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該当件数319件
  • この碑は東京工業大学の同窓会である蔵前工業会が設置したもので榊神社に建立されています。碑文には「工業教育発祥の地」と書かれています。この地には明治14年(1881)に創立の「東京職工学校」(後の「東京工業大学」)がありましたが、関東大震災により施設の大半を焼失したため目黒に移転しました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 沢田正二郎は、大正から昭和初期に活躍した大衆演劇の人気俳優で、早稲田大在学中から坪内逍遥主宰の文芸協会演劇研究所に入るなど演劇の世界に身を投じました。芸術座を結成し退団後は、新しい大衆劇の創造を目指して新国劇を創立、「国定忠治」を初め剣劇で活躍し「沢正」と呼ばれ人気を博しました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 天祐庵は、京都表千家「不審庵」の写しとして、江戸時代安永年間(1780~)に名古屋の牧野邸「太郎庵」として造営され、大正5年(1916)茶人高橋箒庵への譲渡などを経て、昭和33年(1958)に伝法院庭園内に移築されました。躙口や天井などが、利休系草庵茶室の典型とされる見事な比例感を醸し出しています。
    浅草中央部エリア
  • 両大師は、江戸時代正保元年(1644)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立されました。天海僧正と天海が最も尊敬した平安時代の高僧慈恵大師の二大師を祀ることから「両大師」と呼ばれるようになりましたが、正式には「寛永寺開山堂」といいます。堂内にある天海僧正坐像は有形文化財に指定されています。
    上野・御徒町エリア
  • 聖天宮は、上野不忍池の弁天堂にあるお宮です。江戸時代後期の「江戸名所図会」には、弁天島の北には小島が描かれ、「聖天」と記されています。(「聖天宮 本社の北の方、小島に勧請す。此島は其始弁天の祠ありし旧地なり。其頃もこの聖天の宮ありしにや、今も地主の神と称せり」)
    上野・御徒町エリア
  • 浅草文庫は、明治7年(1874)に創設された官立の図書館で、その跡碑が榊神社境内にあります。当時の和・漢・洋の蔵書数は11万~13万冊ともいわれ、明治14年に封鎖されました。現在、その蔵書は国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館などに所蔵され、太政大臣三条実美の筆蹟と伝える「浅草文庫」の朱印が押されています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 大原重徳は幕末・明治維新期の尊攘派公卿です。幕府が調印した日米修好通商条約に強く反対し、新進公家と共に調印不許可を朝廷に訴え、その後も一貫した尊王攘夷派として活躍しました。維新後は参与、刑法官知事、集議院長官を歴任し明治新政府で活躍しました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 昭和46年(1971)、日本ゴム工業会 三田土会によって建立された石碑です。明治19年(1886)に松前藩士の四人の兄弟が日本で初めてゴムの熱加硫法に成功し、土屋護謨(ゴム)製造所をこの地に創設しました。後に「三田土ゴム工業」となり大規模な工場を建設、軟式のゴムボールや消しゴムなど新しいゴム製品を次々に開発しました。
    上野・御徒町エリア
  • お化け地蔵は松吟寺(しょうぎんじ)にあります。「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、高さ3m余の並外れて大きいからなど、いくつかの伝承があります。石仏は享保6年(1721)の建立で、関東大震災で二つに折れましたが、補修して現在に至っています。常夜灯は、寛政2年(1790)に建てられました。
    奥浅草エリア
  • 横山大観顕彰碑は、横山大観記念館入口脇にあります。近代日本画壇の巨匠である横山大観は、明治26年(1894)に東京美術学校卒業、終生校長岡倉天心を敬愛し、東洋の理想を受け継ぎながら、新しい日本画風を創造しました。碑は昭和43年(1968)に東京百年を記念してこの地に建てられました。
    上野・御徒町エリア
  • 亀田鵬斉は、江戸時代の代表的な儒学者の一人で、詩、書、画にも人並みはずれた才能を発揮した学者、芸術家です。作品は寺社仏閣の碑や扁額、個人所有書画等、数多く存在します。 お墓は称福寺(しょうふくじ)にあります。
    奥浅草エリア
  • 弁天院は、水谷(みずのや)伊勢守勝隆が寛永元年(1624)不忍池に弁財天を建立すると同時にその下屋敷であったこの地の邸内の池にも弁財天を祀ったのが由来とされています。両者は姉妹弁財天と呼ばれています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 室生其角は14、5才の頃に芭蕉に入門し、早くから頭角をあらわしたといわれ、蕉門十哲の第一人者とされる俳人です。芭蕉の死後、次第に蕉風をはなれ、清新華麗な独自の句風をなし、江戸俳壇の中心となりました。宝永4年(1707)に没しています。句碑は出山寺(しゅっさんじ)にあり、「草茎を つつむ葉もなき 雲間哉」と刻まれています。
    奥浅草エリア
  • 櫛淵碑は、上野恩師公園内、不忍池の弁天島境内の裏にある「虚沖軒先生碑」と刻まれた石碑です。石碑には、櫛淵彌兵衛宣根の先祖に伝わる香取神道流から、神道一心流を興すに至るまで、簡略に記されています。櫛淵彌兵衛宣根は、一橋徳川家に召抱えられ、以後三代にわたって徳川将軍直々の護衛役として仕えました。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸時代の歌人である戸田茂睡の墓は、浅草寺境内にあります。戸田茂睡は、古典の研究を行い、公家の間に伝えられた伝統的な歌学が、秘事口伝を主とし、師の歌説に門弟が盲従することに反対して歌学の革新を主張しました。下河辺長流や契沖とともに国学の先駆となりました。
    浅草中央部エリア
  • 泥舟は幕末期の幕臣・槍術家である高橋泥舟の墓は大雄寺(だいおうじ)にあります。山岡鉄舟の義兄にあたります。剣術の名人として世に賞賛され、幕府講武所教授、師範役となり従五位下伊勢守に叙任されました。廃藩置県後は要職を退き、隠棲し書を楽しんだといわれます。勝海舟・山岡鉄舟と共に幕末の三舟といわれています。
    谷中エリア
  • 佐々木信綱は、歌人・国文学者です。父の教えを受け五歳にして作歌、その後、東京大学文学部古典講習科入学しました。父没後、あとを受けて竹柏会を主宰、「心の華」(「心の花」)を刊行しました。文化勲章を受章、帝国芸術院会員となりました。歌会始撰者でもあり、貞明皇后ら皇族に和歌を指導しました。そのお墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 修性院は、江戸時代には境内に数多くの草木を植えて「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、四季の自然を楽しむことができたといわれています。現在の修性院は、本堂に祀られている大きな布袋尊の徳のある姿が有名で、「日ぐらしの布袋」とも呼ばれています。見とれているうちに日が暮れてしまった、という言い伝えです。
    谷中エリア
  • 渋沢栄一は、幕末から大正初期に活躍した大実業家で、近代日本の資本主義の父といわれています。大蔵省退職後は第一国立銀行や東京ガス、帝国ホテルなど、500以上の企業の設立・経営に関わり財界に君臨しました。経済界引退後は教育家としても活躍し、商法講習所(一橋大学)などの設立に参画しました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • ㈱大淵銀器の中にある展示館です。台東区には銀器製作に携わる職人が多く、伝統工芸「東京銀器」として広く知られています。この展示館では、東京銀器の他、イギリス・イタリア・トルコなど、世界各地の銀器を新作からアンティークなものまで展示公開しています。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸中期の儒学者である太田錦城の墓は一乗寺(いちじょうじ)にあります。錦城は皆川洪圓、山本北山に折衷派を学びましたが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、ついに一家を成しました。いわゆる折衷学派といいます。 晩年に至り一時、近畿に遊び、老中吉田候に仕えましたが、前田家に賓使としてまぬかれ、三百石を給せられました。
    谷中エリア
  • 蔵前橋西詰めの下流側に石碑と若木が植えられています。初代「首尾の松」は、江戸時代安永年間(1772~80)風災で倒れ、その後も枯れたり焼失し、昭和37年(1962)これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者と共にこの橋際に碑を建設しました。現在の松は七代目といわれます。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 谷中1丁目のみかどパン店のあるヒマラヤ杉の入り口から頤神禅院へと北へのびる約100mほどの直線の参道の名前です。クチナシの垣根があり、花期(梅雨が始まる時期)には甘い香りが漂います。この道の風景は谷根千界隈のランドマークとして挙げられる風景でもあります。
    谷中エリア
  • 花川戸助六の歌碑は、明治12年(1879)に九世市川団十郎が中心となり、花川戸公園内の仰願寺に建立されました。関東大震災で崩壊し、後に現在地に再造立されました。碑面には「助六にゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で鬼は外なり」とあります。歌舞伎十八番の一つ「助六」は、代々の団十郎が伝えていますが、助六の実像は不明です。
    浅草中央部エリア
  • 上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にある石碑で、昭和51年(1976)に「東京魚商業協同組合」によって建立されました。碑文には「四海を海に囲まれた我が国では、(中略)私共水産小売業者は、水揚げされる水産資源に感謝し慎んで魚の霊を悼み、組合創立50周年を機に供養のためこの塚を建立します」とあります。
    上野・御徒町エリア
  • 玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門)は、江戸時代初期、江戸市民の飲料水確保のため玉川上水を開発しました。四代将軍将軍家綱の頃、幕命が下り承応3年(1654)に開削工事は完成しました。現存する玉川上水は、江戸時代初期の土木技術を今日に伝える貴重な文化財です。お墓は聖徳寺(しょうとくじ)にあります。
    浅草中央部エリア
  • 護国院は、天海僧正の弟子の生順が釈迦堂の別当寺として寛永元年(1624)に現在の東京国立博物館右手裏に創立した寺です。上野公園一帯には約1200本の桜があり、開花時には花見客で賑わいます。約400年前に、寛永寺を創建した天海僧正が吉野山から桜を移植させ、以来、江戸一番の桜の名所として今日に及んでいます。
    上野・御徒町エリア
  • 斉藤家は美濃国の出身といわれ、家康入府時から江戸神田に住み、雉子町の名主として六ヶ町を支配しました。神田果物市場を監督して野菜上納を掌って、代々市左衛門と称しました。斉藤長秋とその子、孫は、三代にわたって江戸の地誌を調べ「江戸名所図会」を完成させました。齋藤長秋三代のお墓は法善寺(ほうぜんじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 鳥塚は、弁天堂のほぼ裏側に位置する大きな塚です。この鳥塚は東京都内に店舗を有する食鳥肉の販売業者が組織している東京食鳥鶏卵商業協同組合及び東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合の組合員有志が生活の糧であり子孫の繁栄に寄与する諸鳥類の霊魂を永久に慰めるために昭和37年(1962)に建立されました。
    上野・御徒町エリア
  • 幕末から明治初期にかけての大名・政治家で宇和島藩8代藩主伊達宗城の墓は谷中霊園にあります。宗城は藩政の重点を富国強兵・殖産興業策をとり、蝋の専売制、藩兵の洋式訓練等を実施し、藩権力の強化に成功しました。将軍継承問題では松平慶永、島津斉彬、山内豊信の諸侯と共に慶喜を擁立し(幕末の四賢候といわれます)幕政改革を志す一橋派の有力メンバーとなって活躍しました。
    谷中エリア
  • 幕末期の蘭学・西洋医学者である伊東玄朴の墓は天龍院(てんりゅういん)にあります。玄朴は医学を志し、長崎の鳴滝塾でシーボルトよりオランダ医学を学びました。江戸で医者として開業後は、その腕が認められ、安政5年(1858)には幕府奥医師になり、蘭方医として種痘所(後の西洋医学所、現東京大学医学部)の開設などに尽力し、明治4年(1871)72歳で没しました。
    谷中エリア
  • 江戸時代の初期、寛文年間(1661~72)遊女采女(うねめ)は若い僧侶との悲恋の末に鏡ヶ池に身を投げ、翌朝、草刈りの人たちが「名をそれとしらずともしれさる沢の あとをかがみが池にしずめば」としるした短冊を見つけ、采女とわかり、塚に葬りました。塚の碑は出山寺(しゅっさんじ)にあります。
    奥浅草エリア
  • 初代柄井川柳は、川柳の創始者です。川柳は江戸時代の前句付の点者で、川柳撰集である「柳多留」の編纂でも有名です。その墓は龍宝寺(りゅうほうじ)にあり、別名「川柳寺」とも呼ばれます。龍宝寺は上野の寛永寺を開山した天海大僧正の法兄にあたる豪海大僧正が開山した天台宗寺院で、不動明王の梵字を刻んだ板碑が境内に残っています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 明治時代に活躍した詩人、石川啄木の歌碑は等光寺(とうこうじ)の境内にあり、啄木の処女歌集「一握の砂」に収められた「浅草の夜のにぎわひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」という句が刻まれています。啄木生誕70年にあたる昭和30年(1955)に建立されました。
    浅草中央部エリア
  • 扇塚は、上野不忍池の弁天堂の少し手前の左側にある作家佐藤春夫氏の詩文で、扇の形をした碑です。初代花柳寿美の舞扇を納めて、昭和24年(1949)2月、6代目尾上菊五郎、二世花柳寿輔、花柳章太郎氏らの手によって建てられました。
    上野・御徒町エリア
  • 大雄寺のクスノキは、大雄寺境内にある巨木で都内で一番大きいクスノキといわれています。幹回り6.2m、樹高13m、枝張12mで推定樹齢200~300年です。「都市の美観風致を維持するための樹木の保存に関する法律」に基づく都知事指定樹であり、「台東区みどりの条例」保護樹木です。
    谷中エリア
  • 明治時代の教育者、啓蒙学者である中村正直の墓は了~寺(りょうごんじ)にあります。正直は昌平坂学問所に入り、佐藤一斎について儒学を学びました。大蔵省翻訳御用・女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)校長・東京帝国大学教授・貴族院議員などに歴任しました。また、訓盲院の開設など女子教育や障害者教育にも力を注ぎました。明治24(1891)病没しました。
    谷中エリア
  • 板碑は石造の塔婆で、板石塔婆ともいいます。鎌倉時代から室町時代にかけて、追善供養などの目的で造られました。龍宝寺にある板碑は高さ155.8cm、上端の幅39cm、下端の幅44.5cm、厚さ約5cmです。中央に不動明王の種子(仏体を表した梵字)を刻むため、「不動板碑」と呼ばれ、区内現存の板碑を代表するもののひとつです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 岡崎屋勘六は江戸末期の書家・勘亭流の祖で、勘亭流とは江戸歌舞伎の看板、番付、台本などに使われる特殊な書体のことです。安永8年(1779)、江戸中村座の依頼を受け、春狂言の大名題を書きました。これが歌舞伎文字勘亭流の始まりとされます。現在もこの伝統は継承され歌舞伎看板などで使われています。 お墓は清光寺(せいこうじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 慈海僧正は、寛永寺の門主・輪王寺宮の名代を勤める東叡山凌雲院の学頭の4代目です。東叡山護国院、目黒不動、比叡山西塔宝園院、川越仙波の喜多院を経て東叡山凌雲院の住職となりました。お墓は、当初凌雲院境内墓地にありましたが、昭和33年(1958)東京文化会館の建設のため寛永寺に移築されました。
    上野・御徒町エリア

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