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該当件数319件
  • 天海僧正の毛髪を治めた宝塔で、慶安5年(1652)に弟子の義海によって建立されました。寛永寺を創建した天海僧正は寛永20年(1643)子院の本覚院において108歳で没し、慈眼大師の諡号がおくられました。毛髪塔が立つ場所は本覚院跡で現在の寛永寺清水観音堂の裏にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 1917(大正6)年に日本で最初の駅伝「東海道五十三次駅伝徒歩競争」京都~東京間の508㎞23区間で開催されました。スタートは京都の三条大橋で、ゴールは上野の不忍池で開かれていた博覧会場の正面玄関でした。
    上野・御徒町エリア
  • 勝川春章は、江戸末期の浮世絵師で、美人画などを多く描き、葛飾北斎の師でもありました。お墓は西福寺(さいふくじ)にあります。西福寺は、古くは三河国松平郷(愛知県豊田市)にあった寺で、徳川家康が現在地に移転したといわれています。東京で最も早い公立小学校の一つである育英小学校の発祥の地としても知られています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 日暮里の地は、江戸時代中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれて、四季折々の花樹を楽しむ江戸の人々の行楽地として賑わいました。青雲寺は修性院と共に「花見寺」と呼ばれ、豊かな自然に囲まれて草花を数多く植えた美しい庭園があったといわれています。また、滝沢馬琴(たきざわばきん)筆塚の碑があります。
    谷中エリア
  • 江戸時代の国学者で著名な俳諧師である石川雅望の墓は榧寺(かやでら)境内にあります。雅望は晩年、狂歌をよくし、著書には「源注余滴」「雅言集覧」などがあり、戯者小説類も数種あります。墓がある榧寺は樹齢千年の榧の木にちなんで名づけられた寺で、大きな榧の木から作られた火除けの神、秋葉権現で知られています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 川柳発祥の地碑は、三筋2丁目交差点の南東角に建っている石碑です。平成19年(2007)、川柳発祥250年を記念して建立されました。旧浅草新堀天台宗龍宝寺前(現在の蔵前4丁目)に住んでいた里正柄井八右衛門が無名庵川柳と号し、初めて万句合を興行しました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 虫塚は、寛永寺境内にあります。伊勢長島藩主である増山雪斎の遺志で写生に使った虫類を供養した碑で、文政4年(1821)に建てられました。当初、寛永寺子院勧善院内にありましたが、昭和初期に現在地に移転しました。碑は自然石で、正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は、詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 浅草木馬館は、昭和52年(1977)に開館した大衆劇場で、全国人気劇団が月替わりで公演し、「涙あり笑いあり」の芝居や舞踊ショーが演じらています。お目当ての役者が登場すると客席からおひねりが飛び交います。
    浅草中央部エリア
  • 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲の「花」の歌碑は、昭和31年(1956)、言問橋のたもとの隅田公園内に武島羽衣先生歌碑建設会によって建立されました。「花」の歌碑には、羽衣自筆の歌詞が刻まれています。うららかな春景色を彷彿とさせる美しいメロディーは、今なお多くの人々に親しまれ、歌いつがれています。
    奥浅草エリア
  • 宮戸座は明治29年(1896)に開場、座名は隅田川の古称「宮戸川」にちなんだといわれます。関東大震災で焼失後、昭和3年(1928)に再建され、昭和12年(1937)に廃座となりました。この舞台で修業し、のち名優になった人は多く、別名「出世小屋」ともいわれています。宮戸座跡之碑は昭和53年(1978)に建てられました。
    浅草中央部エリア
  • 木製の本棚と家具が配された居心地のよい図書室では、開催中の展覧会の関連書籍を多数紹介するほか、美術図書や展覧会カタログ、美術雑誌などを自由に閲覧できる。館の歴史に関するアーカイブズ資料をはじめ、教育普及に関連する資料や、公募団体に関連する資料も保管している。
    (画像提供:東京都美術館)
    上野・御徒町エリア
  • 河東碧梧桐は、明治時代の 俳人で正岡子規門の高弟です。高浜虚子と対立し定型・季語を離れた新傾向俳句を提唱。全国行脚して「三千里」「続三千里」をまとめた後、自由律、ルビつき句など句風は変遷しました。著書に「新傾向句集」「碧梧桐句集」「子規言行録」などがあり、昭和12年(1937)に没し、お墓は梅林寺(ばいりんじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 背面地蔵は正保4年(1647)の創立で一丈三尺余りです。 その昔奥州街道の傍、 道路仏として西向きに立てられましたが、 後に明和元年 (1764) 道筋が寺の東側に改り、 地蔵尊を前向きに建て直したところ、 不思議な事に一夜のうちに元の向きになったと人々に伝えられて、 この尊称が起こったといわれています。薬王寺(やくおうじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 明治6年(1873)、明治天皇は元勲三条実美の別邸対鴎荘に行幸し病床にあった三条実美を見舞われました。御見舞いの帰途、伊達宗城邸で御休息の際、隅田川の冬景色を賞せられた和歌「いつみてもあかぬ景色は隅田川 難美路の花は冬もさきつつ」をお詠みになりました。碑は今戸町の隅田公園内にあります。
    奥浅草エリア
  • 日本を代表する時代小説作家である池波正太郎。その功績を称え、2007年11月、待乳山聖天公園に生誕地碑が建立されました。池波正太郎は待乳山聖天宮の南側、旧東京市浅草聖天町61番地で誕生しました。自身のエッセイに「大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は、私の心のふるさとのようなものだ」(『東京の情景「大川と待乳山聖天宮」』より)と記しており、小説の舞台にも待乳山や近くの今戸、橋場などをたびたび登場させています。
    浅草中央部エリア
  • 自性院(じしょういん)は、慶長16年(1611)に神田に創建、慶安元年(1648)現在地に移った古寺です。愛染堂に安置した愛染明王像(非公開)で知られます。愛染明王は縁結び、家庭円満の対象として信仰されています。文豪川口松太郎の昭和初期の名作「愛染かつら」は、愛染明王像と本堂前にあった桂の古木にヒントを得た作品だといわれます。
    谷中エリア
  • 下谷神社(したやじんじゃ)の境内に「寄席発祥之地」の石碑があります。江戸時代寛政10年(1798)に馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎(のちの三笑亭可楽)が、素人噺家として入場料をとって興行を行ったことが、寄席のはじまりだといわれています。
    上野・御徒町エリア
  • 昭和24年(1949)に国立図書館が文部省から国立国会図書館に移管されて成立した、国立国会図書館の支部図書館です。戦前の日本において唯一の国立図書館であった帝国図書館の後身で、上野公園に林立する文化施設の一つとして親しまれてきましたが、現在は国際子ども図書館へと改装開館しました。
    上野・御徒町エリア
  • 了翁禅師塔碑は、寛永寺にある石碑です。了翁は僧門に入り、諸国を巡錫している途中、夢の中で一種の筆法を修得し、これを錦袋円と名付け、上野不忍池の池畔に店舗を営みました。そこで得た私財を江戸大火の際に罹災民の救済に投じ、また、勧学寮という学問所などを建立し教育に尽力しました。
    上野・御徒町エリア
  • 佐野善左衛門政言は江戸時代中期の武士で、天明4年(1784)、江戸城内で時の権力者田沼意知(田沼意次の子)に刃傷におよびました。意知は翌日死亡し、政言は切腹となり、28歳で一生を閉じました。この刃傷事件の翌日から高価の米価が下落し、老中田沼意次も失脚しました。お墓は徳本寺(とくほんじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 宋紫石は江戸中期の画家で、長崎に遊学し、清朝の画家沈南蘋の精緻な写実画をうけついだ熊代熊斐に学びました。さらに宋紫岩の薫陶を受け、名を宋紫石と改め、遂に一家をなし、江戸に帰って、大いに南蘋派を流布させた名匠です。南蘋派は日本の伝統画に写実の思想を再覚醒せしめた近代日本画壇の源流です。お墓は徳本寺(とくほんじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 不忍池の中央には、琵琶湖の竹生島を模して造られたという弁天島があり、そこに弁財天を祀る弁天堂があります。弁天堂の周囲には「ふぐ供養碑」「魚塚」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 横山大観は、近代日本画壇の巨匠です。明治22年(1889)に開校した東京美術学校に第一期生として入学し、岡倉天心に多大な啓発を受けました。その後海外に渡り、ニューヨークやパリなどで相次いで展覧会を開き、高い評価を得ました。日本でもその画風が評価され始め、第一回文化勲章の受章者となりました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 幕末の勤王家である蒲生君平の墓は臨江寺(りんこうじ)にあり、国史跡に指定されています。君平は幼児期から学問に励み、寛政の末期、諸国の天皇陵を歩き、享和元年(1801)に「三陵志」を著しました。これは幕末の尊皇論の先駆をなすものとして知られています。文化10年(1813)に没し、高山彦三郎や林子平と共に「寛政三奇人」の一人にあげられています。
    谷中エリア
  • 市村座の定式幕は、「黒」「萌葱(緑)」「柿色」三色の引幕で、現在国立劇場が同じ定式幕を使用しています。猿若町では天保末期から明治にかけて1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(後の守田座)があり、芝居町を形成していました。江戸歌舞伎興隆の場となったこの地に昭和39年(1964)に跡碑が建てられました。
    奥浅草エリア
  • 小花作助は、江戸時代の幕臣で小笠原諸島の開発者です。文久元年(1861)には小笠原開拓御用を命ぜられ咸臨丸で渡航して島務にあたりました。維新後は小笠原島内務省出張所の初代所長を命ぜられました。遺品は小笠原の実体を明らかにする貴重な資料として、東京都有形文化財に指定されています。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 象牙工芸館では、アフリカ象と象牙原産国の紹介や彫刻品、美術品などを紹介しています。象牙の保護や輸出入に関するワシントン条約がわかりやすく説明されています。また、象牙製品の修理をお願いすることができます。
    浅草中央部エリア
  • 西町太郎稲荷神社は、立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として、現在地(万治年間(1658~61)に九州筑後柳川藩11万9600石の太守、立花左近将監の江戸中屋敷として設けられた邸跡地)に建立されたものです。諸々の祈願事を叶え、特に商売繁盛に御利益があると、厚く信仰されています。
    上野・御徒町エリア
  • この碑は東京工業大学の同窓会である蔵前工業会が設置したもので榊神社に建立されています。碑文には「工業教育発祥の地」と書かれています。この地には明治14年(1881)に創立の「東京職工学校」(後の「東京工業大学」)がありましたが、関東大震災により施設の大半を焼失したため目黒に移転しました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 沢田正二郎は、大正から昭和初期に活躍した大衆演劇の人気俳優で、早稲田大在学中から坪内逍遥主宰の文芸協会演劇研究所に入るなど演劇の世界に身を投じました。芸術座を結成し退団後は、新しい大衆劇の創造を目指して新国劇を創立、「国定忠治」を初め剣劇で活躍し「沢正」と呼ばれ人気を博しました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 芸術上の功績顕著な芸術家を優遇するための栄誉機関です。芸術に寄与する活動とともに、芸術に関する重要事項を審議する機関となっています。明治40年(1906)に設けられた美術審査委員会を母体とし、改組拡充を経て昭和22年(1947)に「日本藝術院」と名称を変更しました。
    上野・御徒町エリア
  • 蔵前橋西詰めの下流側に石碑と若木が植えられています。初代「首尾の松」は、江戸時代安永年間(1772~80)風災で倒れ、その後も枯れたり焼失し、昭和37年(1962)これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者と共にこの橋際に碑を建設しました。現在の松は七代目といわれます。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 「かなりや」歌碑は、上野恩賜公園内、不忍池弁天島の天龍橋手前にある歌碑で、昭和35年(1960)に「西條八十会」によって建立されました。碑面には忘れた唄を思い出す「かなりや」の四番の歌詞が自筆で刻まれています。上野東照宮を散策していた時にこの「かなりや」の唄を作ったのを記念してこの地に建てられました。
    上野・御徒町エリア
  • 大原重徳は幕末・明治維新期の尊攘派公卿です。幕府が調印した日米修好通商条約に強く反対し、新進公家と共に調印不許可を朝廷に訴え、その後も一貫した尊王攘夷派として活躍しました。維新後は参与、刑法官知事、集議院長官を歴任し明治新政府で活躍しました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 東京文化会館内にある音楽資料室です。数少ない音楽専門の図書館として昭和36年(1961)に開設されました。クラシック音楽を中心に、民族音楽、邦楽、舞踊などの資料を無料で閲覧・視聴することができます。また、都内で活動するアマチュアの演奏団体にオーケストラ・吹奏楽用のパート譜の館外貸出も行っています。
    上野・御徒町エリア
  • 昭和46年(1971)、日本ゴム工業会 三田土会によって建立された石碑です。明治19年(1886)に松前藩士の四人の兄弟が日本で初めてゴムの熱加硫法に成功し、土屋護謨(ゴム)製造所をこの地に創設しました。後に「三田土ゴム工業」となり大規模な工場を建設、軟式のゴムボールや消しゴムなど新しいゴム製品を次々に開発しました。
    上野・御徒町エリア
  • 嘉永・安政時代に下谷坂本村字入谷に住んでいた植木師の成田屋山崎留次郎が、東の朝顔造りの大関であったと記録が残っています。入谷が朝顔で有名になったのは、明治になってからのことで、土質が朝顔造りに適していたのか、十数件の植木屋が、一軒500~600坪の土地を有し、軒を連ねて朝顔造りをはじめました。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 両大師は、江戸時代正保元年(1644)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立されました。天海僧正と天海が最も尊敬した平安時代の高僧慈恵大師の二大師を祀ることから「両大師」と呼ばれるようになりましたが、正式には「寛永寺開山堂」といいます。堂内にある天海僧正坐像は有形文化財に指定されています。
    上野・御徒町エリア
  • 永久寺は江戸五色不動(えどごしきふどう)の一つ、目黄不動として知られています。開創は14世紀の南北朝騒乱の頃とされます。その後の歴史の流れの中でいくたびか戦乱などによって焼失し、 再建を繰り返してきました。 一歩山門を入りますと樹齢一千年を越える松の木が、 御仏と共に訪れる人を静かに迎えています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 乾山窯元之碑は入谷鬼子母神(真源寺)側の交差点一郭にあります。隣には、「入谷朝顔発祥之碑」があります。琳派の創始者の画家・尾形光琳の弟で作陶が有名な尾形乾山が入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれました。
    根岸・入谷・金杉エリア

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