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該当件数178件
  • 梅田雲浜は、幕末期の儒学者。小浜で朱子学を修め、大津、京都で子弟を教えますが、幕府を批判したため小浜藩を追放されました。高杉晋作らと交際し、尊皇攘夷を唱え、井伊直弼排斥も企てましたが、安政5年(1858)「安政の大獄」で捕らえられ、翌年(1859)小倉藩江戸邸の獄中で病没しました。お墓は海禅寺(かいぜんじ)にあります。
    浅草中央部エリア
  • 江戸千家の祖川上不白が関宿藩主久世大和守の外神田下屋敷に建てた茶室で、明治2年(1869)に現在地に移築しました。不審庵表千家六代原叟宗左の三畳台目の茶室と同じ建て方といわれ、有形文化財に指定されています。不白は千家の茶を普及させ、大衆の茶道を試みたといわれおり、この茶室は江戸千家を広める拠点となりました。
    上野・御徒町エリア
  • 姥ヶ池は、隅田川に通じる大池で明治24年(1891)に埋め立てられました。「昔、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって石の下敷きになって死に、それを悲しみ悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げた」という言い伝えにより、「姥ヶ池」と呼ばれていました。その碑は花川戸公園内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 松尾芭蕉(1644~1694)の句碑は、江戸時代寛政8年(1796)、芭蕉の103回忌に、浅草寺弁天山の鐘楼の入り口に建立されました。この句碑、元は浅草寺本堂の銭塚地蔵の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。佐脇嵩雪が描いた芭蕉の座像が線刻してありますが、200年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっています。
    浅草中央部エリア
  • 八万四千体地蔵は、浄名院(じょうみょういん)にある2万5千体を超えるたくさんの石地蔵菩薩像のことです。明治12年に、第38世妙運大和尚が仏恩に報い、衆生済度(迷い苦しんでいる人々を救い、悟りの境地に導くこと)のために、八万四千体の地蔵建立を発願されたことに始まります。「八万四千」とは仏法で無数の意味を示します。この石地蔵尊は全国各地にも造立されており、これまで約5万体の石地蔵尊が造立され、今も増え続けています。
    上野・御徒町エリア
  • いと塚は、三味線や琴などの芸事にはかかせない糸に対する感謝を表した塚で、不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 1917(大正6)年に日本で最初の駅伝「東海道五十三次駅伝徒歩競争」京都~東京間の508㎞23区間で開催されました。スタートは京都の三条大橋で、ゴールは上野の不忍池で開かれていた博覧会場の正面玄関でした。
    上野・御徒町エリア
  • 木製の本棚と家具が配された居心地のよい図書室では、開催中の展覧会の関連書籍を多数紹介するほか、美術図書や展覧会カタログ、美術雑誌などを自由に閲覧できる。館の歴史に関するアーカイブズ資料をはじめ、教育普及に関連する資料や、公募団体に関連する資料も保管している。
    (画像提供:東京都美術館)
    上野・御徒町エリア
  • 上野恩賜公園内の下町風俗資料館に近い植え込みの中に「龍門橋」と刻まれた石碑です。江戸時代には池の周りをめぐる堀があり、その堀にかかる小橋がいくつかありました。龍門橋はその中の一つで、ほかに月見橋、蓮見橋、花見橋などがありましたが、いずれも昭和初期にその姿を消し、今はこの石碑にその名残がわずかに残るだけです。
    上野・御徒町エリア
  • 鳥塚は、弁天堂のほぼ裏側に位置する大きな塚です。この鳥塚は東京都内に店舗を有する食鳥肉の販売業者が組織している東京食鳥鶏卵商業協同組合及び東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合の組合員有志が生活の糧であり子孫の繁栄に寄与する諸鳥類の霊魂を永久に慰めるために昭和37年(1962)に建立されました。
    上野・御徒町エリア
  • かわとはきものギャラリーには、世界各国の歴史的なはきものや各種参考靴、工具などが展示されています。足形測定機により自身の足の甲回りを採寸することができたり、シマウマや象など変わった皮に触れることもできます。
    浅草中央部エリア
  • 明治時代に活躍した詩人、石川啄木の歌碑は等光寺(とうこうじ)の境内にあり、啄木の処女歌集「一握の砂」に収められた「浅草の夜のにぎわひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」という句が刻まれています。啄木生誕70年にあたる昭和30年(1955)に建立されました。
    浅草中央部エリア
  • 不忍池の中央には、琵琶湖の竹生島を模して造られたという弁天島があり、そこに弁財天を祀る弁天堂があります。弁天堂の周囲には「ふぐ供養碑」「魚塚」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 了翁禅師塔碑は、寛永寺にある石碑です。了翁は僧門に入り、諸国を巡錫している途中、夢の中で一種の筆法を修得し、これを錦袋円と名付け、上野不忍池の池畔に店舗を営みました。そこで得た私財を江戸大火の際に罹災民の救済に投じ、また、勧学寮という学問所などを建立し教育に尽力しました。
    上野・御徒町エリア
  • 玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門)は、江戸時代初期、江戸市民の飲料水確保のため玉川上水を開発しました。四代将軍将軍家綱の頃、幕命が下り承応3年(1654)に開削工事は完成しました。現存する玉川上水は、江戸時代初期の土木技術を今日に伝える貴重な文化財です。お墓は聖徳寺(しょうとくじ)にあります。
    浅草中央部エリア
  • 江戸時代の歌人である戸田茂睡の墓は、浅草寺境内にあります。戸田茂睡は、古典の研究を行い、公家の間に伝えられた伝統的な歌学が、秘事口伝を主とし、師の歌説に門弟が盲従することに反対して歌学の革新を主張しました。下河辺長流や契沖とともに国学の先駆となりました。
    浅草中央部エリア
  • 斉藤家は美濃国の出身といわれ、家康入府時から江戸神田に住み、雉子町の名主として六ヶ町を支配しました。神田果物市場を監督して野菜上納を掌って、代々市左衛門と称しました。斉藤長秋とその子、孫は、三代にわたって江戸の地誌を調べ「江戸名所図会」を完成させました。齋藤長秋三代のお墓は法善寺(ほうぜんじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 聖天宮は、上野不忍池の弁天堂にあるお宮です。江戸時代後期の「江戸名所図会」には、弁天島の北には小島が描かれ、「聖天」と記されています。(「聖天宮 本社の北の方、小島に勧請す。此島は其始弁天の祠ありし旧地なり。其頃もこの聖天の宮ありしにや、今も地主の神と称せり」)
    上野・御徒町エリア
  • 島田虎之助、直心影流島田派の剣客。幼少より中津藩剣術師範堀十郎左衛門の道場で学び、上達が早く16歳の頃には九州一円を武者修行し名声をあげました。浅草新堀で道場を開き、そこには勝麟太郎(のちの海舟)も通いました。虎之助は幕末の剣豪といわれましたが、嘉永5年(1852)に病没しました。お墓は正定寺(しょうじょうじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア 浅草中央部エリア
  • ㈱大淵銀器の中にある展示館です。台東区には銀器製作に携わる職人が多く、伝統工芸「東京銀器」として広く知られています。この展示館では、東京銀器の他、イギリス・イタリア・トルコなど、世界各地の銀器を新作からアンティークなものまで展示公開しています。
    上野・御徒町エリア
  • 太皷館では世界各国から収集された太鼓とその参考資料を永久保存し、広く一般に公開されています。収蔵品は900点にものぼり、いずれもが歴史・文化・民俗学的観点からも貴重であるばかりでなく資料的価値では世界一級のものばかりです。
    浅草中央部エリア
  • 花川戸助六の歌碑は、明治12年(1879)に九世市川団十郎が中心となり、花川戸公園内の仰願寺に建立されました。関東大震災で崩壊し、後に現在地に再造立されました。碑面には「助六にゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で鬼は外なり」とあります。歌舞伎十八番の一つ「助六」は、代々の団十郎が伝えていますが、助六の実像は不明です。
    浅草中央部エリア
  • 川路聖謨トルは、幕末の外国奉行。奈良奉行、大阪奉行を歴任した後、外国奉行に就任し、下田で日露和親条約に調印したましが井伊大老と日米和親条約締結で対立により失脚しました。後に外国奉行に復権しましたが、慶応4(1868)年、江戸開城の報に接し、ピストルで自決しました。お墓は大正寺(たいしょうじ)にあります。
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  • 駒形堂の横に建つ「浅草観音戒殺碑」の趣旨は「十町余の川筋で魚介の殺生を禁じる」というもので、江戸時代元禄6年(1693)に浅草寺第四世宣存が願主となって建立、その後の火災で倒壊して宝歴9年(1759)に造り直されています。昭和2年(1927)に土中から発見され、同8年に修補再建された碑がどちらのものであるかは不明です。
    浅草中央部エリア
  • 日本スポーツ文化賞栄誉広場は、平成8年(1996)に上野恩賜公園内に設置されました。日本スポーツ文化賞栄誉広場には、国民栄誉賞受賞者の手形が展示されています。
    上野・御徒町エリア
  • 八橋検校顕彰碑は、東京・上野不忍池の弁天堂境内にあります。八橋検校(1614-1685)は、生田流、山田流などの箏曲の祖と言われています。箏組歌13曲、段物3曲などを制定し、現在の箏曲の基礎を築きました。顕彰碑は昭和41年(1966)に建立されました。顕彰碑の下方には石造りの箏も置かれています。
    上野・御徒町エリア
  • 滋養のため、食材として、人々の胃袋におさめられたスッポンに感謝するために建立された塔です。上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にあります。塔自体はスッポンの形をしていませんが輪郭が彫ってあります。
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  • 岡崎屋勘六は江戸末期の書家・勘亭流の祖で、勘亭流とは江戸歌舞伎の看板、番付、台本などに使われる特殊な書体のことです。安永8年(1779)、江戸中村座の依頼を受け、春狂言の大名題を書きました。これが歌舞伎文字勘亭流の始まりとされます。現在もこの伝統は継承され歌舞伎看板などで使われています。 お墓は清光寺(せいこうじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 下谷神社(したやじんじゃ)の境内に「寄席発祥之地」の石碑があります。江戸時代寛政10年(1798)に馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎(のちの三笑亭可楽)が、素人噺家として入場料をとって興行を行ったことが、寄席のはじまりだといわれています。
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  • 宮戸座は明治29年(1896)に開場、座名は隅田川の古称「宮戸川」にちなんだといわれます。関東大震災で焼失後、昭和3年(1928)に再建され、昭和12年(1937)に廃座となりました。この舞台で修業し、のち名優になった人は多く、別名「出世小屋」ともいわれています。宮戸座跡之碑は昭和53年(1978)に建てられました。
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  • 昭和24年(1949)に国立図書館が文部省から国立国会図書館に移管されて成立した、国立国会図書館の支部図書館です。戦前の日本において唯一の国立図書館であった帝国図書館の後身で、上野公園に林立する文化施設の一つとして親しまれてきましたが、現在は国際子ども図書館へと改装開館しました。
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  • 北村季吟は江戸時代前期の歌人・俳人で、祖父・父を継いで医学を業としていましたが、俳人安原貞室、松永貞徳の門に入り、和歌・俳諧を学び貞門派俳諧の新鋭といわれました。同門は松尾芭蕉らを輩出しました。元禄2年(1689)、幕府歌学所に補せられ、再昌院法印の称を受けました。お墓は正慶寺(しょうけいじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 柳瀬美仲は、江戸時代中期の歌人。、京都で詠歌を武者小路実陰の門に学んだ後、江戸に出て和歌を教授しました。「はつせ路や 初音聞かまく尋ねても まだこもりくの山ほととぎす」の一首によって、世人は美仲を「こもりくの美仲先生」と呼びました。元文5年(1740)に没し、「隠口先生美仲甫之墓」と刻まれた墓が教證寺(きょうしょうじ)にあります。
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  • 暦塚は、第73代首相中曽根康弘氏による碑文が刻まれており、全国カレンダー出版協同組合連合会等により建立されました。この石碑は不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
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  • 虫塚は、寛永寺境内にあります。伊勢長島藩主である増山雪斎の遺志で写生に使った虫類を供養した碑で、文政4年(1821)に建てられました。当初、寛永寺子院勧善院内にありましたが、昭和初期に現在地に移転しました。碑は自然石で、正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は、詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれています。
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  • 笠森稲荷の本尊は、現在の天王寺の境内にあった養寿院末寺福泉院に祀られていました。明治3年(1870)にこの寺が廃寺になり、現在は江戸百観音の札所として信仰を集めていた養寿院に遷つされています。
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  • 細井平洲は江戸時代の儒学者です。農家の次男として生まれた平洲は少年の時代より勉学を積み重ね、私塾「嚶鳴館」を開き、多くの人々を教えました。特に上杉鷹山の師として有名になり、内村鑑三は鷹山を「代表的日本人」として挙げ、その師である平洲を「当代最大の学者の一人」として紹介しています。お墓は天嶽院(てんがくいん)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 浄厳律師は江戸時代の真言宗を代表する高僧の一人です。5代将軍徳川綱吉の帰依を受け、招請によって霊雲寺(文京区湯島)の祖となりました。上州馬庭念流18代当主剣豪樋口定伊は神田下谷に道場を構え、門弟は1万人を数えたといわれます。水戸藩徳川斉昭に見込まれ剣術の教授し、天留の術を創案しました。お墓は妙極院(みょうごくいん)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 護国院は、天海僧正の弟子の生順が釈迦堂の別当寺として寛永元年(1624)に現在の東京国立博物館右手裏に創立した寺です。上野公園一帯には約1200本の桜があり、開花時には花見客で賑わいます。約400年前に、寛永寺を創建した天海僧正が吉野山から桜を移植させ、以来、江戸一番の桜の名所として今日に及んでいます。
    上野・御徒町エリア
  • 山田宗偏は江戸時代前期の茶人で、6歳で茶道を学び、利休茶道の奥義を極めました。赤穂浪士の大高忠雄が宗偏に弟子入りし、宗偏から「12月14日に吉良邸で茶会」という情報を聞きだして討ち入りしました。一説に宗偏は赤穂浪士達の無念を思いやり吉良邸茶会の日を教えたともいわれています。お墓は願竜寺(がんりゅうじ)境内にあります。
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