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該当件数319件
  • 延命長寿、諸病平癒、人々の安全と健康を守る神様が祀られている長安寺の歴史は古く、建立は寛文9年(1669)とされていますが、これよりさらに400年も前にさかのぼった板碑(塔婆の一種)が残されています。また、長安寺には明治初期の画家狩野芳崖(かのうほうがい1828-1888)の墓所があります。
    谷中エリア
  • すしや通りという名称は、明治時代、雷門通りから六区に通ずる延長100mの通りに18軒もの寿司屋が連なったことに由来しています。昭和61年(1986)には、通りに全覆式アーケードやカラー舗装が施されました。
    浅草中央部エリア
  • 甚内橋は鳥越川にかかっていた橋です。鳥越川は、不忍池から忍川をへて、三味線堀に落ち隅田川に注ぐ川で、今の蔵前通りと並行して流れていました。甚内橋跡は攅霊橋(浦島橋)から130mほど下流です。大きさは「長六間、両袖間壱間つゞ共一幅弐間」とあります。十字路の東南角には甚内橋跡の石碑があります。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 江戸千家の祖川上不白が関宿藩主久世大和守の外神田下屋敷に建てた茶室で、明治2年(1869)に現在地に移築しました。不審庵表千家六代原叟宗左の三畳台目の茶室と同じ建て方といわれ、有形文化財に指定されています。不白は千家の茶を普及させ、大衆の茶道を試みたといわれおり、この茶室は江戸千家を広める拠点となりました。
    上野・御徒町エリア
  • 金杉通りは昭和初年に開通しました。旧道は上野山下から入谷口通りを経由、昭和通りと並行して東北に延び三ノ輪で昭和通りと合流します。この道を俗に「金杉通り」と呼びますが、昔はこの街道を奥州街道裏道と呼びました。金杉の地名は、鎌倉時代に金曽木彦三郎という人物の姓から、初めは金曽木、それが金杉に変わったものとされています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 天海僧正の毛髪を治めた宝塔で、慶安5年(1652)に弟子の義海によって建立されました。寛永寺を創建した天海僧正は寛永20年(1643)子院の本覚院において108歳で没し、慈眼大師の諡号がおくられました。毛髪塔が立つ場所は本覚院跡で現在の寛永寺清水観音堂の裏にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 鳩ポッポの歌碑は、昭和37年(1962)に作詞の舞台となった浅草寺本堂の西側に建立されました。童謡「鳩ポッポ」は、作詞家である東くめ女史が、浅草寺の境内にて鳩と戯れている子供たちをみてこの歌詞を書き、滝蓮太郎により作曲されました。
    浅草中央部エリア
  • 妙亀塚は妙亀塚公園という小さな公園の中にある塚です。このあたりは謡曲「隅田川」で有名な妙亀尼とその子梅若丸の伝説の地で、小高い塚に板碑をはめ込んだ供養塔が立っており、都の旧跡に指定されています。
    この妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていました。妙亀塚は「梅若伝説」にちなんだ名称です。「梅若伝説」とは平安時代、吉田少将惟房の子・梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、都から奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去りました。我が子を探し求めてはるばるこの地まで来た母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵を結んだ、という説話です。謡曲『隅田川』はこの伝説をもとにしています。
    塚の上には板碑が祀られています。この板碑には「弘安十一年戊子五月二十二日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものです。しかし妙亀塚と板碑との関係は、明らかではありません。
    なお、隅田川の対岸、木母寺(墨田区堤通)境内には梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)があり、この妙亀塚と相対するものと考えられています。
    奥浅草エリア
  • ゴルフ商品街は、御徒町駅を出てすぐのアメ横通りと駅前通りにあるゴルフショップ商店街です。アメ横通りは、CMで有名な「二木ゴルフ」や「ことぶきゴルフ」「ロイヤルゴルフ」、駅前通りは「フタバゴルフ」、といったゴルフショップが建ち並びます。品揃えも豊富で、ゴルフ好きの男性客で賑わっています。
    上野・御徒町エリア
  • 「東京にオペラやバレエもできる本格的な音楽ホールを」という要望に応え、東京都が開都500年事業として建設し、昭和36年(1961)年に開館しました。大ホールと小ホールからなり、バックステージの広さなどのゆとりある造りは貴重で、海外の有名歌劇場が来日した際の公演に使用されることが多いホールです。
    上野・御徒町エリア
  • 浅草木馬館は、昭和52年(1977)に開館した大衆劇場で、全国人気劇団が月替わりで公演し、「涙あり笑いあり」の芝居や舞踊ショーが演じらています。お目当ての役者が登場すると客席からおひねりが飛び交います。
    浅草中央部エリア
  • 高橋至時は江戸時代中期の暦学者で、寛政7年(1795)に改暦の議が幕府で起こると、同門の間重富とともに天文方に抜擢され、「寛政歴」を作りました。伊能忠敬が実測地図を作成する際には、測量を指導し完成させました。二人は「日本地図の父母」といわれています。文化元年(1804)肺患のため没しました。お墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 宝永7年(1710年)、江戸六地蔵の2番目に奥州街道の旅人の安全を祈願して街道の入口にある東禅寺に建立されました。その他、品川寺(東海道)、太宗寺(甲州街道)、真性寺(中山道)、霊巌寺(千葉街道)、永代寺(千葉街道)に地蔵が建立されていました。
    奥浅草エリア
  • 幡随院長兵衛は、江戸初期の町奴で、肥前唐津の士族出身、幡随院の住職向導に私淑、浅草花川戸に住み、奉公人を周旋する口入れ業に従事していたといわれます。その時代町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、旗本奴も市中を乱していました。長兵衛は慶安3年(1650)に旗本奴頭領の騙し討で没しました。お墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 人形の街のはじまりは、正徳元年(1711)吉徳初代、三河出身の次郎兵衛が開いた人形の店で、陳列や販売方法の工夫など、たくましい商魂で一大問屋街を作り上げました。以来、東京の人形問屋の約70%以上がこの浅草橋界隈に集まりました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 宝泉湯はサウナと日替り薬湯が人気の銭湯です。熱帯魚の水槽が目印となっています。浴室奥の主浴槽、深内に超音波気泡ジェット3連とブクブクの気泡湯、電気風呂があり、並びに、別室となったミストと薬風呂があります。ぬるめの湯の薬風呂、頭上から降りそそぐミストの細かい霧雨が気持ちいいと評判です。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 明治の文豪で陸軍軍人であった森鴎外の旧居跡には水月ホテル鴎外荘が建っており、ホテルの前に「森鴎外居住之跡」と刻まれた石があります。ホテル敷地内の内庭には旧居の―部と樹齢三百年のカヤの木が残り、「舞姫」の題字・署名・本文ともすべて鴎外直筆の毛筆原稿からとられた「舞姫の碑」の文学碑も建っています。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸時代中期の儒学者・経世家である太宰春台の墓は天眼寺(てんげんじ)にあります。春台は17歳の時儒学者、中野撝謙に師事し、朱子学を学びました。「経済録」・「聖学問答」・「弁道書」・「三王外紀」など数十巻を著し、日本に「経済」という言葉を広めた人物でもあります。延享4年(1747)に没しました。
    谷中エリア
  • 岡倉天心宅跡は、旧宅跡であり日本美術院のあった場所で現在、岡倉天心記念公園になっています。 岡倉天心は東京大学在学中から日本美術の恩人フェノロサの感化を受け、日本の伝統美術復興に努力し、日本の近代美術の先駆者となりました。明治31(1898)に日本美術院を創設し、横山大観をはじめ優れた画家を世に送り出しました。
    谷中エリア
  • 八万四千体地蔵は、浄名院(じょうみょういん)にある2万5千体を超えるたくさんの石地蔵菩薩像のことです。明治12年に、第38世妙運大和尚が仏恩に報い、衆生済度(迷い苦しんでいる人々を救い、悟りの境地に導くこと)のために、八万四千体の地蔵建立を発願されたことに始まります。「八万四千」とは仏法で無数の意味を示します。この石地蔵尊は全国各地にも造立されており、これまで約5万体の石地蔵尊が造立され、今も増え続けています。
    上野・御徒町エリア
  • KIWAYAウクレレミュージアムは、ウクレレ文化の保存と継承を目的に平成16年(2004)にKIWAYA社屋に創設されたミュージアムです。正式名称はウクレレミュージアム「樂」です。古今東西の歴史的なウクレレから珍しいウクレレまでを所蔵・展示しています。
    浅草中央部エリア
  • はなし塚は、太平洋戦時下で公演が禁止された「五人廻し」「明烏」などの名作落語と落語家先輩の霊を弔うために昭和16年(1941)に建てられた塚です。本法寺(ほんぽうじ)の外塀には、歴代の噺家の名が一面に刻まれています。境内には財と福をもたらす白狐を祀った熊谷稲荷があります。白狐を祀った稲荷は全国に2ケ所しかない非常に珍しいものです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 川路聖謨トルは、幕末の外国奉行。奈良奉行、大阪奉行を歴任した後、外国奉行に就任し、下田で日露和親条約に調印したましが井伊大老と日米和親条約締結で対立により失脚しました。後に外国奉行に復権しましたが、慶応4(1868)年、江戸開城の報に接し、ピストルで自決しました。お墓は大正寺(たいしょうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 天明2年(1782)に本物の溶岩を運んで築かれた、都内でも珍しい富士塚「下谷坂本富士」。
    富士山に誰もが行けるわけではなかった時代、その姿を伝えるべく作られた、直径約15m、高さ約6mのミニチュアの富士山が小野照崎神社の境内にあります。
    一合目から順に十合目まで記されており、南無妙法と書かれた石碑や修験道の開祖である役小角の像も残る等、神仏習合の名残が見て取れます。
    先人の山守りの知恵によって今も当時の荘厳な姿を残していて、国の重要有形民俗文化財に指定されています。
    富士山に合わせて、お山開きが行われ、6月30日と1日には富士塚に登ることができます。

    【Twitter】https://twitter.com/onoterupr
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 花川戸助六の歌碑は、明治12年(1879)に九世市川団十郎が中心となり、花川戸公園内の仰願寺に建立されました。関東大震災で崩壊し、後に現在地に再造立されました。碑面には「助六にゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で鬼は外なり」とあります。歌舞伎十八番の一つ「助六」は、代々の団十郎が伝えていますが、助六の実像は不明です。
    浅草中央部エリア
  • 昭和43年(1968)に、嘉納治五郎没後30周年を記念して講道館が建立した石碑です。明治15年(1882)講道館の創始者嘉納治五郎が永昌寺(えいしょうじ)に下宿して友人や門弟らと稽古を始めたのが柔道の始まりといわれています。当時の建物は関東大震災で焼失しました。永昌寺は小説「姿三四郎」に登場する隆昌寺のモデルでもあります。
    上野・御徒町エリア
  • 明治新政府に反抗して討滅された彰義隊の戦死者を供養するために明治15年(1882)に建てられました。上野恩賜公園内の西郷隆盛像の裏手にあります。墓石には旧幕臣山岡鉄舟の筆によって「戦死之墓」とのみ記され、「彰義隊」の文字はありません。墓碑の右手には上野彰義隊資料室があります。
    上野・御徒町エリア
  • 東京下町八社福参りは、 台東区内の鷲神社・今戸神社・第六天榊神社・下谷神社・小野照崎神社、中央区内の水天宮・小網神社・住吉神社の8つのお社をお参りして8つのお恵みを受けることです。正月七草までの年の始めに家族の開運・無事息災を祈り、お守を受けることで「八方除け、八方開き」にも通じます。
    根岸・入谷・金杉エリア 上野・御徒町エリア 奥浅草エリア
  • 了翁禅師塔碑は、寛永寺にある石碑です。了翁は僧門に入り、諸国を巡錫している途中、夢の中で一種の筆法を修得し、これを錦袋円と名付け、上野不忍池の池畔に店舗を営みました。そこで得た私財を江戸大火の際に罹災民の救済に投じ、また、勧学寮という学問所などを建立し教育に尽力しました。
    上野・御徒町エリア
  • 寿永寺は寛永7年(1630)建立で、寿永法尼が徳川二代将軍秀忠公の菩提を葬うため、この地に庵室を営んだことに起源しています。また、放生会という動物慰霊の文を発願し、布袋尊を勧請して祀っています。幸福を授けるという布袋尊は、地域の人々に長く愛されています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 旧東京音楽奏楽堂前の銅像です。作者は滝廉太郎と同郷の彫刻家朝倉文夫の手によるものです。滝は明治27年(1894)に東京音楽学校に入学、のちに研究科に進んで、ピアノ授業の嘱託となり音楽家として世に出ました。「荒城の月」などを作曲し、23歳の若さで夭折しました。郷里の大分県の岡城趾にも同じ像が置かれています。
    上野・御徒町エリア
  • 両大師は、江戸時代正保元年(1644)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立されました。天海僧正と天海が最も尊敬した平安時代の高僧慈恵大師の二大師を祀ることから「両大師」と呼ばれるようになりましたが、正式には「寛永寺開山堂」といいます。堂内にある天海僧正坐像は有形文化財に指定されています。
    上野・御徒町エリア
  • 屋形船は、江戸時代の末頃に始まった船遊びで、水の流れや川面を渡る風とともに料理を味わいながら、川岸の風景や夜景を肌で感じることができます。屋形船には乗合船と貸切船があり、浅草橋や柳橋をはじめ月島、浜松町などの発着場から、隅田川をはじめお台場などを周遊するコースがあります。
    浅草中央部エリア
  • 江戸幕府唯一の医学専門学校の医学館が清洲橋通り沿いにありました。明和2年(1765)、幕府奥医師多紀元孝が医師(漢方医)の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾躋寿館から出発、寛政3年(1791)に、幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし、医学館と改称、規模を拡大しました。文化3年(1806)、大火に遭い焼失しましたが、同年に旧向柳原一丁目に移転、再建されました。
    敷地は約7千平方メートル、代々多紀家がその監督に当たり、天保14年(1843)には寄宿舎を設けて全寮制とし、広く一般からも入学を許可し、子弟育成をはかるなど、江戸時代後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献しました。
    ※現在、この場所に「旧躋寿館跡 浅草医学館跡」に関する案内板や説明版等は設置されておりません。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 玉林寺のシイは、天正 19年(1591)に創建された玉林寺本堂の裏庭にある都指定天然記念物の巨大なシイの木です。シイの種類はスダジイで、幹回り5.63m、樹高9.5m、枝張りは東に3.5m、西に2m、南に7.5m、北に4mあります。見学する際は玉林寺の寺務所にて記帳し、寺の方と見学します。
    谷中エリア
  • 御隠殿は輪王寺宮の別邸で、寛永時本坊で公務を執られていた宮が、時折り息抜きにこられた屋敷です。敷地は三千数百坪で、老松の林に囲まれた池を持つ優雅な庭園で、ここから眺める月が美しかったといわれます。慶応4年(1868)上野戦争によって焼失し、現在は全くその跡を留めていません。根岸薬師堂(ねぎしやくしどう)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 佐野善左衛門政言は江戸時代中期の武士で、天明4年(1784)、江戸城内で時の権力者田沼意知(田沼意次の子)に刃傷におよびました。意知は翌日死亡し、政言は切腹となり、28歳で一生を閉じました。この刃傷事件の翌日から高価の米価が下落し、老中田沼意次も失脚しました。お墓は徳本寺(とくほんじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 浅草御蔵とは、江戸幕府が全国に散在する天領から運んだ年貢米や買い上げ米などを収納・保管した倉庫のことです。大坂、京都の二条城と合わせて三御蔵と呼ばれていました。浅草御蔵跡碑は昭和31年(1956)に浅草南部商工観光協会が建立し、現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは昭和9年(1934)のことです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 蓬莱園と命名された庭園は、江戸時代、肥前の国平戸藩主の松浦家の別邸庭園として造られたものです。鳥越川の水を取り込んだ大泉水を中心に、二千六百坪の敷地に築山や東屋、四季の花木、蓬莱の仙郷を思わせる名園だったようですが、関東大震災で荒廃し、現在は都立忍岡高校校庭に池の一部と都指定の天然記念物の大イチョウを残すのみです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 北村季吟は江戸時代前期の歌人・俳人で、祖父・父を継いで医学を業としていましたが、俳人安原貞室、松永貞徳の門に入り、和歌・俳諧を学び貞門派俳諧の新鋭といわれました。同門は松尾芭蕉らを輩出しました。元禄2年(1689)、幕府歌学所に補せられ、再昌院法印の称を受けました。お墓は正慶寺(しょうけいじ)にあります。
    上野・御徒町エリア

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