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該当件数320件
  • 昭和20年(1945)の「東京大空襲」の犠牲者を悼む慰霊碑で平成17年(2005)に海老名香葉子さん(故林家三平の夫人)によって上野恩賜公園内に建立されました。この塔は東京大空襲を忘れないため・同じ悲劇が起こらないよう、願いをこめて、大空襲で亡くなったご家族がモチーフになっている平和祈念母子像・時計塔です。
    上野・御徒町エリア
  • 大雄寺のクスノキは、大雄寺境内にある巨木で都内で一番大きいクスノキといわれています。幹回り6.2m、樹高13m、枝張12mで推定樹齢200~300年です。「都市の美観風致を維持するための樹木の保存に関する法律」に基づく都知事指定樹であり、「台東区みどりの条例」保護樹木です。
    谷中エリア
  • 落ち着いた色合いの浴室で、まるで高級リゾートのような雰囲気の改栄湯。そんな改栄湯の魅力の一つは、別名「美人の湯」ともよばれる「軟水」。地下120mから汲み上げたまろやかな井戸水を軟水化装置に通し、化粧水のようにトロトロな肌触りの軟水を作り出しています。改栄湯では浴槽のお湯からカランのお湯まですべてが軟水。お風呂上がりにはお肌しっとり、髪の毛さらさらになれることまちがいなしです。お風呂の種類も多く、高濃度浸透炭酸泉、シルキーバス、ジェットバス、サウナなど気分によって様々なお風呂を楽しめます。
    そしてお風呂上がりには、キンキンに冷えた生ビールやレモンサワーで乾杯するもよし、改栄湯名物こだわりの生乳ソフトクリームを食べるのもよし、どの年代の方々も、身も心も温まる幸せな空間となっています。オリジナルグッズの販売もありますのでお立ち寄りの際にはぜひ覗いてみてくださいね。
    奥浅草エリア
  • 神田川にかかる浅草橋から、春日通り交差点までの江戸通りの両端には数多くの卸問屋が並んでいます。ここは、主に、おもちゃや工具材料などの卸問屋街として、発展を遂げてきました。現在では、ビーズ、装飾品、手芸などのお店も加わって個性豊かな特色のある卸問屋街となっています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 国立国会図書館法に基づく国内唯一の国立の児童書専門図書館として、平成12年(2000)に開館しました。国内外の豊富な資料と情報資源を活用し、子どもの本に関わる活動や調査研究を支援しています。また、子どもと本のふれあいの場としての役割も担っている図書館です。
    レンガ棟は、明治39年(1906)に建てられた帝国図書館の建物を保存・再利用しています。
    上野・御徒町エリア
  • 浄名院は、寛文6年(1666)、上野寛永寺36坊のひとつとして開かれました。江戸時代の寺の隆盛の陰で不徳な僧も生まれたため、妙立和尚が不徳な僧を戒め、清い信仰を広めようと安楽律宗を開き、これを引き継いだ38世妙運大和尚が明治12年に五濁より民衆を救い仏恩に報いるために八万四千体の石地蔵建立を発願しました。現在では2万5千体を超える像が造立されています。
    谷中エリア
  • 背面地蔵は正保4年(1647)の創立で一丈三尺余りです。 その昔奥州街道の傍、 道路仏として西向きに立てられましたが、 後に明和元年 (1764) 道筋が寺の東側に改り、 地蔵尊を前向きに建て直したところ、 不思議な事に一夜のうちに元の向きになったと人々に伝えられて、 この尊称が起こったといわれています。薬王寺(やくおうじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • すしや通りという名称は、明治時代、雷門通りから六区に通ずる延長100mの通りに18軒もの寿司屋が連なったことに由来しています。昭和61年(1986)には、通りに全覆式アーケードやカラー舗装が施されました。
    浅草中央部エリア
  • 滋養のため、食材として、人々の胃袋におさめられたスッポンに感謝するために建立された塔です。上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にあります。塔自体はスッポンの形をしていませんが輪郭が彫ってあります。
    上野・御徒町エリア
  • 三崎坂は、谷中2丁目と3丁目の間を南東に上り、坂下で団子坂と向き合う坂です。この坂がある三崎町は三遊亭円朝の「怪談牡丹燈籠」の舞台にもなりました。右も左も寺ばかりで首を振り振り上り下りしたという説などから別名を首振り坂ともいいます。谷中の中央を東西に貫くメインストリートです。
    谷中エリア
  • 俳句・短歌の革新者正岡子規(まさおかしき)が、1894(明治27)年から亡くなるまでの8年半、暮らした家です。
    子規は門弟や友人たちと文学や美術談義を行い、作品を発表し続け俳句や短歌、文章の革新に邁進しました。
    故郷松山より母と妹を呼び寄せ、結核に苦しみながらも34歳で亡くなるまで精力的に文学作品を創作し続けた場所でもあります。

    1945(昭和20)年の空襲で焼失しましたが、その5年後、当時の間取りのまま再建され、現在の庵は東京都指定史跡として明治の雰囲気が体感できる魅力的な空間となっています。

    子規が病室兼書斎にしていた「病牀六尺の間」などを復元しており、明治の暮らしだけでなく創作の様子を偲ぶことができます。現在、一般のボランティア団体により大切に維持・保存されています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 愛知県三河に創建された浄土真宗の徳本寺は、檀家本多正信に請われ神田に移転し、江戸時代明暦3年(1657)の大火後に西浅草に移りました。「本多正信夫妻の絵像」(国重要文化財)を所蔵し、境内には佐野善左衛門政言「世直し大明神」の墓があります。
    浅草中央部エリア
  • 『美しい日本の歴史的風土100選』に選ばれた樹齢90年の谷中のシンボル的な大木です。
    谷中エリア
  • 伝法院通りは、仲見世通りと六区興行街を結び、浅草通りの裏通り道として早くから賑わってきました。つくばエクスプレス開業時には来街者を引き込み、街に回遊性を持たせるため、伝法院通り江戸まちづくり景観整備事業と銘打って、正面外観の改修や統一看板の設置など、江戸情緒あふれる街並みを再現する景観整備を進めてきました。
    浅草中央部エリア
  • 1857年に開席した「鈴本演芸場」は、現存する中では最古の歴史を誇る寄席(よせ)。落語をはじめ、漫才や曲芸、紙切りなどバラエティに富んだ様々な演目が10日毎に内容を変えて上演しています。昼の部と夜の部に分かれており、それぞれ好きなタイミングで入退室できるのも魅力のひとつ。
    上演中は飲食も可能です。おすすめは売店で購入できる、お箸で切れるやわらかさで有名な「上野 井泉本店」のかつサンド。お弁当やお菓子を食べたりビールを飲みながら、演目をお楽しみください。
    上野・御徒町エリア
  • 清廉度量、家庭円満の神様(布袋尊)が祀られている橋場不動尊。正式名を砂尾山橋場寺不動院といい、現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。
    760年、寂昇(じゃくしょう)上人によって開創されました。1845年に建立された本堂は、小堂ながら美しく簡素なたたずまいを残す江戸時代の建築様式です。明治の大火、関東大震災、第二次大戦の戦災でも周辺を災禍から守ったことから「火伏せの不動尊」とも呼ばれています。

    本堂の右前には、樹齢約700年の大銀杏が見事な枝葉を伸ばしています。その昔、すぐ近くを流れる隅田川を往来して参拝する人の目印となったのがこの銀杏で、今なおそのパワーを授かりに来る人も多いそうです。
    また、江戸時代から伝わる布袋尊像が祀られています。その姿は肩に袋がなくお腹が袋代わりの形をしている珍しいもので、古くから庶民に尊信されています。(御開帳期間 1月1日~7日)
    奥浅草エリア
  • 吉原弁財天は、千束三丁目にある花園公園にあります。昭和10年吉原神社に合祀されたため、正確には神社ではありませんが、現在も鎮魂碑など多くの遺構を残しております。
    奥浅草エリア
  • 浅草木馬館は、昭和52年(1977)に開館した大衆劇場で、全国人気劇団が月替わりで公演し、「涙あり笑いあり」の芝居や舞踊ショーが演じらています。お目当ての役者が登場すると客席からおひねりが飛び交います。
    浅草中央部エリア
  • 皮革産業資料館は、台東区の地場産業である皮革産業に関する製品や書籍、文献を収蔵・展示する資料館として昭和56年(1981)に開館しました。国内では唯一の皮革専門の資料館として貴重な存在です。展示品の中には元大関小錦の靴や長島茂雄氏のスパイクシューズなどもあります。
    奥浅草エリア
  • 彫刻家として初めて文化勲章を受章した朝倉文夫(1883~1964)の住居兼アトリエを公開する美術館。朝倉作品のほか、随所に蔵書や掛軸、陶磁器などのコレクションを展示しています。
    朝倉が自ら設計した、鉄筋コンクリート造のアトリエ棟と木造の住居棟からなる建物は、異なる素材が違和感なく調和しています。広く門戸を開放し弟子を育成した「朝倉彫塑塾」の教育の場としても使われました。巨石と樹木が濃密な空間を作り出す「五典の池」を中心とした中庭、日本における屋上緑化の先駆けともいえる屋上庭園など、朝倉独自の美学や哲学、教育論も、この建物に色濃く反映されています。
    彫刻作品や芸術品を鑑賞する美術館という側面だけでなく、庭園や建築の価値も感じられる施設です。朝倉の芸術思想の特質である自然観を表す庭園は、その芸術上・観賞上の価値が評価され、敷地全体が「旧朝倉文夫氏庭園」として国の名勝に指定されています。
    谷中エリア
  • 桜橋 は、台東区今戸と 墨田区向島との間で、隅田川両岸の 「隅田公園」 を結ぶ歩行者専用橋です。橋の創架は昭和60年(1985)、「隅田公園」 の施設の一つとして台東区と墨田区の共同事業で架橋されました。「隅田川」 では最初のそして唯一の歩行者専用橋です。
    奥浅草エリア
  • 日本初の私鉄である日本鉄道が、上野-熊谷間の第一区線開業時に合わせて、山下町に東京方の起点駅として明治16年(1883)に開業した歴史ある駅です。現在、北関東と東京を結ぶJR各線と東京メトロ各線、また東北、上・信越方面の各新幹線、その他在来線各線が発着するなど、東京の「北の玄関口」として機能しています。
    上野・御徒町エリア
  • 下谷七福神詣りは比較的新しい七福神詣りで、それまでは個々に御開帳日を定め行われいていたものを昭和52年(1977)から七社寺そろって御開帳日を定め、七福神めぐりが始められました。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 【現在、耐震工事のため休館中】

    袋物参考館は、世界50ヶ国にも及ぶ民族の生活用具としてのバッグなど、およそ3000点を収集所蔵している参考館です。江戸時代の煙草入れや印籠、北欧のトナカイ皮革のバッグなど約300点を所蔵品の中から選び、常設展示しています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • ねぎし三平堂は、林家三平の笑いの精神を受け継ぐ場所です。林家三平は落語家の名門に生まれながら、それまでの古典落語に飽き足らず、殻を大きく破った三平落語を創り上げました。自由闊達な話芸は、寄席だけにとどまらず、あらゆるメディアに進出し、神風タレント第一号、昭和の爆笑王として、いつまでも日本人の心に残っています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 「東京にオペラやバレエもできる本格的な音楽ホールを」という要望に応え、東京都が開都500年事業として建設し、昭和36年(1961)年に開館しました。大ホールと小ホールからなり、バックステージの広さなどのゆとりある造りは貴重で、海外の有名歌劇場が来日した際の公演に使用されることが多いホールです。
    上野・御徒町エリア
  • 八橋検校顕彰碑は、東京・上野不忍池の弁天堂境内にあります。八橋検校(1614-1685)は、生田流、山田流などの箏曲の祖と言われています。箏組歌13曲、段物3曲などを制定し、現在の箏曲の基礎を築きました。顕彰碑は昭和41年(1966)に建立されました。顕彰碑の下方には石造りの箏も置かれています。
    上野・御徒町エリア
  • 幕末から明治時代にかけての武士(幕臣)・ジャーナリスト・作家・劇作家である福地桜痴の墓は谷中霊園にあります。通称は源一郎といいます。毎日新聞の前身である東京日々新聞の主筆として筆を奮い、初めて社説を採用するなど明治時代のジャーナリズムに大きく貢献し、新聞界を去った後は、文学者として活躍しました。
    谷中エリア
  • 2019年に放送されたテレビアニメ「さらざんまい」において、かっぱ橋周辺や浅草地域を中心に台東区内の風景が細かく描かれ、放送終了後も聖地として多くのアニメファンが来訪しています。このマンホール蓋は、東京都下水道局や製作委員会、地元商店街等の協力のもと、観光振興を目的に設置されました。
    描かれているのは、主人公である矢逆一稀、久慈悠、陣内燕太の3人が、かっぱ橋に封印されていた謎のカッパ型生命体“ケッピ”によって河童の姿に変身させられた姿です。

    設置年月日:令和3年4月13日
    浅草中央部エリア
  • 川路聖謨トルは、幕末の外国奉行。奈良奉行、大阪奉行を歴任した後、外国奉行に就任し、下田で日露和親条約に調印したましが井伊大老と日米和親条約締結で対立により失脚しました。後に外国奉行に復権しましたが、慶応4(1868)年、江戸開城の報に接し、ピストルで自決しました。お墓は大正寺(たいしょうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • この碑は東京工業大学の同窓会である蔵前工業会が設置したもので榊神社に建立されています。碑文には「工業教育発祥の地」と書かれています。この地には明治14年(1881)に創立の「東京職工学校」(後の「東京工業大学」)がありましたが、関東大震災により施設の大半を焼失したため目黒に移転しました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 駒形橋は、昭和2年(1927)に完成した長さ150mの青いアーチ橋で、中央径間部は下路式、両側の側径間部は上路式で浅草通りを通しています。橋の名称は「駒川の渡し」や観音様が上陸した「駒形堂」に由来するとされています。
    浅草中央部エリア
  • 山谷は、荒川区と隣接した地域にあり数多くの簡易宿泊所があります。これは戦後、東京都によって被災者を仮の宿泊施設に集めたことが簡易宿泊所へとつながり、高度経済成長期の頃には日本有数の日雇労働者の滞在場所となりました。現在では、日雇労働者の高齢化や景気の低迷により、従来の労働者に代わって、外国人の利用が増えています。
    奥浅草エリア
  • 明治13年(1880)に竣工された都内に現存する最古のレンガ建築です。この建物は、教育博物館の書籍庫として建てられたもので、耐火を重視し、すべての開口部に鉄扉を付設するなどの不燃性を重視した造りとなっています。築124年を迎えた平成22年(2010年)に耐震改修事業の一環により全面改修が施されました。
    上野・御徒町エリア
  • 東京藝術大学美術学部構内にある美術館です。平成10年(1998)に芸術資料館から現在の名称に改称しました。芸術資料収集は、 明治20年(1887)の東京美術学校設置に先立つ時期から行われ、現在の収蔵品は3万件余りに達し、その中でも大きな比重を占めているのが歴代卒業生の作品となっています。
    上野・御徒町エリア
  • お化け地蔵は松吟寺(しょうぎんじ)にあります。「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、高さ3m余の並外れて大きいからなど、いくつかの伝承があります。石仏は享保6年(1721)の建立で、関東大震災で二つに折れましたが、補修して現在に至っています。常夜灯は、寛政2年(1790)に建てられました。
    奥浅草エリア
  • 笠森お仙・鈴木春信の碑は、お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺(だいえんじ)に大正8年(1919)に「笠森阿仙の碑」と「錦絵開祖鈴木春信」碑の二つの碑が建立されました。お仙は笠森神社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三大美人の一人です。絵師鈴木春信はその姿を、当時新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描きました。
    谷中エリア
  • 昭和52年(1977)にこけら落としされた浅草公会堂は、毎年1月の新春浅草歌舞伎などの演芸・演劇などの興業や、集会室や展示会などが催されます。客席1000席の大ホールには、浅草寺三社祭や広重の「江戸百景 浅草仲見世」の情景が描かれた鍛帳が雰囲気を創り上げています。
    浅草中央部エリア
  • 昭和通りの東側付近にある焼肉店やキムチを扱う韓国料理店・食材店が軒を連ねている都内で最も長い歴史を誇るコリアンタウンがあります。「キムチ横丁」の愛称で呼ばれています。その発祥は戦後間もない混乱期の昭和23年(1948)頃、現在の場所に焼肉店・精肉店・民族衣裳店等が集まったことに端を発しています。
    上野・御徒町エリア
  • 蔵前橋西詰めの下流側に石碑と若木が植えられています。初代「首尾の松」は、江戸時代安永年間(1772~80)風災で倒れ、その後も枯れたり焼失し、昭和37年(1962)これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者と共にこの橋際に碑を建設しました。現在の松は七代目といわれます。
    浅草橋・蔵前エリア

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