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該当件数320件
  • 曹源寺(かっぱ寺)は、江戸時代には大雨のたびに掘割の溢れた水に苦しむ住民のために雨合羽商の喜八は私財を投じて水はけ工事を行い、これを河童が手伝って瞬く間に完成させたといわれています。この噂が広まり「かっぱ寺」とも呼ばれ、特に水に縁のある商売人から信仰されています。
    浅草中央部エリア
  • 日の出湯は、宮大工により、昭和初期に建てられた銭湯です。外観は破風造りの社寺仏閣の様ですが、店内は平成19年(2007)に全面リニューアルしています。高い天井、広くゆったりとした浴室は、マイナスイオンがいっぱいです。男湯からは庭を眺めることができ、女湯は風呂場のタイルに水槽がはめ込まれ、可愛い金魚が泳いでいます。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 根岸御行の松は、江戸名所図会や広重の錦絵にも描かれています。江戸名松の一つに数えられ、根岸4丁目の西蔵院不動堂の境内にあります。この松は、樋口一葉の作品「琴の音」や子規の俳句の題材にもなりました。初代の松は樹齢350年を経た後枯れてしまい、現在は平成30年に植えられた4代目の松になります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 旧東京音楽学校奏楽堂は、東京芸術大学にあった音楽ホールを昭和62年(1987)に移築・復原したものです。明治23年(1890)に創建された日本最古の洋式音楽ホールで、国の重要文化財に指定されています。2階にある音楽ホールは、かつて滝廉太郎、山田耕作、三浦環が公演した由緒ある舞台です。
    上野・御徒町エリア
  • 人形の街のはじまりは、正徳元年(1711)吉徳初代、三河出身の次郎兵衛が開いた人形の店で、陳列や販売方法の工夫など、たくましい商魂で一大問屋街を作り上げました。以来、東京の人形問屋の約70%以上がこの浅草橋界隈に集まりました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 伝法院通りは、仲見世通りと六区興行街を結び、浅草通りの裏通り道として早くから賑わってきました。つくばエクスプレス開業時には来街者を引き込み、街に回遊性を持たせるため、伝法院通り江戸まちづくり景観整備事業と銘打って、正面外観の改修や統一看板の設置など、江戸情緒あふれる街並みを再現する景観整備を進めてきました。
    浅草中央部エリア
  • 八万四千体地蔵は、浄名院(じょうみょういん)にある2万5千体を超えるたくさんの石地蔵菩薩像のことです。明治12年に、第38世妙運大和尚が仏恩に報い、衆生済度(迷い苦しんでいる人々を救い、悟りの境地に導くこと)のために、八万四千体の地蔵建立を発願されたことに始まります。「八万四千」とは仏法で無数の意味を示します。この石地蔵尊は全国各地にも造立されており、これまで約5万体の石地蔵尊が造立され、今も増え続けています。
    上野・御徒町エリア
  • 政治家で弁護士、第52~54代内閣総理大臣である鳩山一郎の墓は谷中霊園にあります。大正元年(1912)に東京市議会議員に当選後、大正4年(1915)に衆議院議員に当選して以来、政党政治家として活動しました。昭和29年(1954)から昭和31年(1956)の首相在任中、保守合同を成し遂げて自由民主党の初代総裁となり、日本とソビエト連邦の国交回復を実現しました。
    谷中エリア
  • 延命長寿、諸病平癒、人々の安全と健康を守る神様が祀られている長安寺の歴史は古く、建立は寛文9年(1669)とされていますが、これよりさらに400年も前にさかのぼった板碑(塔婆の一種)が残されています。また、長安寺には明治初期の画家狩野芳崖(かのうほうがい1828-1888)の墓所があります。
    谷中エリア
  • 昭和8年(1933)に京成本線開通にあわせ、開業した駅です。ホームが短く4両編成の電車しか停車できないことによる乗降客の減少や、建物の老朽化のため、平成9年(1997)に営業休止となりました。駅事務室、ホームは地下にあり、ホームは電車の通過中に見ることができ、外観では入口にあたる建物を見ることができます。
    上野・御徒町エリア
  • 「東京ふぐ料理連盟」が、フグの霊を供養するために、昭和40年(1965)に建立した石碑です。上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にあります。「幾千萬のふぐの霊に満腔の感謝をささげ、今後絶對安心してふぐを召し上がられることを祈念し茲に別記會員有志の協力によってふぐ供養碑を建立した所以であります」と刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸千家の祖川止不白が関宿藩主久世大和守の外神田下屋敷に建てた茶室で、明治2年(1869)に現在地に移築しました。不審庵表千家六代原叟宗左の三畳台目の茶室と同じ建て方といわれ、有形文化財に指定されています。不白は千家の茶を普及させ、大衆の茶道を試みたといわれおり、この茶室は江戸千家を広める拠点となりました。
    上野・御徒町エリア
  • 永昌寺は、江戸時代永禄元年(1558)に浅草の下谷に下谷長者が開創した寺です。寛永14年(1637)に現在の地に移りました。近辺は大名屋敷が多く、肥前藩主松浦壱岐守の妻、永昌院が開基となり、寺名に由来しています。明治15(1882)に嘉納治五郎がこの寺院の境内に柔道場「講道館」を設立しました。
    上野・御徒町エリア
  • 吉原遊郭は、江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼を担いました。昭和三十三年売春防止法の成立によって遊郭は廃止され、その名残を記す碑は、昭和三十五年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古によるものです。
    奥浅草エリア
  • 玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門)は、江戸時代初期、江戸市民の飲料水確保のため玉川上水を開発しました。四代将軍将軍家綱の頃、幕命が下り承応3年(1654)に開削工事は完成しました。現存する玉川上水は、江戸時代初期の土木技術を今日に伝える貴重な文化財です。お墓は聖徳寺(しょうとくじ)にあります。
    浅草中央部エリア
  • 駒形橋は、昭和2年(1927)に完成した長さ150mの青いアーチ橋で、中央径間部は下路式、両側の側径間部は上路式で浅草通りを通しています。橋の名称は「駒川の渡し」や観音様が上陸した「駒形堂」に由来するとされています。
    浅草中央部エリア
  • 江戸時代の歌人である戸田茂睡の墓は、浅草寺境内にあります。戸田茂睡は、古典の研究を行い、公家の間に伝えられた伝統的な歌学が、秘事口伝を主とし、師の歌説に門弟が盲従することに反対して歌学の革新を主張しました。下河辺長流や契沖とともに国学の先駆となりました。
    浅草中央部エリア
  • 聖天宮は、上野不忍池の弁天堂にあるお宮です。江戸時代後期の「江戸名所図会」には、弁天島の北には小島が描かれ、「聖天」と記されています。(「聖天宮 本社の北の方、小島に勧請す。此島は其始弁天の祠ありし旧地なり。其頃もこの聖天の宮ありしにや、今も地主の神と称せり」)
    上野・御徒町エリア
  • 明治時代に活躍した詩人、石川啄木の歌碑は等光寺(とうこうじ)の境内にあり、啄木の処女歌集「一握の砂」に収められた「浅草の夜のにぎわひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」という句が刻まれています。啄木生誕70年にあたる昭和30年(1955)に建立されました。
    浅草中央部エリア
  • 浅草迷子しらせ石標は、江戸時代安政7年(1860)の復元として、昭和32年(1957)に浅草寺本道前に建立されました。石標は当時、迷子や尋ね人の掲示板の役割を果たしていました。また、安政の大地震による吉原楼閣の犠牲者の慰霊碑でもあります。
    浅草中央部エリア
  • 島田虎之助、直心影流島田派の剣客。幼少より中津藩剣術師範堀十郎左衛門の道場で学び、上達が早く16歳の頃には九州一円を武者修行し名声をあげました。浅草新堀で道場を開き、そこには勝麟太郎(のちの海舟)も通いました。虎之助は幕末の剣豪といわれましたが、嘉永5年(1852)に病没しました。お墓は正定寺(しょうじょうじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア 浅草中央部エリア
  • 元プロボクサーでコメディアンのたこ八郎さん(1940~1985)の地蔵があることで有名です。無病息災を祈願した「たこ地蔵」は「めいわくかけてありがとう たこ八郎」と自筆で刻まれており、発起人である由利徹さん、赤塚不二夫さん、山本晋也さんらの名前も刻まれています。日蓮聖人御開眼の毘沙門天を奉安しています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 浅草木馬館は、昭和52年(1977)に開館した大衆劇場で、全国人気劇団が月替わりで公演し、「涙あり笑いあり」の芝居や舞踊ショーが演じらています。お目当ての役者が登場すると客席からおひねりが飛び交います。
    浅草中央部エリア
  • 蔵前橋西詰めの下流側に石碑と若木が植えられています。初代「首尾の松」は、江戸時代安永年間(1772~80)風災で倒れ、その後も枯れたり焼失し、昭和37年(1962)これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者と共にこの橋際に碑を建設しました。現在の松は七代目といわれます。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 宝泉湯はサウナと日替り薬湯が人気の銭湯です。熱帯魚の水槽が目印となっています。浴室奥の主浴槽、深内に超音波気泡ジェット3連とブクブクの気泡湯、電気風呂があり、並びに、別室となったミストと薬風呂があります。ぬるめの湯の薬風呂、頭上から降りそそぐミストの細かい霧雨が気持ちいいと評判です。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 吉原観音は、千束三丁目にある花園公園の吉原弁財天のなかにあります。関東大震災では遊女をはじめ多くの人々が池に逃れ、490人が溺死する悲劇が起こりました。この観音さまは溺死した人々の供養のために大正15年(1926)に造立されたものです。
    奥浅草エリア
  • 日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正13年(1924)に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。これをうけて昭和3年(1928)に竣工したのが黒田記念館です。岡田信一郎により設計され、現在は黒田記念室と特別室で黒田清輝の作品を展示しています。
    上野・御徒町エリア
  • 細井平洲は江戸時代の儒学者です。農家の次男として生まれた平洲は少年の時代より勉学を積み重ね、私塾「嚶鳴館」を開き、多くの人々を教えました。特に上杉鷹山の師として有名になり、内村鑑三は鷹山を「代表的日本人」として挙げ、その師である平洲を「当代最大の学者の一人」として紹介しています。お墓は天嶽院(てんがくいん)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 初代柄井川柳は、川柳の創始者です。川柳は江戸時代の前句付の点者で、川柳撰集である「柳多留」の編纂でも有名です。その墓は龍宝寺(りゅうほうじ)にあり、別名「川柳寺」とも呼ばれます。龍宝寺は上野の寛永寺を開山した天海大僧正の法兄にあたる豪海大僧正が開山した天台宗寺院で、不動明王の梵字を刻んだ板碑が境内に残っています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 西町太郎稲荷神社は、立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として、現在地(万治年間(1658~61)に九州筑後柳川藩11万9600石の太守、立花左近将監の江戸中屋敷として設けられた邸跡地)に建立されたものです。諸々の祈願事を叶え、特に商売繁盛に御利益があると、厚く信仰されています。
    上野・御徒町エリア
  • 不忍池由来碑は、上野恩賜公園の弁財天入口近くにある石碑で、昭和41年(1966)に建立されました。上野台地と本郷台地の間を忍ヶ丘と呼ばれていたことに由来しているといわれています。この地域は、古くは海で、海岸線の後退で沼のようになったのは平安時代といわれています。
    上野・御徒町エリア
  • 不忍池の中央には、琵琶湖の竹生島を模して造られたという弁天島があり、そこに弁財天を祀る弁天堂があります。弁天堂の周囲には「ふぐ供養碑」「魚塚」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 妙亀塚は妙亀塚公園という小さな公園の中にある塚です。このあたりは謡曲「隅田川」で有名な妙亀尼とその子梅若丸の伝説の地で、小高い塚に板碑をはめ込んだ供養塔が立っており、都の旧跡に指定されています。妙亀塚は「梅若伝説」にちなんだ名称です。
    奥浅草エリア
  • 下谷七福神詣りは比較的新しい七福神詣りで、それまでは個々に御開帳日を定め行われいていたものを昭和52年(1977)から七社寺そろって御開帳日を定め、七福神めぐりが始められました。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 太皷館では世界各国から収集された太鼓とその参考資料を永久保存し、広く一般に公開されています。収蔵品は900点にものぼり、いずれもが歴史・文化・民俗学的観点からも貴重であるばかりでなく資料的価値では世界一級のものばかりです。
    浅草中央部エリア
  • 正月行事の一つとして、七福神をまつる神社・仏閣を参詣する風習が起こり、それを七福神詣などと呼びました。谷中七福神詣りは江戸時代中期、宝暦年間(1751~1764年)に始まり盛んになった、江戸では最も古い七福神巡礼といわれています。谷中、上野など歴史的な建造物や寺・公園を通りながら、ゆっくりと一日散策が楽しめるコースになっています。
    上野・御徒町エリア 谷中エリア
  • 東京藝術大学美術学部構内にある美術館です。平成10年(1998)に芸術資料館から現在の名称に改称しました。芸術資料収集は、 明治20年(1887)の東京美術学校設置に先立つ時期から行われ、現在の収蔵品は3万件余りに達し、その中でも大きな比重を占めているのが歴代卒業生の作品となっています。
    上野・御徒町エリア
  • ゴルフ商品街は、御徒町駅を出てすぐのアメ横通りと駅前通りにあるゴルフショップ商店街です。アメ横通りは、CMで有名な「二木ゴルフ」や「ことぶきゴルフ」「ロイヤルゴルフ」、駅前通りは「フタバゴルフ」、といったゴルフショップが建ち並びます。品揃えも豊富で、ゴルフ好きの男性客で賑わっています。
    上野・御徒町エリア
  • 自性院(じしょういん)は、慶長16年(1611)に神田に創建、慶安元年(1648)現在地に移った古寺です。愛染堂に安置した愛染明王像(非公開)で知られます。愛染明王は縁結び、家庭円満の対象として信仰されています。文豪川口松太郎の昭和初期の名作「愛染かつら」は、愛染明王像と本堂前にあった桂の古木にヒントを得た作品だといわれます。
    谷中エリア
  • 笠森稲荷の本尊は、現在の天王寺の境内にあった養寿院末寺福泉院に祀られていました。明治3年(1870)にこの寺が廃寺になり、現在は江戸百観音の札所として信仰を集めていた養寿院に遷つされています。
    上野・御徒町エリア

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