メニューを閉じる
該当件数320件
  • 東京文化会館内にある音楽資料室です。数少ない音楽専門の図書館として昭和36年(1961)に開設されました。クラシック音楽を中心に、民族音楽、邦楽、舞踊などの資料を無料で閲覧・視聴することができます。また、都内で活動するアマチュアの演奏団体にオーケストラ・吹奏楽用のパート譜の館外貸出も行っています。
    上野・御徒町エリア
  • 銅地蔵は、上野不忍池の弁天堂にある地蔵です。生殖器崇拝(せいしょくきすうはい)は、ヒトの男女の生殖器をかたどった象徴的造形物に、多産、豊穣などをもたらす呪術的な力をみとめ、それに対する信仰、崇拝であり、性器崇拝とも呼ばれています。地蔵の背面は男根形で、前面は陰形をしています。
    上野・御徒町エリア
  • ゴルフ商品街は、御徒町駅を出てすぐのアメ横通りと駅前通りにあるゴルフショップ商店街です。アメ横通りは、CMで有名な「二木ゴルフ」や「ことぶきゴルフ」「ロイヤルゴルフ」、駅前通りは「フタバゴルフ」、といったゴルフショップが建ち並びます。品揃えも豊富で、ゴルフ好きの男性客で賑わっています。
    上野・御徒町エリア
  • 【現在この像は朝倉彫塑館に収蔵されており、定期的に公開される予定です】
    この像は、台東区名誉区民にして彫刻家である朝倉文夫の作品の一つであり、嘉納治五郎が全身全霊を傾けた1940年の東京オリンピック招致が成功(のちに返上)した、1936年に制作されました。
    朝倉文夫は、1907~1910年ころに嘉納と知り合ったと推察されます。その後も縁があり、嘉納の人柄や骨格などを熟知していた朝倉は、嘉納の海外出張中に本作を制作して周囲を驚かせました。しっかりした体幹を感じさせるポーズは、嘉納の柔道家としての「不動の姿勢」を意識したと思われます。
    谷中エリア
  • 櫛淵碑は、上野恩師公園内、不忍池の弁天島境内の裏にある「虚沖軒先生碑」と刻まれた石碑です。石碑には、櫛淵彌兵衛宣根の先祖に伝わる香取神道流から、神道一心流を興すに至るまで、簡略に記されています。櫛淵彌兵衛宣根は、一橋徳川家に召抱えられ、以後三代にわたって徳川将軍直々の護衛役として仕えました。
    上野・御徒町エリア
  • 斉藤家は美濃国の出身といわれ、家康入府時から江戸神田に住み、雉子町の名主として六ヶ町を支配しました。神田果物市場を監督して野菜上納を掌って、代々市左衛門と称しました。斉藤長秋とその子、孫は、三代にわたって江戸の地誌を調べ「江戸名所図会」を完成させました。齋藤長秋三代のお墓は法善寺(ほうぜんじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 島田虎之助、直心影流島田派の剣客。幼少より中津藩剣術師範堀十郎左衛門の道場で学び、上達が早く16歳の頃には九州一円を武者修行し名声をあげました。浅草新堀で道場を開き、そこには勝麟太郎(のちの海舟)も通いました。虎之助は幕末の剣豪といわれましたが、嘉永5年(1852)に病没しました。お墓は正定寺(しょうじょうじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア 浅草中央部エリア
  • 芸術上の功績顕著な芸術家を優遇するための栄誉機関です。芸術に寄与する活動とともに、芸術に関する重要事項を審議する機関となっています。明治40年(1906)に設けられた美術審査委員会を母体とし、改組拡充を経て昭和22年(1947)に「日本藝術院」と名称を変更しました。
    上野・御徒町エリア
  • 幕末から明治初期にかけての大名・政治家で宇和島藩8代藩主伊達宗城の墓は谷中霊園にあります。宗城は藩政の重点を富国強兵・殖産興業策をとり、蝋の専売制、藩兵の洋式訓練等を実施し、藩権力の強化に成功しました。将軍継承問題では松平慶永、島津斉彬、山内豊信の諸侯と共に慶喜を擁立し(幕末の四賢候といわれます)幕政改革を志す一橋派の有力メンバーとなって活躍しました。
    谷中エリア
  • 永昌寺は、江戸時代永禄元年(1558)に浅草の下谷に下谷長者が開創した寺です。寛永14年(1637)に現在の地に移りました。近辺は大名屋敷が多く、肥前藩主松浦壱岐守の妻、永昌院が開基となり、寺名に由来しています。明治15(1882)に嘉納治五郎がこの寺院の境内に柔道場「講道館」を設立しました。
    上野・御徒町エリア
  • 横山大観は、近代日本画壇の巨匠です。明治22年(1889)に開校した東京美術学校に第一期生として入学し、岡倉天心に多大な啓発を受けました。その後海外に渡り、ニューヨークやパリなどで相次いで展覧会を開き、高い評価を得ました。日本でもその画風が評価され始め、第一回文化勲章の受章者となりました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 河東碧梧桐は、明治時代の 俳人で正岡子規門の高弟です。高浜虚子と対立し定型・季語を離れた新傾向俳句を提唱。全国行脚して「三千里」「続三千里」をまとめた後、自由律、ルビつき句など句風は変遷しました。著書に「新傾向句集」「碧梧桐句集」「子規言行録」などがあり、昭和12年(1937)に没し、お墓は梅林寺(ばいりんじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 明治新政府に反抗して討滅された彰義隊の戦死者を供養するために明治15年(1882)に建てられました。上野恩賜公園内の西郷隆盛像の裏手にあります。墓石には旧幕臣山岡鉄舟の筆によって「戦死之墓」とのみ記され、「彰義隊」の文字はありません。墓碑の右手には上野彰義隊資料室があります。
    上野・御徒町エリア
  • 東上野神仏具問屋街は、上野から浅草へ続く浅草通りにあります。別名「仏壇通り」といわれるほど、神仏具の専門店約60店舗が軒を連ねています。明暦3年(1657)の「明暦の大火」の後、徳川幕府により多くの寺院がこの周辺に集められたことで、仏壇・仏具などの職人が多く集まるようになりました。
    上野・御徒町エリア
  • 日本スポーツ文化賞栄誉広場は、平成8年(1996)に上野恩賜公園内に設置されました。日本スポーツ文化賞栄誉広場には、国民栄誉賞受賞者の手形が展示されています。
    上野・御徒町エリア
  • 根岸御行の松は、江戸名所図会や広重の錦絵にも描かれています。江戸名松の一つに数えられ、根岸4丁目の西蔵院不動堂の境内にあります。この松は、樋口一葉の作品「琴の音」や子規の俳句の題材にもなりました。初代の松は樹齢350年を経た後枯れてしまい、現在は平成30年に植えられた4代目の松になります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 滋養のため、食材として、人々の胃袋におさめられたスッポンに感謝するために建立された塔です。上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にあります。塔自体はスッポンの形をしていませんが輪郭が彫ってあります。
    上野・御徒町エリア
  • はなし塚は、太平洋戦時下で公演が禁止された「五人廻し」「明烏」などの名作落語と落語家先輩の霊を弔うために昭和16年(1941)に建てられた塚です。本法寺(ほんぽうじ)の外塀には、歴代の噺家の名が一面に刻まれています。境内には財と福をもたらす白狐を祀った熊谷稲荷があります。白狐を祀った稲荷は全国に2ケ所しかない非常に珍しいものです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 安藤東野は、荻生徂徠の最初の頃の弟子で、柳沢吉保に仕え、詩文にすぐれた才能を発揮しました。享保4年4月、37歳で没し、没後「東野遺稿」が刊行されました。お墓は福寿院(ふくじゅいん)にあります。
    奥浅草エリア
  • 江戸千家の祖川上不白が関宿藩主久世大和守の外神田下屋敷に建てた茶室で、明治2年(1869)に現在地に移築しました。不審庵表千家六代原叟宗左の三畳台目の茶室と同じ建て方といわれ、有形文化財に指定されています。不白は千家の茶を普及させ、大衆の茶道を試みたといわれおり、この茶室は江戸千家を広める拠点となりました。
    上野・御徒町エリア
  • 姥ヶ池は、隅田川に通じる大池で明治24年(1891)に埋め立てられました。「昔、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって石の下敷きになって死に、それを悲しみ悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げた」という言い伝えにより、「姥ヶ池」と呼ばれていました。その碑は花川戸公園内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 横山大観顕彰碑は、横山大観記念館入口脇にあります。近代日本画壇の巨匠である横山大観は、明治26年(1894)に東京美術学校卒業、終生校長岡倉天心を敬愛し、東洋の理想を受け継ぎながら、新しい日本画風を創造しました。碑は昭和43年(1968)に東京百年を記念してこの地に建てられました。
    上野・御徒町エリア
  • 岡倉天心宅跡は、旧宅跡であり日本美術院のあった場所で現在、岡倉天心記念公園になっています。 岡倉天心は東京大学在学中から日本美術の恩人フェノロサの感化を受け、日本の伝統美術復興に努力し、日本の近代美術の先駆者となりました。明治31(1898)に日本美術院を創設し、横山大観をはじめ優れた画家を世に送り出しました。
    谷中エリア
  • 佐々木信綱は、歌人・国文学者です。父の教えを受け五歳にして作歌、その後、東京大学文学部古典講習科入学しました。父没後、あとを受けて竹柏会を主宰、「心の華」(「心の花」)を刊行しました。文化勲章を受章、帝国芸術院会員となりました。歌会始撰者でもあり、貞明皇后ら皇族に和歌を指導しました。そのお墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 狩野芳崖は、墓明治初期に活躍した日本画家で、代表作として「不動明王図」があります。お墓は長安寺(ちょうあんじ)の墓地の中ほどにあり、板碑は死者の菩提を弔うため、生前に自らの死後に備えて供養を行うため建立した塔婆の一種です。長安寺境内には鎌倉・室町時代合わせて4基あり、「長安寺板碑」として台東区の有形文化財に指定されています。
    谷中エリア
  • ㈱大淵銀器の中にある展示館です。台東区には銀器製作に携わる職人が多く、伝統工芸「東京銀器」として広く知られています。この展示館では、東京銀器の他、イギリス・イタリア・トルコなど、世界各地の銀器を新作からアンティークなものまで展示公開しています。
    上野・御徒町エリア
  • 川柳発祥の地碑は、三筋2丁目交差点の南東角に建っている石碑です。平成19年(2007)、川柳発祥250年を記念して建立されました。旧浅草新堀天台宗龍宝寺前(現在の蔵前4丁目)に住んでいた里正柄井八右衛門が無名庵川柳と号し、初めて万句合を興行しました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 江戸中期の儒学者である太田錦城の墓は一乗寺(いちじょうじ)にあります。錦城は皆川洪圓、山本北山に折衷派を学びましたが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、ついに一家を成しました。いわゆる折衷学派といいます。 晩年に至り一時、近畿に遊び、老中吉田候に仕えましたが、前田家に賓使としてまぬかれ、三百石を給せられました。
    谷中エリア
  • 対鴎荘は、明治時代の政治家三条実美の別邸でした。征韓論をめぐって政府内に対立が続いていた頃、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していました。明治天皇は病床の実美を気遣い、この邸を訪れています。碑は、この事績を顕彰して建立されたものです。対鴎荘は、多摩市連光寺に移築されました。
    奥浅草エリア
  • 家康の頃から幕府のお菓子司をつとめた大久保主水の墓は瑞輪寺(ずいりんじ)にあります。家康が江戸で町づくりを始めた際に用水事業を命ぜられ、井の頭池などの河流を利用し江戸城・市中の引水に成功し、これが日本の水道の先駆けとなりました。この功により家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「もんと」と読むようになったといわれます。
    谷中エリア
  • 昭和46年(1971)、日本ゴム工業会 三田土会によって建立された石碑です。明治19年(1886)に松前藩士の四人の兄弟が日本で初めてゴムの熱加硫法に成功し、土屋護謨(ゴム)製造所をこの地に創設しました。後に「三田土ゴム工業」となり大規模な工場を建設、軟式のゴムボールや消しゴムなど新しいゴム製品を次々に開発しました。
    上野・御徒町エリア
  • 不忍池の中央には、琵琶湖の竹生島を模して造られたという弁天島があり、そこに弁財天を祀る弁天堂があります。弁天堂の周囲には「ふぐ供養碑」「魚塚」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 明治6年(1873)、明治天皇は元勲三条実美の別邸対鴎荘に行幸し病床にあった三条実美を見舞われました。御見舞いの帰途、伊達宗城邸で御休息の際、隅田川の冬景色を賞せられた和歌「いつみてもあかぬ景色は隅田川 難美路の花は冬もさきつつ」をお詠みになりました。碑は今戸町の隅田公園内にあります。
    奥浅草エリア
  • 谷中1丁目のみかどパン店のあるヒマラヤ杉の入り口から頤神禅院へと北へのびる約100mほどの直線の参道の名前です。クチナシの垣根があり、花期(梅雨が始まる時期)には甘い香りが漂います。この道の風景は谷根千界隈のランドマークとして挙げられる風景でもあります。
    谷中エリア
  • 荷田在満は江戸中期の国学者で、荷田春満の甥にあたり、学問的後継者です。享保年間江戸に下り学問普及に努力し、その後、幕府の命により京師に赴き大嘗会議を記録し注釈を加えました。また、貞観格式の校訂を行い、田安家に仕えましたがまもなく辞任し、その後は人々を集めて教育を業としました。お墓は金竜寺(きんりゅうじ)境内にあります。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 江戸時代の歌人である戸田茂睡の墓は、浅草寺境内にあります。戸田茂睡は、古典の研究を行い、公家の間に伝えられた伝統的な歌学が、秘事口伝を主とし、師の歌説に門弟が盲従することに反対して歌学の革新を主張しました。下河辺長流や契沖とともに国学の先駆となりました。
    浅草中央部エリア
  • 鳥塚は、弁天堂のほぼ裏側に位置する大きな塚です。この鳥塚は東京都内に店舗を有する食鳥肉の販売業者が組織している東京食鳥鶏卵商業協同組合及び東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合の組合員有志が生活の糧であり子孫の繁栄に寄与する諸鳥類の霊魂を永久に慰めるために昭和37年(1962)に建立されました。
    上野・御徒町エリア
  • 幕末から明治時代にかけての武士(幕臣)・ジャーナリスト・作家・劇作家である福地桜痴の墓は谷中霊園にあります。通称は源一郎といいます。毎日新聞の前身である東京日々新聞の主筆として筆を奮い、初めて社説を採用するなど明治時代のジャーナリズムに大きく貢献し、新聞界を去った後は、文学者として活躍しました。
    谷中エリア
  • 両大師は、江戸時代正保元年(1644)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立されました。天海僧正と天海が最も尊敬した平安時代の高僧慈恵大師の二大師を祀ることから「両大師」と呼ばれるようになりましたが、正式には「寛永寺開山堂」といいます。堂内にある天海僧正坐像は有形文化財に指定されています。
    上野・御徒町エリア
  • 宝泉湯はサウナと日替り薬湯が人気の銭湯です。熱帯魚の水槽が目印となっています。浴室奥の主浴槽、深内に超音波気泡ジェット3連とブクブクの気泡湯、電気風呂があり、並びに、別室となったミストと薬風呂があります。ぬるめの湯の薬風呂、頭上から降りそそぐミストの細かい霧雨が気持ちいいと評判です。
    根岸・入谷・金杉エリア

当サイトでは、利便性の向上と利用状況の解析、広告配信のためにCookieを使用しています。
サイトを閲覧いただく際には、Cookieの使用に同意いただく必要があります。
詳細はこのサイトについてをご確認ください。