました。
    上野・御徒町エリア
  • 天祐庵は、京都表千家「不審庵」の写しとして、江戸時代安永年間(1780~)に名古屋の牧野邸「太郎庵」として造営され、大正5年(1916)茶人高橋箒庵への譲渡などを経て、昭和33年(1958)に伝法院庭園内に移築されました。躙口や天井などが、利休系草庵茶室の典型とされる見事な比例感を醸し出しています。
    浅草中央部エリア
  • 目黄不動は寛永年間(1624~1643)の中頃、三代将軍家光が天海大僧正の具申をうけ、江戸の鎮護と天下泰平を祈願して、5つの方角の不動尊を選んで割り当てた江戸五色不動(目白・目赤・目黒・目青・目黄)の一つです。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 暦塚は、第73代首相中曽根康弘氏による碑文が刻まれており、全国カレンダー出版協同組合連合会等により建立されました。この石碑は不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 年始に七福神(恵比寿、大黒、毘沙門、弁財、布袋、福禄寿、寿老人)を祀る神社仏閣を参詣し、一年の平穏を祈る正月行事。江戸時代末期に始まり戦後は中断していましたが、1977年に復活し今日に受け継がれ親しまれています。

    浅草名所七福神の特徴は福禄寿、寿老人が2社ずつあり、巡る社寺が9ヶ所あるところ。九は数の究み、鳩と言う字にも使われていて、鳩は「集まる」という縁起の良い意味を持つ故事に由来しているそうです。福笹に各社寺の福絵馬をつけ、色紙・福絵に御朱印をいただきながら巡拝しましょう。

    江戸文化発祥の地といわれる浅草には、観音様の境内を中心として広く各所に名所・旧跡があります。七福神をめぐる途中、これらの名跡も訪ねながら江戸文化の面影を偲んでみてはいかがでしょうか。
    御利益にあやかりながらの散策は、福徳と心の安らぎを与えてくれることでしょう。
    浅草中央部エリア 奥浅草エリア
  • 永久寺は江戸五色不動(えどごしきふどう)の一つ、目黄不動として知られています。開創は14世紀の南北朝騒乱の頃とされます。その後の歴史の流れの中でいくたびか戦乱などによって焼失し、 再建を繰り返してきました。 一歩山門を入りますと樹齢一千年を越える松の木が、 御仏と共に訪れる人を静かに迎えています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 荷田在満は江戸中期の国学者で、荷田春満の甥にあたり、学問的後継者です。享保年間江戸に下り学問普及に努力し、その後、幕府の命により京師に赴き大嘗会議を記録し注釈を加えました。また、貞観格式の校訂を行い、田安家に仕えましたがまもなく辞任し、その後は人々を集めて教育を業としました。お墓は金竜寺(きんりゅうじ)境内にあります。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 三島政行は、江戸府内の地誌「御府内風土記」「新編武蔵風土記稿」などの編纂に従事しました。幕命によって、江戸府内の地誌「御府内風土記」の編纂を行い、3年にして完了しましたが、明治5年(1872)に焼失、その際に災を免れた資料集が「御府内備考」です。お墓は浄念寺(じょうねんじ)境内にあります。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 宋紫石は江戸中期の画家で、長崎に遊学し、清朝の画家沈南蘋の精緻な写実画をうけついだ熊代熊斐に学びました。さらに宋紫岩の薫陶を受け、名を宋紫石と改め、遂に一家をなし、江戸に帰って、大いに南蘋派を流布させた名匠です。南蘋派は日本の伝統画に写実の思想を再覚醒せしめた近代日本画壇の源流です。お墓は徳本寺(とくほんじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 象牙工芸館では、アフリカ象と象牙原産国の紹介や彫刻品、美術品などを紹介しています。象牙の保護や輸出入に関するワシントン条約がわかりやすく説明されています。また、象牙製品の修理をお願いすることができます。
    浅草中央部エリア
  • 真友の碑は、英語で書かれており、昭和51年(1976)に建立されました。この石碑は不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸時代の国学者で著名な俳諧師である石川雅望の墓は榧寺(かやでら)境内にあります。雅望は晩年、狂歌をよくし、著書には「源注余滴」「雅言集覧」などがあり、戯者小説類も数種あります。墓がある榧寺は樹齢千年の榧の木にちなんで名づけられた寺で、大きな榧の木から作られた火除けの神、秋葉権現で知られています。
    浅草橋・蔵前エリア

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