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該当件数320件
  • 旧東京音楽奏楽堂前の銅像です。作者は滝廉太郎と同郷の彫刻家朝倉文夫の手によるものです。滝は明治27年(1894)に東京音楽学校に入学、のちに研究科に進んで、ピアノ授業の嘱託となり音楽家として世に出ました。「荒城の月」などを作曲し、23歳の若さで夭折しました。郷里の大分県の岡城趾にも同じ像が置かれています。
    上野・御徒町エリア
  • 白鬚橋は隅田川にかかる橋で、橋名は東岸にある「白鬚神社」にちなんでいます。創架は大正3年(1914)で近在の人々が基金を募り完成した木橋でした。現在の橋は、昭和6年(1931)に竣工し、橋長は168m、幅員は22mのアーチ形式です。
    奥浅草エリア
  • 蔵前橋西詰めの下流側に石碑と若木が植えられています。初代「首尾の松」は、江戸時代安永年間(1772~80)風災で倒れ、その後も枯れたり焼失し、昭和37年(1962)これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者と共にこの橋際に碑を建設しました。現在の松は七代目といわれます。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 上野恩賜公園内、不忍池の弁天島の天竜橋の向かい辺りに建てられている石碑で、徳川家康の愛用した眼鏡がかたどられています。東京の眼鏡業界の組合により昭和43年(1968)に建立されました。業界の発展に寄与した先覚者や建立者の名が刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 天明2年(1782)に本物の溶岩を運んで築かれた、都内でも珍しい富士塚「下谷坂本富士」。
    富士山に誰もが行けるわけではなかった時代、その姿を伝えるべく作られた、直径約15m、高さ約6mのミニチュアの富士山が小野照崎神社の境内にあります。
    一合目から順に十合目まで記されており、南無妙法と書かれた石碑や修験道の開祖である役小角の像も残る等、神仏習合の名残が見て取れます。
    先人の山守りの知恵によって今も当時の荘厳な姿を残していて、国の重要有形民俗文化財に指定されています。
    富士山に合わせて、お山開きが行われ、6月30日と1日には富士塚に登ることができます。

    【Twitter】https://twitter.com/onoterupr
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 高橋お伝の墓碑は谷中霊園にあります。本名は高橋でんです。強盗殺人の罪で斬首刑に処せられた女性で、仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のモデルとなり、「明治の毒婦」と呼ばれました。でんの墓に参ると三味線が上達するという評判があり、三味線を習うひとの墓参が伝逝去後の現在もかなりあるといわれています。
    谷中エリア
  • 延命長寿、諸病平癒の神様が祀られている石浜神社は、東に隅田の大川、西に霊峰富士、北に名山筑波といった名勝に恵まれ、「江戸名所図会」などにも大きく納められ、「神明さん」の通称のもと、市民の間にその名を馳せました。石浜神社に祀られている寿老人像は、浅草名所七福神の復活に際し、延命長寿の神として奉安されたものです。
    奥浅草エリア
  • 下谷神社(したやじんじゃ)の境内に「寄席発祥之地」の石碑があります。江戸時代寛政10年(1798)に馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎(のちの三笑亭可楽)が、素人噺家として入場料をとって興行を行ったことが、寄席のはじまりだといわれています。
    上野・御徒町エリア
  • したまちミュージアム付設展示場は、明治43年に建てられ、昭和61年(1986)まで谷中6丁目で営業していた「吉田屋酒店」を移築した展示場です。前土間、揚戸の出入口など江戸商家の建築様式を伝える貴重な建物です。館内には、酒を量売りしていた時に使用した大きな棹秤、枡、樽や徳利、宣伝用ポスターなどの資料を展示しています。
    谷中エリア
  • 永昌寺は、江戸時代永禄元年(1558)に浅草の下谷に下谷長者が開創した寺です。寛永14年(1637)に現在の地に移りました。近辺は大名屋敷が多く、肥前藩主松浦壱岐守の妻、永昌院が開基となり、寺名に由来しています。明治15(1882)に嘉納治五郎がこの寺院の境内に柔道場「講道館」を設立しました。
    上野・御徒町エリア
  • 創業90余年の伝統的木造銭湯です。日替わりの薬湯が人気で、地元の人々を長年にわたり癒してた「下町の銭湯」です。店内にはジャズ音楽が流れ、グレープフルーツの輪切りや生姜、吟醸酒を使った湯が提供されることもあるといいます。谷中散歩の途中に立ち寄る人も多いです。
    谷中エリア
  • 不忍池由来碑は、上野恩賜公園の弁財天入口近くにある石碑で、昭和41年(1966)に建立されました。上野台地と本郷台地の間を忍ヶ丘と呼ばれていたことに由来しているといわれています。この地域は、古くは海で、海岸線の後退で沼のようになったのは平安時代といわれています。
    上野・御徒町エリア
  • 弁天院は、水谷(みずのや)伊勢守勝隆が寛永元年(1624)不忍池に弁財天を建立すると同時にその下屋敷であったこの地の邸内の池にも弁財天を祀ったのが由来とされています。両者は姉妹弁財天と呼ばれています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 妙亀塚は妙亀塚公園という小さな公園の中にある塚です。このあたりは謡曲「隅田川」で有名な妙亀尼とその子梅若丸の伝説の地で、小高い塚に板碑をはめ込んだ供養塔が立っており、都の旧跡に指定されています。
    この妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていました。妙亀塚は「梅若伝説」にちなんだ名称です。「梅若伝説」とは平安時代、吉田少将惟房の子・梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、都から奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去りました。我が子を探し求めてはるばるこの地まで来た母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵を結んだ、という説話です。謡曲『隅田川』はこの伝説をもとにしています。
    塚の上には板碑が祀られています。この板碑には「弘安十一年戊子五月二十二日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものです。しかし妙亀塚と板碑との関係は、明らかではありません。
    なお、隅田川の対岸、木母寺(墨田区堤通)境内には梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)があり、この妙亀塚と相対するものと考えられています。
    奥浅草エリア
  • 書道博物館は、洋画家であり書家でもあった中村不折により、昭和11年(1936)に開館されました。博物館には、亀甲獣骨文、青銅器、石碑、鏡鑑、拓本、経巻文書など不折が書道研究のために収集した、中国、日本の書道に関する古美術品、考古出土品など重要文化財12点、重要美術品5点を含む約16000点が収蔵されています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 屋形船は、江戸時代の末頃に始まった船遊びで、水の流れや川面を渡る風とともに料理を味わいながら、川岸の風景や夜景を肌で感じることができます。屋形船には乗合船と貸切船があり、浅草橋や柳橋をはじめ月島、浜松町などの発着場から、隅田川をはじめお台場などを周遊するコースがあります。
    浅草中央部エリア
  • 金杉通りは昭和初年に開通しました。旧道は上野山下から入谷口通りを経由、昭和通りと並行して東北に延び三ノ輪で昭和通りと合流します。この道を俗に「金杉通り」と呼びますが、昔はこの街道を奥州街道裏道と呼びました。金杉の地名は、鎌倉時代に金曽木彦三郎という人物の姓から、初めは金曽木、それが金杉に変わったものとされています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 聖天宮は、上野不忍池の弁天堂にあるお宮です。江戸時代後期の「江戸名所図会」には、弁天島の北には小島が描かれ、「聖天」と記されています。(「聖天宮 本社の北の方、小島に勧請す。此島は其始弁天の祠ありし旧地なり。其頃もこの聖天の宮ありしにや、今も地主の神と称せり」)
    上野・御徒町エリア
  • 八万四千体地蔵は、浄名院(じょうみょういん)にある2万5千体を超えるたくさんの石地蔵菩薩像のことです。明治12年に、第38世妙運大和尚が仏恩に報い、衆生済度(迷い苦しんでいる人々を救い、悟りの境地に導くこと)のために、八万四千体の地蔵建立を発願されたことに始まります。「八万四千」とは仏法で無数の意味を示します。この石地蔵尊は全国各地にも造立されており、これまで約5万体の石地蔵尊が造立され、今も増え続けています。
    上野・御徒町エリア
  • 琵琶の碑は、福徳・諸芸能上達の神として広く信仰されている弁財天の琵琶を模してつくられた石碑です。この石碑は、不忍池の中央にある弁天島にあり、「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • お化け地蔵は松吟寺(しょうぎんじ)にあります。「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、高さ3m余の並外れて大きいからなど、いくつかの伝承があります。石仏は享保6年(1721)の建立で、関東大震災で二つに折れましたが、補修して現在に至っています。常夜灯は、寛政2年(1790)に建てられました。
    奥浅草エリア
  • 永久寺は江戸五色不動(えどごしきふどう)の一つ、目黄不動として知られています。開創は14世紀の南北朝騒乱の頃とされます。その後の歴史の流れの中でいくたびか戦乱などによって焼失し、 再建を繰り返してきました。 一歩山門を入りますと樹齢一千年を越える松の木が、 御仏と共に訪れる人を静かに迎えています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 浅草御蔵とは、江戸幕府が全国に散在する天領から運んだ年貢米や買い上げ米などを収納・保管した倉庫のことです。大坂、京都の二条城と合わせて三御蔵と呼ばれていました。浅草御蔵跡碑は昭和31年(1956)に浅草南部商工観光協会が建立し、現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは昭和9年(1934)のことです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 宝永7年(1710年)、江戸六地蔵の2番目に奥州街道の旅人の安全を祈願して街道の入口にある東禅寺に建立されました。その他、品川寺(東海道)、太宗寺(甲州街道)、真性寺(中山道)、霊巌寺(千葉街道)、永代寺(千葉街道)に地蔵が建立されていました。
    奥浅草エリア
  • こちらの三面大黒天は、創建した当初から安置されたもので、弘法大師の作と伝えられています。正面に大黒天、向かって右は弁財天、左が毘沙門天、後部は宝珠形光背を付けているユニークで徳のあるご尊像です。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 宮戸座は明治29年(1896)に開場、座名は隅田川の古称「宮戸川」にちなんだといわれます。関東大震災で焼失後、昭和3年(1928)に再建され、昭和12年(1937)に廃座となりました。この舞台で修業し、のち名優になった人は多く、別名「出世小屋」ともいわれています。宮戸座跡之碑は昭和53年(1978)に建てられました。
    浅草中央部エリア
  • 御隠殿は輪王寺宮の別邸で、寛永時本坊で公務を執られていた宮が、時折り息抜きにこられた屋敷です。敷地は三千数百坪で、老松の林に囲まれた池を持つ優雅な庭園で、ここから眺める月が美しかったといわれます。慶応4年(1868)上野戦争によって焼失し、現在は全くその跡を留めていません。根岸薬師堂(ねぎしやくしどう)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 彰義隊戦死者碑は、明治新政府に反抗して討滅された彰義隊の戦死者を供養するために明治15年(1882)に建てられました。上野恩賜公園内の西郷隆盛像の裏手にあります。墓石には旧幕臣山岡鉄舟の筆によって「戦死之墓」とのみ記され、「彰義隊」の文字はありません。
    上野・御徒町エリア
  • 明治の文豪で陸軍軍人であった森鴎外の旧居跡には水月ホテル鴎外荘が建っており、ホテルの前に「森鴎外居住之跡」と刻まれた石があります。ホテル敷地内の内庭には旧居の―部と樹齢三百年のカヤの木が残り、「舞姫」の題字・署名・本文ともすべて鴎外直筆の毛筆原稿からとられた「舞姫の碑」の文学碑も建っています。
    上野・御徒町エリア
  • 天海僧正の毛髪を治めた宝塔で、慶安5年(1652)に弟子の義海によって建立されました。寛永寺を創建した天海僧正は寛永20年(1643)子院の本覚院において108歳で没し、慈眼大師の諡号がおくられました。毛髪塔が立つ場所は本覚院跡で現在の寛永寺清水観音堂の裏にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 昭和24年(1949)に国立図書館が文部省から国立国会図書館に移管されて成立した、国立国会図書館の支部図書館です。戦前の日本において唯一の国立図書館であった帝国図書館の後身で、上野公園に林立する文化施設の一つとして親しまれてきましたが、現在は国際子ども図書館へと改装開館しました。
    上野・御徒町エリア
  • 佐野善左衛門政言は江戸時代中期の武士で、天明4年(1784)、江戸城内で時の権力者田沼意知(田沼意次の子)に刃傷におよびました。意知は翌日死亡し、政言は切腹となり、28歳で一生を閉じました。この刃傷事件の翌日から高価の米価が下落し、老中田沼意次も失脚しました。お墓は徳本寺(とくほんじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • この碑は東京工業大学の同窓会である蔵前工業会が設置したもので榊神社に建立されています。碑文には「工業教育発祥の地」と書かれています。この地には明治14年(1881)に創立の「東京職工学校」(後の「東京工業大学」)がありましたが、関東大震災により施設の大半を焼失したため目黒に移転しました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 東京下町八社福参りは、 台東区内の鷲神社・今戸神社・第六天榊神社・下谷神社・小野照崎神社、中央区内の水天宮・小網神社・住吉神社の8つのお社をお参りして8つのお恵みを受けることです。正月七草までの年の始めに家族の開運・無事息災を祈り、お守を受けることで「八方除け、八方開き」にも通じます。
    根岸・入谷・金杉エリア 上野・御徒町エリア 奥浅草エリア
  • 蓬莱園と命名された庭園は、江戸時代、肥前の国平戸藩主の松浦家の別邸庭園として造られたものです。鳥越川の水を取り込んだ大泉水を中心に、二千六百坪の敷地に築山や東屋、四季の花木、蓬莱の仙郷を思わせる名園だったようですが、関東大震災で荒廃し、現在は都立忍岡高校校庭に池の一部と都指定の天然記念物の大イチョウを残すのみです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 「東京にオペラやバレエもできる本格的な音楽ホールを」という要望に応え、東京都が開都500年事業として建設し、昭和36年(1961)年に開館しました。大ホールと小ホールからなり、バックステージの広さなどのゆとりある造りは貴重で、海外の有名歌劇場が来日した際の公演に使用されることが多いホールです。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸幕府唯一の医学専門学校の医学館が清洲橋通り沿いにありました。明和2年(1765)、幕府奥医師多紀元孝が医師(漢方医)の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾躋寿館から出発、寛政3年(1791)に、幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし、医学館と改称、規模を拡大しました。文化3年(1806)、大火に遭い焼失しましたが、同年に旧向柳原一丁目に移転、再建されました。
    敷地は約7千平方メートル、代々多紀家がその監督に当たり、天保14年(1843)には寄宿舎を設けて全寮制とし、広く一般からも入学を許可し、子弟育成をはかるなど、江戸時代後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献しました。
    ※現在、この場所に「旧躋寿館跡 浅草医学館跡」に関する案内板や説明版等は設置されておりません。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 浅草迷子しらせ石標は、江戸時代安政7年(1860)の復元として、昭和32年(1957)に浅草寺本道前に建立されました。石標は当時、迷子や尋ね人の掲示板の役割を果たしていました。また、安政の大地震による吉原楼閣の犠牲者の慰霊碑でもあります。
    浅草中央部エリア
  • 嘉永・安政時代に下谷坂本村字入谷に住んでいた植木師の成田屋山崎留次郎が、東の朝顔造りの大関であったと記録が残っています。入谷が朝顔で有名になったのは、明治になってからのことで、土質が朝顔造りに適していたのか、十数件の植木屋が、一軒500~600坪の土地を有し、軒を連ねて朝顔造りをはじめました。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 幡随院長兵衛は、江戸初期の町奴で、肥前唐津の士族出身、幡随院の住職向導に私淑、浅草花川戸に住み、奉公人を周旋する口入れ業に従事していたといわれます。その時代町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、旗本奴も市中を乱していました。長兵衛は慶安3年(1650)に旗本奴頭領の騙し討で没しました。お墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア

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