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該当件数319件
  • 不忍池の中央には、琵琶湖の竹生島を模して造られたという弁天島があり、そこに弁財天を祀る弁天堂があります。弁天堂の周囲には「ふぐ供養碑」「魚塚」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 北村季吟は江戸時代前期の歌人・俳人で、祖父・父を継いで医学を業としていましたが、俳人安原貞室、松永貞徳の門に入り、和歌・俳諧を学び貞門派俳諧の新鋭といわれました。同門は松尾芭蕉らを輩出しました。元禄2年(1689)、幕府歌学所に補せられ、再昌院法印の称を受けました。お墓は正慶寺(しょうけいじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 河東碧梧桐は、明治時代の 俳人で正岡子規門の高弟です。高浜虚子と対立し定型・季語を離れた新傾向俳句を提唱。全国行脚して「三千里」「続三千里」をまとめた後、自由律、ルビつき句など句風は変遷しました。著書に「新傾向句集」「碧梧桐句集」「子規言行録」などがあり、昭和12年(1937)に没し、お墓は梅林寺(ばいりんじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 西町太郎稲荷神社は、立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として、現在地(万治年間(1658~61)に九州筑後柳川藩11万9600石の太守、立花左近将監の江戸中屋敷として設けられた邸跡地)に建立されたものです。諸々の祈願事を叶え、特に商売繁盛に御利益があると、厚く信仰されています。
    上野・御徒町エリア
  • 鳥塚は、弁天堂のほぼ裏側に位置する大きな塚です。この鳥塚は東京都内に店舗を有する食鳥肉の販売業者が組織している東京食鳥鶏卵商業協同組合及び東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合の組合員有志が生活の糧であり子孫の繁栄に寄与する諸鳥類の霊魂を永久に慰めるために昭和37年(1962)に建立されました。
    上野・御徒町エリア
  • 暦塚は、第73代首相中曽根康弘氏による碑文が刻まれており、全国カレンダー出版協同組合連合会等により建立されました。この石碑は不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 「かなりや」歌碑は、上野恩賜公園内、不忍池弁天島の天龍橋手前にある歌碑で、昭和35年(1960)に「西條八十会」によって建立されました。碑面には忘れた唄を思い出す「かなりや」の四番の歌詞が自筆で刻まれています。上野東照宮を散策していた時にこの「かなりや」の唄を作ったのを記念してこの地に建てられました。
    上野・御徒町エリア
  • 下村観山は、現代日本美術の発展に寄与した画家です。観山は幼少から絵を好み、東京美術学校(東京芸術大学)に学び、卒業後、同校助教授となりました。岡倉天心の日本美術院創立に参加し、横山大観らと活躍、昭和5年(1930)に没しました。歴史を題材としたものを得意とし、「弱法師」は代表作です。お墓は安立寺(あんりゅうじ)にあります。
    谷中エリア
  • 吉原遊郭は、江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼を担いました。昭和三十三年売春防止法の成立によって遊郭は廃止され、その名残を記す碑は、昭和三十五年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古によるものです。
    奥浅草エリア
  • 宮戸座は明治29年(1896)に開場、座名は隅田川の古称「宮戸川」にちなんだといわれます。関東大震災で焼失後、昭和3年(1928)に再建され、昭和12年(1937)に廃座となりました。この舞台で修業し、のち名優になった人は多く、別名「出世小屋」ともいわれています。宮戸座跡之碑は昭和53年(1978)に建てられました。
    浅草中央部エリア
  • 昭和24年(1949)に国立図書館が文部省から国立国会図書館に移管されて成立した、国立国会図書館の支部図書館です。戦前の日本において唯一の国立図書館であった帝国図書館の後身で、上野公園に林立する文化施設の一つとして親しまれてきましたが、現在は国際子ども図書館へと改装開館しました。
    上野・御徒町エリア
  • 勝川春章は、江戸末期の浮世絵師で、美人画などを多く描き、葛飾北斎の師でもありました。お墓は西福寺(さいふくじ)にあります。西福寺は、古くは三河国松平郷(愛知県豊田市)にあった寺で、徳川家康が現在地に移転したといわれています。東京で最も早い公立小学校の一つである育英小学校の発祥の地としても知られています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 松尾芭蕉(1644~1694)の句碑は、江戸時代寛政8年(1796)、芭蕉の103回忌に、浅草寺弁天山の鐘楼の入り口に建立されました。この句碑、元は浅草寺本堂の銭塚地蔵の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。佐脇嵩雪が描いた芭蕉の座像が線刻してありますが、200年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっています。
    浅草中央部エリア
  • 背面地蔵は正保4年(1647)の創立で一丈三尺余りです。 その昔奥州街道の傍、 道路仏として西向きに立てられましたが、 後に明和元年 (1764) 道筋が寺の東側に改り、 地蔵尊を前向きに建て直したところ、 不思議な事に一夜のうちに元の向きになったと人々に伝えられて、 この尊称が起こったといわれています。薬王寺(やくおうじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 上野恩賜公園内の下町風俗資料館に近い植え込みの中に「龍門橋」と刻まれた石碑です。江戸時代には池の周りをめぐる堀があり、その堀にかかる小橋がいくつかありました。龍門橋はその中の一つで、ほかに月見橋、蓮見橋、花見橋などがありましたが、いずれも昭和初期にその姿を消し、今はこの石碑にその名残がわずかに残るだけです。
    上野・御徒町エリア
  • 横山大観は、近代日本画壇の巨匠です。明治22年(1889)に開校した東京美術学校に第一期生として入学し、岡倉天心に多大な啓発を受けました。その後海外に渡り、ニューヨークやパリなどで相次いで展覧会を開き、高い評価を得ました。日本でもその画風が評価され始め、第一回文化勲章の受章者となりました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 亀田鵬斉は、江戸時代の代表的な儒学者の一人で、詩、書、画にも人並みはずれた才能を発揮した学者、芸術家です。作品は寺社仏閣の碑や扁額、個人所有書画等、数多く存在します。 お墓は称福寺(しょうふくじ)にあります。
    奥浅草エリア
  • 細井平洲は江戸時代の儒学者です。農家の次男として生まれた平洲は少年の時代より勉学を積み重ね、私塾「嚶鳴館」を開き、多くの人々を教えました。特に上杉鷹山の師として有名になり、内村鑑三は鷹山を「代表的日本人」として挙げ、その師である平洲を「当代最大の学者の一人」として紹介しています。お墓は天嶽院(てんがくいん)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 浄厳律師は江戸時代の真言宗を代表する高僧の一人です。5代将軍徳川綱吉の帰依を受け、招請によって霊雲寺(文京区湯島)の祖となりました。上州馬庭念流18代当主剣豪樋口定伊は神田下谷に道場を構え、門弟は1万人を数えたといわれます。水戸藩徳川斉昭に見込まれ剣術の教授し、天留の術を創案しました。お墓は妙極院(みょうごくいん)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 扇塚は、上野不忍池の弁天堂の少し手前の左側にある作家佐藤春夫氏の詩文で、扇の形をした碑です。初代花柳寿美の舞扇を納めて、昭和24年(1949)2月、6代目尾上菊五郎、二世花柳寿輔、花柳章太郎氏らの手によって建てられました。
    上野・御徒町エリア
  • 天祐庵は、京都表千家「不審庵」の写しとして、江戸時代安永年間(1780~)に名古屋の牧野邸「太郎庵」として造営され、大正5年(1916)茶人高橋箒庵への譲渡などを経て、昭和33年(1958)に伝法院庭園内に移築されました。躙口や天井などが、利休系草庵茶室の典型とされる見事な比例感を醸し出しています。
    浅草中央部エリア
  • 島田虎之助、直心影流島田派の剣客。幼少より中津藩剣術師範堀十郎左衛門の道場で学び、上達が早く16歳の頃には九州一円を武者修行し名声をあげました。浅草新堀で道場を開き、そこには勝麟太郎(のちの海舟)も通いました。虎之助は幕末の剣豪といわれましたが、嘉永5年(1852)に病没しました。お墓は正定寺(しょうじょうじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア 浅草中央部エリア
  • 東京文化会館内にある音楽資料室です。数少ない音楽専門の図書館として昭和36年(1961)に開設されました。クラシック音楽を中心に、民族音楽、邦楽、舞踊などの資料を無料で閲覧・視聴することができます。また、都内で活動するアマチュアの演奏団体にオーケストラ・吹奏楽用のパート譜の館外貸出も行っています。
    上野・御徒町エリア
  • 昭和46年(1971)、日本ゴム工業会 三田土会によって建立された石碑です。明治19年(1886)に松前藩士の四人の兄弟が日本で初めてゴムの熱加硫法に成功し、土屋護謨(ゴム)製造所をこの地に創設しました。後に「三田土ゴム工業」となり大規模な工場を建設、軟式のゴムボールや消しゴムなど新しいゴム製品を次々に開発しました。
    上野・御徒町エリア
  • いと塚は、三味線や琴などの芸事にはかかせない糸に対する感謝を表した塚で、不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • かわとはきものギャラリーには、世界各国の歴史的なはきものや各種参考靴、工具などが展示されています。足形測定機により自身の足の甲回りを採寸することができたり、シマウマや象など変わった皮に触れることもできます。
    浅草中央部エリア
  • 江戸時代後期の儒学者である塩谷宕陰の墓は谷中墓地と称される区域の天王寺霊園にあります。宕陰は昌平黌に入門し、また松崎慊堂に学びました。遠江掛川藩主の太田氏に仕え、ペリー来航の際に献策し、海防論を著しました。芳野金陵、安井息軒と並んで安政・文久の三博士と称えられ昌平黌の教授として多くの文人を育て、慶応3年 (1867)に没しました。
    谷中エリア
  • 室生其角は14、5才の頃に芭蕉に入門し、早くから頭角をあらわしたといわれ、蕉門十哲の第一人者とされる俳人です。芭蕉の死後、次第に蕉風をはなれ、清新華麗な独自の句風をなし、江戸俳壇の中心となりました。宝永4年(1707)に没しています。句碑は出山寺(しゅっさんじ)にあり、「草茎を つつむ葉もなき 雲間哉」と刻まれています。
    奥浅草エリア
  • 江戸時代後期の著名な歴史人物画家である菊池容斎の墓は谷中霊園にあります。容斎は高田円乗の門に入って狩野派の画法を学び、絵を極めるには先哲の古跡を研究する必要があるとしてこれに専念し、一家を成しました。88才の時にアメリカの博覧会に出品して賞牌を受けました。また、明治天皇に「日本画史」の称を賜りました。
    谷中エリア
  • 山田宗偏は江戸時代前期の茶人で、6歳で茶道を学び、利休茶道の奥義を極めました。赤穂浪士の大高忠雄が宗偏に弟子入りし、宗偏から「12月14日に吉良邸で茶会」という情報を聞きだして討ち入りしました。一説に宗偏は赤穂浪士達の無念を思いやり吉良邸茶会の日を教えたともいわれています。お墓は願竜寺(がんりゅうじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 初代柄井川柳は、川柳の創始者です。川柳は江戸時代の前句付の点者で、川柳撰集である「柳多留」の編纂でも有名です。その墓は龍宝寺(りゅうほうじ)にあり、別名「川柳寺」とも呼ばれます。龍宝寺は上野の寛永寺を開山した天海大僧正の法兄にあたる豪海大僧正が開山した天台宗寺院で、不動明王の梵字を刻んだ板碑が境内に残っています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 明治時代の教育者、啓蒙学者である中村正直の墓は了~寺(りょうごんじ)にあります。正直は昌平坂学問所に入り、佐藤一斎について儒学を学びました。大蔵省翻訳御用・女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)校長・東京帝国大学教授・貴族院議員などに歴任しました。また、訓盲院の開設など女子教育や障害者教育にも力を注ぎました。明治24(1891)病没しました。
    谷中エリア
  • 東覚寺の創建は室町時代中期(1491)で、門前にある赤紙仁王(あかがみにおう)(石造金剛力士立像)は江戸中に流行していた疫病を鎮めるために宗海(しゅうかい)という僧侶が願主となって寛永18年(1641)に造立されたと伝えられています。この赤紙仁王は、自分の身体に悪いところがあれば、仁王像の同じところに赤紙を貼ると病気が治ると信仰されています。
    谷中エリア
  • 死者の菩薩を弔うため、あるいは生前に自らの死後に備えて供養を行うために建立した、塔婆の一種です。板石塔婆・青石塔婆とも言われています。
    谷中エリア
  • 江戸時代の歌人である戸田茂睡の墓は、浅草寺境内にあります。戸田茂睡は、古典の研究を行い、公家の間に伝えられた伝統的な歌学が、秘事口伝を主とし、師の歌説に門弟が盲従することに反対して歌学の革新を主張しました。下河辺長流や契沖とともに国学の先駆となりました。
    浅草中央部エリア
  • 浅草文庫は、明治7年(1874)に創設された官立の図書館で、その跡碑が榊神社境内にあります。当時の和・漢・洋の蔵書数は11万~13万冊ともいわれ、明治14年に封鎖されました。現在、その蔵書は国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館などに所蔵され、太政大臣三条実美の筆蹟と伝える「浅草文庫」の朱印が押されています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 横山大観顕彰碑は、横山大観記念館入口脇にあります。近代日本画壇の巨匠である横山大観は、明治26年(1894)に東京美術学校卒業、終生校長岡倉天心を敬愛し、東洋の理想を受け継ぎながら、新しい日本画風を創造しました。碑は昭和43年(1968)に東京百年を記念してこの地に建てられました。
    上野・御徒町エリア
  • 下谷神社(したやじんじゃ)の境内に「寄席発祥之地」の石碑があります。江戸時代寛政10年(1798)に馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎(のちの三笑亭可楽)が、素人噺家として入場料をとって興行を行ったことが、寄席のはじまりだといわれています。
    上野・御徒町エリア
  • 櫛淵碑は、上野恩師公園内、不忍池の弁天島境内の裏にある「虚沖軒先生碑」と刻まれた石碑です。石碑には、櫛淵彌兵衛宣根の先祖に伝わる香取神道流から、神道一心流を興すに至るまで、簡略に記されています。櫛淵彌兵衛宣根は、一橋徳川家に召抱えられ、以後三代にわたって徳川将軍直々の護衛役として仕えました。
    上野・御徒町エリア
  • 至徳の古鐘は、南北朝時代至徳4年(1387)に鋳造されたもので、その時代の鐘は東京都では珍しく、都内有数の古鐘として、特に「至徳の古鐘」と呼ばれています。当初、武蔵国多西郡または騎西郡、あるいは相模国西郡のいずれかの寺にあったものを、後に浅草寺に移したと推察されます。
    現在は、五重塔北側の絵馬堂内に保管されています。絵馬堂は通常非公開となっていますが、不定期で行われる「伝法院庭園拝観と絵馬展」が開催される際は、展示されている至徳の古鐘を見ることができます。
    浅草中央部エリア

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