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該当件数319件
  • 天祐庵は、京都表千家「不審庵」の写しとして、江戸時代安永年間(1780~)に名古屋の牧野邸「太郎庵」として造営され、大正5年(1916)茶人高橋箒庵への譲渡などを経て、昭和33年(1958)に伝法院庭園内に移築されました。躙口や天井などが、利休系草庵茶室の典型とされる見事な比例感を醸し出しています。
    浅草中央部エリア
  • 東京文化会館内にある音楽資料室です。数少ない音楽専門の図書館として昭和36年(1961)に開設されました。クラシック音楽を中心に、民族音楽、邦楽、舞踊などの資料を無料で閲覧・視聴することができます。また、都内で活動するアマチュアの演奏団体にオーケストラ・吹奏楽用のパート譜の館外貸出も行っています。
    上野・御徒町エリア
  • 板碑は石造の塔婆で、板石塔婆ともいいます。鎌倉時代から室町時代にかけて、追善供養などの目的で造られました。龍宝寺にある板碑は高さ155.8cm、上端の幅39cm、下端の幅44.5cm、厚さ約5cmです。中央に不動明王の種子(仏体を表した梵字)を刻むため、「不動板碑」と呼ばれ、区内現存の板碑を代表するもののひとつです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 柳瀬美仲は、江戸時代中期の歌人。、京都で詠歌を武者小路実陰の門に学んだ後、江戸に出て和歌を教授しました。「はつせ路や 初音聞かまく尋ねても まだこもりくの山ほととぎす」の一首によって、世人は美仲を「こもりくの美仲先生」と呼びました。元文5年(1740)に没し、「隠口先生美仲甫之墓」と刻まれた墓が教證寺(きょうしょうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 幕末・明治時代の戯作者・新聞記者である假名垣魯文の墓と魯文の猫塔記念碑は永久寺(えいきゅうじ)にあります。魯文は長じて商家に奉公したが、戯作者を志し、式亭三馬や十返舎一九などの戯作を耽読、諸方を遊歴して作家生活に入りました。その後、世相を風刺した作品を発表し、明治開花期の花形作家となりました。墓石には、聖観音を線刻した板碑がはめ込まれています。
    谷中エリア
  • 阿部友之進は、江戸中期、徳川吉宗治世期に活躍した本草学者です。本草学を曽占春、岩崎灌園に学び、漢学を登場琴台に学びました。元年(1861)幕府が派遣した咸臨丸に乗船し小笠原の実地調査にあたりました。明治3年没。そのお墓は梅林寺(ばいりんじ)にあり、都の旧跡に指定されている(昭和3年指定)。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 宮戸座は明治29年(1896)に開場、座名は隅田川の古称「宮戸川」にちなんだといわれます。関東大震災で焼失後、昭和3年(1928)に再建され、昭和12年(1937)に廃座となりました。この舞台で修業し、のち名優になった人は多く、別名「出世小屋」ともいわれています。宮戸座跡之碑は昭和53年(1978)に建てられました。
    浅草中央部エリア
  • 弘田龍太郎は、「春よ来い」や「叱られて」などで知られる大正時代から昭和初期の作曲家である弘田龍太郎の墓は全生庵(ぜんしょうあん)にあります。平成元年(1989)春、親族によって、龍太郎夫妻が眠る墓のかたわらに、「叱られて」(清水かつら作詞)の譜面と、作曲家松村禎三の撰文が浮き彫りされる碑が建立されました。
    谷中エリア
  • 至徳の古鐘は、南北朝時代至徳4年(1387)に鋳造されたもので、その時代の鐘は東京都では珍しく、都内有数の古鐘として、特に「至徳の古鐘」と呼ばれています。当初、武蔵国多西郡または騎西郡、あるいは相模国西郡のいずれかの寺にあったものを、後に浅草寺に移したと推察されます。
    現在は、五重塔北側の絵馬堂内に保管されています。絵馬堂は通常非公開となっていますが、不定期で行われる「伝法院庭園拝観と絵馬展」が開催される際は、展示されている至徳の古鐘を見ることができます。
    浅草中央部エリア
  • 真友の碑は、英語で書かれており、昭和51年(1976)に建立されました。この石碑は不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 幕末から明治時代にかけての武士(幕臣)・ジャーナリスト・作家・劇作家である福地桜痴の墓は谷中霊園にあります。通称は源一郎といいます。毎日新聞の前身である東京日々新聞の主筆として筆を奮い、初めて社説を採用するなど明治時代のジャーナリズムに大きく貢献し、新聞界を去った後は、文学者として活躍しました。
    谷中エリア
  • 明治6年(1873)、明治天皇は元勲三条実美の別邸対鴎荘に行幸し病床にあった三条実美を見舞われました。御見舞いの帰途、伊達宗城邸で御休息の際、隅田川の冬景色を賞せられた和歌「いつみてもあかぬ景色は隅田川 難美路の花は冬もさきつつ」をお詠みになりました。碑は今戸町の隅田公園内にあります。
    奥浅草エリア
  • 暦塚は、第73代首相中曽根康弘氏による碑文が刻まれており、全国カレンダー出版協同組合連合会等により建立されました。この石碑は不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 滋養のため、食材として、人々の胃袋におさめられたスッポンに感謝するために建立された塔です。上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にあります。塔自体はスッポンの形をしていませんが輪郭が彫ってあります。
    上野・御徒町エリア
  • 下村観山は、現代日本美術の発展に寄与した画家です。観山は幼少から絵を好み、東京美術学校(東京芸術大学)に学び、卒業後、同校助教授となりました。岡倉天心の日本美術院創立に参加し、横山大観らと活躍、昭和5年(1930)に没しました。歴史を題材としたものを得意とし、「弱法師」は代表作です。お墓は安立寺(あんりゅうじ)にあります。
    谷中エリア
  • 【現在この像は朝倉彫塑館に収蔵されており、定期的に公開される予定です】
    この像は、台東区名誉区民にして彫刻家である朝倉文夫の作品の一つであり、嘉納治五郎が全身全霊を傾けた1940年の東京オリンピック招致が成功(のちに返上)した、1936年に制作されました。
    朝倉文夫は、1907~1910年ころに嘉納と知り合ったと推察されます。その後も縁があり、嘉納の人柄や骨格などを熟知していた朝倉は、嘉納の海外出張中に本作を制作して周囲を驚かせました。しっかりした体幹を感じさせるポーズは、嘉納の柔道家としての「不動の姿勢」を意識したと思われます。
    谷中エリア
  • 室生其角は14、5才の頃に芭蕉に入門し、早くから頭角をあらわしたといわれ、蕉門十哲の第一人者とされる俳人です。芭蕉の死後、次第に蕉風をはなれ、清新華麗な独自の句風をなし、江戸俳壇の中心となりました。宝永4年(1707)に没しています。句碑は出山寺(しゅっさんじ)にあり、「草茎を つつむ葉もなき 雲間哉」と刻まれています。
    奥浅草エリア
  • 佐々木信綱は、歌人・国文学者です。父の教えを受け五歳にして作歌、その後、東京大学文学部古典講習科入学しました。父没後、あとを受けて竹柏会を主宰、「心の華」(「心の花」)を刊行しました。文化勲章を受章、帝国芸術院会員となりました。歌会始撰者でもあり、貞明皇后ら皇族に和歌を指導しました。そのお墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 三島政行は、江戸府内の地誌「御府内風土記」「新編武蔵風土記稿」などの編纂に従事しました。幕命によって、江戸府内の地誌「御府内風土記」の編纂を行い、3年にして完了しましたが、明治5年(1872)に焼失、その際に災を免れた資料集が「御府内備考」です。お墓は浄念寺(じょうねんじ)境内にあります。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 幕末から明治初期にかけての大名・政治家で宇和島藩8代藩主伊達宗城の墓は谷中霊園にあります。宗城は藩政の重点を富国強兵・殖産興業策をとり、蝋の専売制、藩兵の洋式訓練等を実施し、藩権力の強化に成功しました。将軍継承問題では松平慶永、島津斉彬、山内豊信の諸侯と共に慶喜を擁立し(幕末の四賢候といわれます)幕政改革を志す一橋派の有力メンバーとなって活躍しました。
    谷中エリア
  • 下谷神社(したやじんじゃ)の境内に「寄席発祥之地」の石碑があります。江戸時代寛政10年(1798)に馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎(のちの三笑亭可楽)が、素人噺家として入場料をとって興行を行ったことが、寄席のはじまりだといわれています。
    上野・御徒町エリア
  • 渋沢栄一は、幕末から大正初期に活躍した大実業家で、近代日本の資本主義の父といわれています。大蔵省退職後は第一国立銀行や東京ガス、帝国ホテルなど、500以上の企業の設立・経営に関わり財界に君臨しました。経済界引退後は教育家としても活躍し、商法講習所(一橋大学)などの設立に参画しました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 死者の菩薩を弔うため、あるいは生前に自らの死後に備えて供養を行うために建立した、塔婆の一種です。板石塔婆・青石塔婆とも言われています。
    谷中エリア
  • 上野恩賜公園内の弁天堂裏手側の池畔にある歌碑で、不忍池の蓮花を詠んだものです。この歌碑は江戸時代文政11年(1828)司馬乃屋嘉明が建立しました。漢詩とともに「色々に花はさけどもくれ竹のそれにもまして蓬のしら糸」と刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 笠森稲荷の本尊は、現在の天王寺の境内にあった養寿院末寺福泉院に祀られていました。明治3年(1870)にこの寺が廃寺になり、現在は江戸百観音の札所として信仰を集めていた養寿院に遷つされています。
    上野・御徒町エリア
  • 小花作助は、江戸時代の幕臣で小笠原諸島の開発者です。文久元年(1861)には小笠原開拓御用を命ぜられ咸臨丸で渡航して島務にあたりました。維新後は小笠原島内務省出張所の初代所長を命ぜられました。遺品は小笠原の実体を明らかにする貴重な資料として、東京都有形文化財に指定されています。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 谷文晁は江戸後期文人画家で、狩野派、土佐派、文人画、西洋画など手法を研究し独自の画風を作りました。江戸文人画壇の重鎮となり、画業は上方の円山応挙、狩野探幽とともに「徳川時代の三大家」に数えられます。親交のある松平定信に乞われて近習となって諸国を随行しながら絵を描いたといわれています。お墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸時代後期の著名な歴史人物画家である菊池容斎の墓は谷中霊園にあります。容斎は高田円乗の門に入って狩野派の画法を学び、絵を極めるには先哲の古跡を研究する必要があるとしてこれに専念し、一家を成しました。88才の時にアメリカの博覧会に出品して賞牌を受けました。また、明治天皇に「日本画史」の称を賜りました。
    谷中エリア
  • 護国院は、天海僧正の弟子の生順が釈迦堂の別当寺として寛永元年(1624)に現在の東京国立博物館右手裏に創立した寺です。上野公園一帯には約1200本の桜があり、開花時には花見客で賑わいます。約400年前に、寛永寺を創建した天海僧正が吉野山から桜を移植させ、以来、江戸一番の桜の名所として今日に及んでいます。
    上野・御徒町エリア
  • 細井平洲は江戸時代の儒学者です。農家の次男として生まれた平洲は少年の時代より勉学を積み重ね、私塾「嚶鳴館」を開き、多くの人々を教えました。特に上杉鷹山の師として有名になり、内村鑑三は鷹山を「代表的日本人」として挙げ、その師である平洲を「当代最大の学者の一人」として紹介しています。お墓は天嶽院(てんがくいん)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 芸術上の功績顕著な芸術家を優遇するための栄誉機関です。芸術に寄与する活動とともに、芸術に関する重要事項を審議する機関となっています。明治40年(1906)に設けられた美術審査委員会を母体とし、改組拡充を経て昭和22年(1947)に「日本藝術院」と名称を変更しました。
    上野・御徒町エリア
  • 荷田在満は江戸中期の国学者で、荷田春満の甥にあたり、学問的後継者です。享保年間江戸に下り学問普及に努力し、その後、幕府の命により京師に赴き大嘗会議を記録し注釈を加えました。また、貞観格式の校訂を行い、田安家に仕えましたがまもなく辞任し、その後は人々を集めて教育を業としました。お墓は金竜寺(きんりゅうじ)境内にあります。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 沢田正二郎は、大正から昭和初期に活躍した大衆演劇の人気俳優で、早稲田大在学中から坪内逍遥主宰の文芸協会演劇研究所に入るなど演劇の世界に身を投じました。芸術座を結成し退団後は、新しい大衆劇の創造を目指して新国劇を創立、「国定忠治」を初め剣劇で活躍し「沢正」と呼ばれ人気を博しました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 鳥居清信は、江戸中期の浮世絵師で鳥居派の始祖。画法を浮世絵師の父から学んだ後、菱川師宣に私淑し、更には狩野派や土佐派の画風もとり入れて独自の画風を築きました。代表作に「立美人」「傘持美人」等があります。享保14年(1729)に没し、浅草法城寺に葬された後、墓は妙顕寺(みょうけんじ)に移されました。
    上野・御徒町エリア
  • 坂東報恩寺にあるこの鐘が鋳造されたのは、慶安元年(1648)で、当時報恩寺(ほうおんじ)は八丁堀にありました。銘文によると、報恩寺14世住持宣了らの発願で作られました。鋳造者は江戸幕府の命で京都から江戸に下った御用釜師堀浄栄の息子浄甫をさします。この銅鐘は平成8年(1996)に台東区有形文化財として登載されました。
    上野・御徒町エリア
  • 長昌寺の銅鐘は、総高147cm。享保5年(1720)に小幡内匠勝行という当時を代表する鋳物師の一人が製作しました。銅鐘は長昌寺(ちょうしょうじ)の歴史を刻んでいますほか、今戸付近の歴史を知る上で貴重な文化財となっています。
    奥浅草エリア
  • 山田宗偏は江戸時代前期の茶人で、6歳で茶道を学び、利休茶道の奥義を極めました。赤穂浪士の大高忠雄が宗偏に弟子入りし、宗偏から「12月14日に吉良邸で茶会」という情報を聞きだして討ち入りしました。一説に宗偏は赤穂浪士達の無念を思いやり吉良邸茶会の日を教えたともいわれています。お墓は願竜寺(がんりゅうじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 清水浜臣は、松平定信の知遇を受けた江戸時代後期の医者・国学者で、平安時代の物語や和歌の考証に励みました。広く県居門の遺稿を収集・校正して、「県門遺稿」と題して刊行しました。著書には、「杉田日記」「後撰和歌集補注」「源氏物語名寄図考」などがあります。お墓は善照寺(ぜんしょうじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 東京自動車三十年会記念碑は、上野不忍池の弁天堂境内にあります。わが国自動車業界の黎明期を支えた先達を顕彰する記念碑です。昭和28年(1953)に結成された「三十年会」は、その当時業界歴が30年以上の方々で構成され、会の名の由来となっています。この記念碑は昭和50年(1975)に同会が建立しました。
    上野・御徒町エリア

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