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該当件数177件
  • 上野恩賜公園内の通称大仏山といわれ、かつて大仏殿があった場所に、昭和47年(1972)建立されたパゴダ(仏塔)です。寛永8年(1631)、堀直寄によって大仏が寄進されましたが、度々の地震や火災で倒壊し、現在は、大仏のお顔のみが保存され、大仏再建の願を込めて、お身体があった場所にパゴダが建てられました。
    上野・御徒町エリア
  • 上野恩賜公園内の竹の台噴水東側にある銅像で、昭和26年(1951)に福島県出身の玉応不三雄によって建立されました。高さ4.5m(石台を含む)の全身立像です。英世は福島の貧農に生まれ、北里柴三郎博士に師事し、ロックフェラー研究所に入り、梅毒の病原体を発見、アフリカで黄熱病の研究中感染して、死去しました。
    上野・御徒町エリア
  • 徳川家霊廟は、江戸幕府の将軍職を務めた徳川将軍家歴代の墓所のことで、東京の寛永寺、増上寺、日光の輪王寺にあります。上野寛永寺墓地には、徳川将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っています。厳有院(家綱)霊廟と常憲院(綱吉)霊廟の建築物群は、昭和20年(1945)の空襲で大部分を焼失しました。
    上野・御徒町エリア
  • JR上野駅西側に位置する上野恩賜公園は、1873年、太政官布達により日本の都市公園第1号として誕生しました。園内には美術館、博物館、音楽堂や動物園などの文化施設が点在し、東京ドーム約11個分もの広さを誇ります。

    ソメイヨシノやヤマザクラなど約1,200本の桜が植えられた園内は、桜の名所としても有名。シーズンにはライトアップされた夜桜が一層風情を添え、例年延べ330万人近い人出となります。不忍池(しのばずのいけ)は江戸時代より浮世絵に描かれたほどのハスの名所。たくさんの鴨や渡り鳥が訪れるので、バードウォッチングを楽しむ人の姿も見られるスポットです。

    美術館や博物館で国内外の芸術作品や文化・自然科学に触れたり、歴史の薫りを感じながら史跡巡りを楽しんではいかがでしょうか。1日では見てまわりきれないほどの魅力にあふれた公園です。
    上野・御徒町エリア
  • 沖田総司終焉の地は、今戸神社とされ、境内には「沖田総司終焉之地」の碑があります。新選組隊士の永倉新八の「同志連名記」によると、江戸に引き上げた時、沖田総司の肺の病はかなり進んでおり、薩長軍の江戸入りに際して、総司を含む患者たちは今戸神社に収容されたとあります。
    奥浅草エリア
  • 伊能忠敬は、江戸時代の商人・測量家で、寛政12年(1800)から文化13年(1816)までの17年をかけて全国を測量して「大日本沿海輿地全図」を完成させました。歴史上はじめて国土の正確な姿を明らかにし、初めて金星の子午線経過を観測した人物です。「東河伊能先生之墓」と記された墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 三菱財閥初代・岩崎彌太郎の長男で三代目社長、久彌の本邸として1896年に造られた建物です。当時は約1万5,000坪の敷地に20棟もの建物があったと言われていますが、現在は3分の1の敷地となり、洋館とビリヤードルーム(撞球室)、和館大広間の3棟が現存しています。

    【洋館】
    鹿鳴館の建築家として知られるジョサイア・コンドルによって設計された西洋木造建築の洋館で、館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施されています。

    【撞球室】
    当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の撞球室(ビリヤード場)で、洋館から地下道でつながっています。通常は非公開ですが、毎月15日(10月のみ10/16)に先着順で限定公開されています。

    【和館大広間】
    洋館に併置された名棟 梁大河喜十郎の手によるものと伝えられている書院造りの和館で、当時は550坪に及ぶ洋館を遥かにしのぐ規模でしたが、現在は冠婚葬祭などに使われていた大広間の1棟だけが残っています。

    一度にさまざま建築様式が見られるとあって見ごたえ抜群。大名庭園の形式を一部踏襲している広大な庭は、建築様式同様に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残しています。江戸時代の石碑や手水鉢、庭石などが見られ、煉瓦塀を含めた敷地全体が重要文化財に指定されています。
    上野・御徒町エリア
  • 平賀源内は、江戸中期に活躍した本草学者、科学者、戯作者です。源内焼・寒暖計・エレキテル(摩擦起電器)を創作。浄瑠璃本、また洋画なども手がけ、司馬江漢らに影響を与えました。安永8年(1779)に人を誤って殺傷して捕えられ獄死しました。お墓は台東区橋場二丁目の住宅街にあります。
    奥浅草エリア
  • 吉原の遊郭に祀られていた5つの稲荷神社と、隣接する吉原弁財天が合祀されてできた神社。古くから遊郭の総鎮守として遊女たちの信仰を集めていたことから、女性の様々な願いを叶えてくれるといわれています。ほかにも開運や縁結び、商売繁盛、技芸の上達などのご利益があると崇敬されてきました。

    春になると逢初桜(あいぞめさくら)と呼ばれるが枝垂れ桜が、見事な花を咲かせ人々を和ませます。毎年5月の例祭では神輿渡御が行われ、威勢の良い掛け声とともに各町は活気にあふれます。
    吉原弁財天は浅草名所七福神の一社・弁財天にあたり、七福神に関する授与も年間を通して行われています。
    奥浅草エリア
  • 高橋お伝の墓碑は谷中霊園にあります。本名は高橋でんです。強盗殺人の罪で斬首刑に処せられた女性で、仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のモデルとなり、「明治の毒婦」と呼ばれました。でんの墓に参ると三味線が上達するという評判があり、三味線を習うひとの墓参が伝逝去後の現在もかなりあるといわれています。
    谷中エリア
  • 谷中霊園は、谷中にある都立霊園です。明治7年(1874)明治政府は天王寺の寺域の一部を引き継ぎ、東京府管轄の公共墓地として谷中墓地を開設しました。その後、昭和10年(1935)に谷中霊園と改称されました。園内には寛永寺や天王寺の墓地が入り組んでおり、面積は約10万平方m、約7000基の墓が並んでいます。園内を通る「さくら通り」は桜の名所となっています。
    谷中エリア
  • 上野公園の入り口近くにある西郷隆盛の銅像は、人呼んで「上野の西郷さん」。明治維新の功績を称え、隆盛の旧友らによって1898年に建立されました。
    高さ3.7m、胸囲約2.6mの見上げるほど大きな銅像は、待ち合わせスポットやフォトスポットとして親しまれています。彫刻家、高村光雲によって作られた像は、愛犬のツンと一緒にうさぎ狩りに出かけているところだそう。
    上野公園にお立ち寄りの際は、ぜひ「上野の西郷さん」と写真撮影を楽しんではいかがでしょうか。
    上野・御徒町エリア
  • 「すみだリバーウォーク」は、東武鉄道の浅草駅と、とうきょうスカイツリー駅の間にある隅田川橋梁に設置された歩道橋です。
    浅草と東京スカイツリー®を最短で結ぶ歩行者ルートで、歴史ある鉄道橋や東武鉄道の車両が走る様子を間近に見ることができます。
    浅草中央部エリア
  • お化け地蔵は松吟寺(しょうぎんじ)にあります。「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、高さ3m余の並外れて大きいからなど、いくつかの伝承があります。石仏は享保6年(1721)の建立で、関東大震災で二つに折れましたが、補修して現在に至っています。常夜灯は、寛政2年(1790)に建てられました。
    奥浅草エリア
  • 天海僧正は「見立て」という、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てる思想によって上野の山を設計しました。琵琶湖にある竹生島の「宝厳寺(ほうごんじ)」に見立て、天然の池であった不忍池に中之島を築き建立されたのが「不忍池辯天堂」です。当初、お堂に参詣するためには船を使用していましたが、参詣者が増えたことから橋がかけられました。不忍池のどこからでも参拝できるように、八角形の建物になったと言われ、7月から8月にかけては、不忍池の蓮が咲き、極楽浄土を連想させる光景が広がります。

    ご本尊である辯才天は、音楽と芸能の守り神として広く信仰され、「辯”財”天」とも書くことから、金運上昇といったご利益もあると言われています。辯才天は琵琶を持った姿で知られていますが、不忍池辯天堂の辯才天は、8本の腕に煩悩を破壊する武器をお持ちになっている「八臂辯才天(はっぴべんざいてん)」。9月に行われる「巳成金(みなるかね)大祭」で目にすることができます。
    不忍池辯天堂には、豊臣秀吉公が大切にしていたという伝説のある、谷中七福神とは別の「大黒天」も祀られています。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた山岡鉄舟と初代三遊亭圓朝の墓は、鉄舟が明治16年(1883)に建立した全生庵にあります。鉄舟は晩年、禅を修め道場としてこの寺を建てました。居噺で人気を博した円朝は禅を通じて鉄舟に師事し親交を深めました。円朝の墓石には、鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とあります。
    谷中エリア
  • 太平洋戦争で犠牲となった動物や動物園で亡くなった動物の霊を慰めるための慰霊碑です。上野動物園内のゾウ園の向かいにあります。最初の慰霊碑は昭和6年(1931)に建立され、現在のものは50年(1975)に新たに建立されました。人工石には「動物よ安らかに」の碑文が刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜の墓は谷中墓地と称される区域の寛永寺墓地にあります。円墳状の墓で、慶喜とその妻の墓が並んでいます。慶喜は華族の最高位である「公爵」を与えてくれた明治天皇に感謝の意を表すため自分の葬儀を仏式でなく神式で行うよう遺言を残したため、一般皇族と同じような円墳が建てられました。
    谷中エリア
  • 上野恩賜公園内、不忍池の弁天島の天竜橋の向かい辺りに建てられている石碑で、徳川家康の愛用した眼鏡がかたどられています。東京の眼鏡業界の組合により昭和43年(1968)に建立されました。業界の発展に寄与した先覚者や建立者の名が刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸幕府唯一の医学専門学校の医学館が清洲橋通り沿いにありました。明和2年(1765)、幕府奥医師多紀元孝が医師(漢方医)の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾躋寿館から出発、寛政3年(1791)に、幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし、医学館と改称、規模を拡大しました。文化3年(1806)、大火に遭い焼失しましたが、同年に旧向柳原一丁目に移転、再建されました。
    敷地は約7千平方メートル、代々多紀家がその監督に当たり、天保14年(1843)には寄宿舎を設けて全寮制とし、広く一般からも入学を許可し、子弟育成をはかるなど、江戸時代後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献しました。
    ※現在、この場所に「旧躋寿館跡 浅草医学館跡」に関する案内板や説明版等は設置されておりません。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 浅草屈指の縁結びの神社として知られ、良縁を求める人の「婚活神社」として注目されています。
    この地は16世紀から焼かれていた今戸焼発祥の地で、猫の焼き物を販売していたことから、招き猫発祥の地でもあります。縁を招き寄せるペアの猫をモチーフにした絵馬や御朱印帳も人気です。

    1063(康平6)年、時の奥羽鎮守府源頼朝・義家父子が祈願し鎌倉の鶴ヶ丘と浅草今戸とに京都の石清水八幡を勧請して創建されました。境内には、幕末に活躍した新選組沖田総司の終焉の地の碑も佇んでいます。また、浅草名所七福神の福禄寿が祀られており、七福神詣りの参拝客でも賑わうスポットです。
    奥浅草エリア
  • 平成15年(2003)に、集団就職で上京した中小企業経営者ら有志団体によって上野駅広小路口前のガード下に建立された歌碑です。「あゝ上野駅(ああうえのえき)」は、1964年に発表された高度成長期の世相を描いた代表的ヒット曲で、いわゆる団塊の世代を中心に「心の応援歌」として多くの人々に勇気と感動を与えました。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸千家の祖川止不白が関宿藩主久世大和守の外神田下屋敷に建てた茶室で、明治2年(1869)に現在地に移築しました。不審庵表千家六代原叟宗左の三畳台目の茶室と同じ建て方といわれ、有形文化財に指定されています。不白は千家の茶を普及させ、大衆の茶道を試みたといわれおり、この茶室は江戸千家を広める拠点となりました。
    上野・御徒町エリア
  • 玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門)は、江戸時代初期、江戸市民の飲料水確保のため玉川上水を開発しました。四代将軍将軍家綱の頃、幕命が下り承応3年(1654)に開削工事は完成しました。現存する玉川上水は、江戸時代初期の土木技術を今日に伝える貴重な文化財です。お墓は聖徳寺(しょうとくじ)にあります。
    浅草中央部エリア
  • 俳句・短歌の革新者正岡子規(まさおかしき)が、1894(明治27)年から亡くなるまでの8年半、暮らした家です。
    子規は門弟や友人たちと文学や美術談義を行い、作品を発表し続け俳句や短歌、文章の革新に邁進しました。
    故郷松山より母と妹を呼び寄せ、結核に苦しみながらも34歳で亡くなるまで精力的に文学作品を創作し続けた場所でもあります。

    1945(昭和20)年の空襲で焼失しましたが、その5年後、当時の間取りのまま再建され、現在の庵は東京都指定史跡として明治の雰囲気が体感できる魅力的な空間となっています。

    子規が病室兼書斎にしていた「病牀六尺の間」などを復元しており、明治の暮らしだけでなく創作の様子を偲ぶことができます。現在、一般のボランティア団体により大切に維持・保存されています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 高尾太夫は吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたといわれています。いずれも三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女でした。春慶院(しゅんけいいん)にあるお墓は、世に万治高尾、あるいは仙台高尾と謳われ、幾多の伝説を生んだ二代目高尾太夫の墓といわれています。「寒風にもろくもくつる紅葉かな」の遺詠が刻まれています。
    奥浅草エリア
  • スターの広場は、浅草公会堂の正面入口前にある広場です。広場には、大衆芸能の分野で多くの人々に愛され親しまれた浅草ゆかりの俳優、落語家、歌手など約300名を超える芸能人の方々の原寸大手型とサインを刻印したプレートがスターの広場、オレンジ通り沿いの花壇に並べられ、多くのファンに親しまれています。
    浅草中央部エリア
  • 市村座の定式幕は、「黒」「萌葱(緑)」「柿色」三色の引幕で、現在国立劇場が同じ定式幕を使用しています。猿若町では天保末期から明治にかけて1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(後の守田座)があり、芝居町を形成していました。江戸歌舞伎興隆の場となったこの地に昭和39年(1964)に跡碑が建てられました。
    奥浅草エリア
  • 昭和20年(1945)の「東京大空襲」の犠牲者を悼む慰霊碑で平成17年(2005)に海老名香葉子さん(故林家三平の夫人)によって上野恩賜公園内に建立されました。この塔は東京大空襲を忘れないため・同じ悲劇が起こらないよう、願いをこめて、大空襲で亡くなったご家族がモチーフになっている平和祈念母子像・時計塔です。
    上野・御徒町エリア
  • 川柳発祥の地碑は、三筋2丁目交差点の南東角に建っている石碑です。平成19年(2007)、川柳発祥250年を記念して建立されました。旧浅草新堀天台宗龍宝寺前(現在の蔵前4丁目)に住んでいた里正柄井八右衛門が無名庵川柳と号し、初めて万句合を興行しました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 明治13年(1880)に竣工された都内に現存する最古のレンガ建築です。この建物は、教育博物館の書籍庫として建てられたもので、耐火を重視し、すべての開口部に鉄扉を付設するなどの不燃性を重視した造りとなっています。築124年を迎えた平成22年(2010年)に耐震改修事業の一環により全面改修が施されました。
    上野・御徒町エリア
  • 高橋至時は江戸時代中期の暦学者で、寛政7年(1795)に改暦の議が幕府で起こると、同門の間重富とともに天文方に抜擢され、「寛政歴」を作りました。伊能忠敬が実測地図を作成する際には、測量を指導し完成させました。二人は「日本地図の父母」といわれています。文化元年(1804)肺患のため没しました。お墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 鳩ポッポの歌碑は、昭和37年(1962)に作詞の舞台となった浅草寺本堂の西側に建立されました。童謡「鳩ポッポ」は、作詞家である東くめ女史が、浅草寺の境内にて鳩と戯れている子供たちをみてこの歌詞を書き、滝蓮太郎により作曲されました。
    浅草中央部エリア
  • 妙亀塚は妙亀塚公園という小さな公園の中にある塚です。このあたりは謡曲「隅田川」で有名な妙亀尼とその子梅若丸の伝説の地で、小高い塚に板碑をはめ込んだ供養塔が立っており、都の旧跡に指定されています。妙亀塚は「梅若伝説」にちなんだ名称です。
    奥浅草エリア
  • 彰義隊戦死者碑は、明治新政府に反抗して討滅された彰義隊の戦死者を供養するために明治15年(1882)に建てられました。上野恩賜公園内の西郷隆盛像の裏手にあります。墓石には旧幕臣山岡鉄舟の筆によって「戦死之墓」とのみ記され、「彰義隊」の文字はありません。
    上野・御徒町エリア
  • 宝永7年(1710年)、江戸六地蔵の2番目に奥州街道の旅人の安全を祈願して街道の入口にある東禅寺に建立されました。その他、品川寺(東海道)、太宗寺(甲州街道)、真性寺(中山道)、霊巌寺(千葉街道)、永代寺(千葉街道)に地蔵が建立されていました。
    奥浅草エリア
  • 日暮里駅北口から御殿坂を上っていくと下る階段があります。階段から眺める夕日が美しいことから名付けられました。
    谷中エリア
  • 佐野善左衛門政言は江戸時代中期の武士で、天明4年(1784)、江戸城内で時の権力者田沼意知(田沼意次の子)に刃傷におよびました。意知は翌日死亡し、政言は切腹となり、28歳で一生を閉じました。この刃傷事件の翌日から高価の米価が下落し、老中田沼意次も失脚しました。お墓は徳本寺(とくほんじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 蓬莱園と命名された庭園は、江戸時代、肥前の国平戸藩主の松浦家の別邸庭園として造られたものです。鳥越川の水を取り込んだ大泉水を中心に、二千六百坪の敷地に築山や東屋、四季の花木、蓬莱の仙郷を思わせる名園だったようですが、関東大震災で荒廃し、現在は都立忍岡高校校庭に池の一部と都指定の天然記念物の大イチョウを残すのみです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 清廉度量、家庭円満の神様(布袋尊)が祀られている橋場不動尊。正式名を砂尾山橋場寺不動院といい、現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。
    760年、寂昇(じゃくしょう)上人によって開創されました。1845年に建立された本堂は、小堂ながら美しく簡素なたたずまいを残す江戸時代の建築様式です。明治の大火、関東大震災、第二次大戦の戦災でも周辺を災禍から守ったことから「火伏せの不動尊」とも呼ばれています。

    本堂の右前には、樹齢約700年の大銀杏が見事な枝葉を伸ばしています。その昔、すぐ近くを流れる隅田川を往来して参拝する人の目印となったのがこの銀杏で、今なおそのパワーを授かりに来る人も多いそうです。
    また、江戸時代から伝わる布袋尊像が祀られています。その姿は肩に袋がなくお腹が袋代わりの形をしている珍しいもので、古くから庶民に尊信されています。(御開帳期間 1月1日~7日)
    奥浅草エリア

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