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該当件数319件
  • 上野恩賜公園内の下町風俗資料館に近い植え込みの中に「龍門橋」と刻まれた石碑です。江戸時代には池の周りをめぐる堀があり、その堀にかかる小橋がいくつかありました。龍門橋はその中の一つで、ほかに月見橋、蓮見橋、花見橋などがありましたが、いずれも昭和初期にその姿を消し、今はこの石碑にその名残がわずかに残るだけです。
    上野・御徒町エリア
  • 日本を代表する時代小説作家である池波正太郎。その功績を称え、2007年11月、待乳山聖天公園に生誕地碑が建立されました。池波正太郎は待乳山聖天宮の南側、旧東京市浅草聖天町61番地で誕生しました。自身のエッセイに「大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は、私の心のふるさとのようなものだ」(『東京の情景「大川と待乳山聖天宮」』より)と記しており、小説の舞台にも待乳山や近くの今戸、橋場などをたびたび登場させています。
    浅草中央部エリア
  • 姥ヶ池は、隅田川に通じる大池で明治24年(1891)に埋め立てられました。「昔、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって石の下敷きになって死に、それを悲しみ悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げた」という言い伝えにより、「姥ヶ池」と呼ばれていました。その碑は花川戸公園内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 1917(大正6)年に日本で最初の駅伝「東海道五十三次駅伝徒歩競争」京都~東京間の508㎞23区間で開催されました。スタートは京都の三条大橋で、ゴールは上野の不忍池で開かれていた博覧会場の正面玄関でした。
    上野・御徒町エリア
  • 玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門)は、江戸時代初期、江戸市民の飲料水確保のため玉川上水を開発しました。四代将軍将軍家綱の頃、幕命が下り承応3年(1654)に開削工事は完成しました。現存する玉川上水は、江戸時代初期の土木技術を今日に伝える貴重な文化財です。お墓は聖徳寺(しょうとくじ)にあります。
    浅草中央部エリア
  • 大雄寺のクスノキは、大雄寺境内にある巨木で都内で一番大きいクスノキといわれています。幹回り6.2m、樹高13m、枝張12mで推定樹齢200~300年です。「都市の美観風致を維持するための樹木の保存に関する法律」に基づく都知事指定樹であり、「台東区みどりの条例」保護樹木です。
    谷中エリア
  • 島田虎之助、直心影流島田派の剣客。幼少より中津藩剣術師範堀十郎左衛門の道場で学び、上達が早く16歳の頃には九州一円を武者修行し名声をあげました。浅草新堀で道場を開き、そこには勝麟太郎(のちの海舟)も通いました。虎之助は幕末の剣豪といわれましたが、嘉永5年(1852)に病没しました。お墓は正定寺(しょうじょうじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア 浅草中央部エリア
  • 東覚寺の創建は室町時代中期(1491)で、門前にある赤紙仁王(あかがみにおう)(石造金剛力士立像)は江戸中に流行していた疫病を鎮めるために宗海(しゅうかい)という僧侶が願主となって寛永18年(1641)に造立されたと伝えられています。この赤紙仁王は、自分の身体に悪いところがあれば、仁王像の同じところに赤紙を貼ると病気が治ると信仰されています。
    谷中エリア
  • 弁天院は、水谷(みずのや)伊勢守勝隆が寛永元年(1624)不忍池に弁財天を建立すると同時にその下屋敷であったこの地の邸内の池にも弁財天を祀ったのが由来とされています。両者は姉妹弁財天と呼ばれています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 「東京ふぐ料理連盟」が、フグの霊を供養するために、昭和40年(1965)に建立した石碑です。上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にあります。「幾千萬のふぐの霊に満腔の感謝をささげ、今後絶對安心してふぐを召し上がられることを祈念し茲に別記會員有志の協力によってふぐ供養碑を建立した所以であります」と刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 笠森お仙・鈴木春信の碑は、お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺(だいえんじ)に大正8年(1919)に「笠森阿仙の碑」と「錦絵開祖鈴木春信」碑の二つの碑が建立されました。お仙は笠森神社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三大美人の一人です。絵師鈴木春信はその姿を、当時新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描きました。
    谷中エリア
  • 元三島神社の起源は、弘安の役(蒙古襲来1281年)にさかのぼります。勇将河野通有は愛媛県大三島の大山~神社に必勝祈願し出陣。武功を挙げ帰陣したところ、夢の中に神のお告げを得て大山~神の分霊を観請して上野山内に鎮座したことが始まりです。元三島神社は徳川幕府から社領を受けますが、御用地となったために上野から浅草へ移転し、現在の地に至ります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 勝川春章は、江戸末期の浮世絵師で、美人画などを多く描き、葛飾北斎の師でもありました。お墓は西福寺(さいふくじ)にあります。西福寺は、古くは三河国松平郷(愛知県豊田市)にあった寺で、徳川家康が現在地に移転したといわれています。東京で最も早い公立小学校の一つである育英小学校の発祥の地としても知られています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 日暮里の地は、江戸時代中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれて、四季折々の花樹を楽しむ江戸の人々の行楽地として賑わいました。青雲寺は修性院と共に「花見寺」と呼ばれ、豊かな自然に囲まれて草花を数多く植えた美しい庭園があったといわれています。また、滝沢馬琴(たきざわばきん)筆塚の碑があります。
    谷中エリア
  • 鳥塚は、弁天堂のほぼ裏側に位置する大きな塚です。この鳥塚は東京都内に店舗を有する食鳥肉の販売業者が組織している東京食鳥鶏卵商業協同組合及び東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合の組合員有志が生活の糧であり子孫の繁栄に寄与する諸鳥類の霊魂を永久に慰めるために昭和37年(1962)に建立されました。
    上野・御徒町エリア
  • 嘉永・安政時代に下谷坂本村字入谷に住んでいた植木師の成田屋山崎留次郎が、東の朝顔造りの大関であったと記録が残っています。入谷が朝顔で有名になったのは、明治になってからのことで、土質が朝顔造りに適していたのか、十数件の植木屋が、一軒500~600坪の土地を有し、軒を連ねて朝顔造りをはじめました。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 自性院(じしょういん)は、慶長16年(1611)に神田に創建、慶安元年(1648)現在地に移った古寺です。愛染堂に安置した愛染明王像(非公開)で知られます。愛染明王は縁結び、家庭円満の対象として信仰されています。文豪川口松太郎の昭和初期の名作「愛染かつら」は、愛染明王像と本堂前にあった桂の古木にヒントを得た作品だといわれます。
    谷中エリア
  • 市村座の定式幕は、「黒」「萌葱(緑)」「柿色」三色の引幕で、現在国立劇場が同じ定式幕を使用しています。猿若町では天保末期から明治にかけて1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(後の守田座)があり、芝居町を形成していました。江戸歌舞伎興隆の場となったこの地に昭和39年(1964)に跡碑が建てられました。
    奥浅草エリア
  • 彰義隊戦死者碑は、明治新政府に反抗して討滅された彰義隊の戦死者を供養するために明治15年(1882)に建てられました。上野恩賜公園内の西郷隆盛像の裏手にあります。墓石には旧幕臣山岡鉄舟の筆によって「戦死之墓」とのみ記され、「彰義隊」の文字はありません。
    上野・御徒町エリア
  • 西町太郎稲荷神社は、立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として、現在地(万治年間(1658~61)に九州筑後柳川藩11万9600石の太守、立花左近将監の江戸中屋敷として設けられた邸跡地)に建立されたものです。諸々の祈願事を叶え、特に商売繁盛に御利益があると、厚く信仰されています。
    上野・御徒町エリア
  • 政治家で弁護士、第52~54代内閣総理大臣である鳩山一郎の墓は谷中霊園にあります。大正元年(1912)に東京市議会議員に当選後、大正4年(1915)に衆議院議員に当選して以来、政党政治家として活動しました。昭和29年(1954)から昭和31年(1956)の首相在任中、保守合同を成し遂げて自由民主党の初代総裁となり、日本とソビエト連邦の国交回復を実現しました。
    谷中エリア
  • 【現在この像は朝倉彫塑館に収蔵されており、定期的に公開される予定です】
    この像は、台東区名誉区民にして彫刻家である朝倉文夫の作品の一つであり、嘉納治五郎が全身全霊を傾けた1940年の東京オリンピック招致が成功(のちに返上)した、1936年に制作されました。
    朝倉文夫は、1907~1910年ころに嘉納と知り合ったと推察されます。その後も縁があり、嘉納の人柄や骨格などを熟知していた朝倉は、嘉納の海外出張中に本作を制作して周囲を驚かせました。しっかりした体幹を感じさせるポーズは、嘉納の柔道家としての「不動の姿勢」を意識したと思われます。
    谷中エリア
  • 高橋お伝の墓碑は谷中霊園にあります。本名は高橋でんです。強盗殺人の罪で斬首刑に処せられた女性で、仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のモデルとなり、「明治の毒婦」と呼ばれました。でんの墓に参ると三味線が上達するという評判があり、三味線を習うひとの墓参が伝逝去後の現在もかなりあるといわれています。
    谷中エリア
  • 虫塚は、寛永寺境内にあります。伊勢長島藩主である増山雪斎の遺志で写生に使った虫類を供養した碑で、文政4年(1821)に建てられました。当初、寛永寺子院勧善院内にありましたが、昭和初期に現在地に移転しました。碑は自然石で、正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は、詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 梅田雲浜は、幕末期の儒学者。小浜で朱子学を修め、大津、京都で子弟を教えますが、幕府を批判したため小浜藩を追放されました。高杉晋作らと交際し、尊皇攘夷を唱え、井伊直弼排斥も企てましたが、安政5年(1858)「安政の大獄」で捕らえられ、翌年(1859)小倉藩江戸邸の獄中で病没しました。お墓は海禅寺(かいぜんじ)にあります。
    浅草中央部エリア
  • 吉原遊郭は、江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼を担いました。昭和三十三年売春防止法の成立によって遊郭は廃止され、その名残を記す碑は、昭和三十五年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古によるものです。
    奥浅草エリア
  • 幕末の勤王家である蒲生君平の墓は臨江寺(りんこうじ)にあり、国史跡に指定されています。君平は幼児期から学問に励み、寛政の末期、諸国の天皇陵を歩き、享和元年(1801)に「三陵志」を著しました。これは幕末の尊皇論の先駆をなすものとして知られています。文化10年(1813)に没し、高山彦三郎や林子平と共に「寛政三奇人」の一人にあげられています。
    谷中エリア
  • 修性院は、江戸時代には境内に数多くの草木を植えて「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、四季の自然を楽しむことができたといわれています。現在の修性院は、本堂に祀られている大きな布袋尊の徳のある姿が有名で、「日ぐらしの布袋」とも呼ばれています。見とれているうちに日が暮れてしまった、という言い伝えです。
    谷中エリア
  • 谷中では、秋になると「さくら通り」などあちらこちらで桜の木が色づき始めます。さらに、イチョウやモミジなど紅葉する木がさまざまあり、見事な風景を作り出します。また、谷中霊園の天王寺の横の道からJR日暮里駅の西口に下りる石段の坂は「紅葉坂」といい、周辺の紅葉がきれいだったためこのように命名されたという説があります。
    谷中エリア
  • 木製の本棚と家具が配された居心地のよい図書室では、開催中の展覧会の関連書籍を多数紹介するほか、美術図書や展覧会カタログ、美術雑誌などを自由に閲覧できる。館の歴史に関するアーカイブズ資料をはじめ、教育普及に関連する資料や、公募団体に関連する資料も保管している。
    (画像提供:東京都美術館)
    上野・御徒町エリア
  • 明治6年(1873)、明治天皇は元勲三条実美の別邸対鴎荘に行幸し病床にあった三条実美を見舞われました。御見舞いの帰途、伊達宗城邸で御休息の際、隅田川の冬景色を賞せられた和歌「いつみてもあかぬ景色は隅田川 難美路の花は冬もさきつつ」をお詠みになりました。碑は今戸町の隅田公園内にあります。
    奥浅草エリア
  • 延命長寿、諸病平癒の神様が祀られている石浜神社は、東に隅田の大川、西に霊峰富士、北に名山筑波といった名勝に恵まれ、「江戸名所図会」などにも大きく納められ、「神明さん」の通称のもと、市民の間にその名を馳せました。石浜神社に祀られている寿老人像は、浅草名所七福神の復活に際し、延命長寿の神として奉安されたものです。
    奥浅草エリア
  • 宮戸座は明治29年(1896)に開場、座名は隅田川の古称「宮戸川」にちなんだといわれます。関東大震災で焼失後、昭和3年(1928)に再建され、昭和12年(1937)に廃座となりました。この舞台で修業し、のち名優になった人は多く、別名「出世小屋」ともいわれています。宮戸座跡之碑は昭和53年(1978)に建てられました。
    浅草中央部エリア
  • 昭和24年(1949)に国立図書館が文部省から国立国会図書館に移管されて成立した、国立国会図書館の支部図書館です。戦前の日本において唯一の国立図書館であった帝国図書館の後身で、上野公園に林立する文化施設の一つとして親しまれてきましたが、現在は国際子ども図書館へと改装開館しました。
    上野・御徒町エリア
  • 初代柄井川柳は、川柳の創始者です。川柳は江戸時代の前句付の点者で、川柳撰集である「柳多留」の編纂でも有名です。その墓は龍宝寺(りゅうほうじ)にあり、別名「川柳寺」とも呼ばれます。龍宝寺は上野の寛永寺を開山した天海大僧正の法兄にあたる豪海大僧正が開山した天台宗寺院で、不動明王の梵字を刻んだ板碑が境内に残っています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 象牙工芸館では、アフリカ象と象牙原産国の紹介や彫刻品、美術品などを紹介しています。象牙の保護や輸出入に関するワシントン条約がわかりやすく説明されています。また、象牙製品の修理をお願いすることができます。
    浅草中央部エリア
  • 谷文晁は江戸後期文人画家で、狩野派、土佐派、文人画、西洋画など手法を研究し独自の画風を作りました。江戸文人画壇の重鎮となり、画業は上方の円山応挙、狩野探幽とともに「徳川時代の三大家」に数えられます。親交のある松平定信に乞われて近習となって諸国を随行しながら絵を描いたといわれています。お墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 松尾芭蕉(1644~1694)の句碑は、江戸時代寛政8年(1796)、芭蕉の103回忌に、浅草寺弁天山の鐘楼の入り口に建立されました。この句碑、元は浅草寺本堂の銭塚地蔵の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。佐脇嵩雪が描いた芭蕉の座像が線刻してありますが、200年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっています。
    浅草中央部エリア
  • 不忍池の中央には、琵琶湖の竹生島を模して造られたという弁天島があり、そこに弁財天を祀る弁天堂があります。弁天堂の周囲には「ふぐ供養碑」「魚塚」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • かわとはきものギャラリーには、世界各国の歴史的なはきものや各種参考靴、工具などが展示されています。足形測定機により自身の足の甲回りを採寸することができたり、シマウマや象など変わった皮に触れることもできます。
    浅草中央部エリア

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