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該当件数176件
  • 清廉度量、家庭円満の神様(布袋尊)が祀られている橋場不動尊。正式名を砂尾山橋場寺不動院といい、現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。
    760年、寂昇(じゃくしょう)上人によって開創されました。1845年に建立された本堂は、小堂ながら美しく簡素なたたずまいを残す江戸時代の建築様式です。明治の大火、関東大震災、第二次大戦の戦災でも周辺を災禍から守ったことから「火伏せの不動尊」とも呼ばれています。

    本堂の右前には、樹齢約700年の大銀杏が見事な枝葉を伸ばしています。その昔、すぐ近くを流れる隅田川を往来して参拝する人の目印となったのがこの銀杏で、今なおそのパワーを授かりに来る人も多いそうです。
    また、江戸時代から伝わる布袋尊像が祀られています。その姿は肩に袋がなくお腹が袋代わりの形をしている珍しいもので、古くから庶民に尊信されています。(御開帳期間 1月1日~7日)
    奥浅草エリア
  • 昭和52年(1977)にこけら落としされた浅草公会堂は、毎年1月の新春浅草歌舞伎などの演芸・演劇などの興業や、集会室や展示会などが催されます。客席1000席の大ホールには、浅草寺三社祭や広重の「江戸百景 浅草仲見世」の情景が描かれた鍛帳が雰囲気を創り上げています。
    浅草中央部エリア
  • 鳥塚は、弁天堂のほぼ裏側に位置する大きな塚です。この鳥塚は東京都内に店舗を有する食鳥肉の販売業者が組織している東京食鳥鶏卵商業協同組合及び東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合の組合員有志が生活の糧であり子孫の繁栄に寄与する諸鳥類の霊魂を永久に慰めるために昭和37年(1962)に建立されました。
    上野・御徒町エリア
  • お化け地蔵は松吟寺(しょうぎんじ)にあります。「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、高さ3m余の並外れて大きいからなど、いくつかの伝承があります。石仏は享保6年(1721)の建立で、関東大震災で二つに折れましたが、補修して現在に至っています。常夜灯は、寛政2年(1790)に建てられました。
    奥浅草エリア
  • 八万四千体地蔵は、浄名院(じょうみょういん)にある2万5千体を超えるたくさんの石地蔵菩薩像のことです。明治12年に、第38世妙運大和尚が仏恩に報い、衆生済度(迷い苦しんでいる人々を救い、悟りの境地に導くこと)のために、八万四千体の地蔵建立を発願されたことに始まります。「八万四千」とは仏法で無数の意味を示します。この石地蔵尊は全国各地にも造立されており、これまで約5万体の石地蔵尊が造立され、今も増え続けています。
    上野・御徒町エリア
  • 上野恩賜公園内の東照宮の入り口付近にあり、寛永8年(1631)、佐久間勝之が奉納した石灯籠です。高さ約6m、笠石の周囲約4mとあまりにも巨大な灯籠のため「お化け灯籠」と呼ばれています。名古屋の熱田神宮の石灯籠、京都南禅寺の大石灯籠と合わせて日本三大石灯籠のひとつに数えられています。
    上野・御徒町エリア
  • 関東大震災では遊女をはじめ多くの人々が池に逃れ、490人が溺死する悲劇が起こりました。この観音さまは溺死した人々の供養のために大正15年(1926)に造立されたものです。
    奥浅草エリア
  • 下谷神社(したやじんじゃ)の境内に「寄席発祥之地」の石碑があります。江戸時代寛政10年(1798)に馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎(のちの三笑亭可楽)が、素人噺家として入場料をとって興行を行ったことが、寄席のはじまりだといわれています。
    上野・御徒町エリア
  • 市村座の定式幕は、「黒」「萌葱(緑)」「柿色」三色の引幕で、現在国立劇場が同じ定式幕を使用しています。猿若町では天保末期から明治にかけて1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(後の守田座)があり、芝居町を形成していました。江戸歌舞伎興隆の場となったこの地に昭和39年(1964)に跡碑が建てられました。
    奥浅草エリア
  • 慶応4年(1868)の上野戦争によって荒れ果て、明治新政府が病院建設を決めていた上野の山を、近代的な公園にすべきと提言した長崎医学校教官でオランダ人医師ボードウィンの胸像です。昭和48(1973)年に建立されましたが、オランダ政府の資料の錯誤で平成18年(2006)に像を交換するまでは博士の弟の像でした。
    上野・御徒町エリア
  • 1917(大正6)年に日本で最初の駅伝「東海道五十三次駅伝徒歩競争」京都~東京間の508㎞23区間で開催されました。スタートは京都の三条大橋で、ゴールは上野の不忍池で開かれていた博覧会場の正面玄関でした。
    上野・御徒町エリア
  • 太平洋戦争で犠牲となった動物や動物園で亡くなった動物の霊を慰めるための慰霊碑です。上野動物園内のゾウ園の向かいにあります。最初の慰霊碑は昭和6年(1931)に建立され、現在のものは50年(1975)に新たに建立されました。人工石には「動物よ安らかに」の碑文が刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 下谷七福神詣りは比較的新しい七福神詣りで、それまでは個々に御開帳日を定め行われいていたものを昭和52年(1977)から七社寺そろって御開帳日を定め、七福神めぐりが始められました。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 「東京ふぐ料理連盟」が、フグの霊を供養するために、昭和40年(1965)に建立した石碑です。上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にあります。「幾千萬のふぐの霊に満腔の感謝をささげ、今後絶對安心してふぐを召し上がられることを祈念し茲に別記會員有志の協力によってふぐ供養碑を建立した所以であります」と刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 扇塚は、上野不忍池の弁天堂の少し手前の左側にある作家佐藤春夫氏の詩文で、扇の形をした碑です。初代花柳寿美の舞扇を納めて、昭和24年(1949)2月、6代目尾上菊五郎、二世花柳寿輔、花柳章太郎氏らの手によって建てられました。
    上野・御徒町エリア
  • 地下鉄浅草駅は、昭和2年(1927)に東洋初に地下鉄開業した浅草~上野間の始発駅として誕生しました。重厚な鋼鉄製の柱や地下鉄開業当時のレトロなポスター、駅構内の出入り口の上屋など社寺のような和風デザインは、昭和初期のならではのモダンなセンスがうかがえます。
    浅草中央部エリア
  • 明治6年(1873)、明治天皇は元勲三条実美の別邸対鴎荘に行幸し病床にあった三条実美を見舞われました。御見舞いの帰途、伊達宗城邸で御休息の際、隅田川の冬景色を賞せられた和歌「いつみてもあかぬ景色は隅田川 難美路の花は冬もさきつつ」をお詠みになりました。碑は今戸町の隅田公園内にあります。
    奥浅草エリア
  • 日本を代表する時代小説作家である池波正太郎。その功績を称え、2007年11月、待乳山聖天公園に生誕地碑が建立されました。池波正太郎は待乳山聖天宮の南側、旧東京市浅草聖天町61番地で誕生しました。自身のエッセイに「大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は、私の心のふるさとのようなものだ」(『東京の情景「大川と待乳山聖天宮」』より)と記しており、小説の舞台にも待乳山や近くの今戸、橋場などをたびたび登場させています。
    浅草中央部エリア
  • 姥ヶ池は、隅田川に通じる大池で明治24年(1891)に埋め立てられました。「昔、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって石の下敷きになって死に、それを悲しみ悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げた」という言い伝えにより、「姥ヶ池」と呼ばれていました。その碑は花川戸公園内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 笠森お仙・鈴木春信の碑は、お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺(だいえんじ)に大正8年(1919)に「笠森阿仙の碑」と「錦絵開祖鈴木春信」碑の二つの碑が建立されました。お仙は笠森神社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三大美人の一人です。絵師鈴木春信はその姿を、当時新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描きました。
    谷中エリア
  • 松尾芭蕉(1644~1694)の句碑は、江戸時代寛政8年(1796)、芭蕉の103回忌に、浅草寺弁天山の鐘楼の入り口に建立されました。この句碑、元は浅草寺本堂の銭塚地蔵の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。佐脇嵩雪が描いた芭蕉の座像が線刻してありますが、200年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっています。
    浅草中央部エリア
  • 幡随院長兵衛は、江戸初期の町奴で、肥前唐津の士族出身、幡随院の住職向導に私淑、浅草花川戸に住み、奉公人を周旋する口入れ業に従事していたといわれます。その時代町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、旗本奴も市中を乱していました。長兵衛は慶安3年(1650)に旗本奴頭領の騙し討で没しました。お墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • この碑は東京工業大学の同窓会である蔵前工業会が設置したもので榊神社に建立されています。碑文には「工業教育発祥の地」と書かれています。この地には明治14年(1881)に創立の「東京職工学校」(後の「東京工業大学」)がありましたが、関東大震災により施設の大半を焼失したため目黒に移転しました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 不忍池由来碑は、上野恩賜公園の弁財天入口近くにある石碑で、昭和41年(1966)に建立されました。上野台地と本郷台地の間を忍ヶ丘と呼ばれていたことに由来しているといわれています。この地域は、古くは海で、海岸線の後退で沼のようになったのは平安時代といわれています。
    上野・御徒町エリア
  • 蓬莱園と命名された庭園は、江戸時代、肥前の国平戸藩主の松浦家の別邸庭園として造られたものです。鳥越川の水を取り込んだ大泉水を中心に、二千六百坪の敷地に築山や東屋、四季の花木、蓬莱の仙郷を思わせる名園だったようですが、関東大震災で荒廃し、現在は都立忍岡高校校庭に池の一部と都指定の天然記念物の大イチョウを残すのみです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 昭和43年(1968)に、嘉納治五郎没後30周年を記念して講道館が建立した石碑です。明治15年(1882)講道館の創始者嘉納治五郎が永昌寺(えいしょうじ)に下宿して友人や門弟らと稽古を始めたのが柔道の始まりといわれています。当時の建物は関東大震災で焼失しました。永昌寺は小説「姿三四郎」に登場する隆昌寺のモデルでもあります。
    上野・御徒町エリア
  • 上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にある石碑で、昭和51年(1976)に「東京魚商業協同組合」によって建立されました。碑文には「四海を海に囲まれた我が国では、(中略)私共水産小売業者は、水揚げされる水産資源に感謝し慎んで魚の霊を悼み、組合創立50周年を機に供養のためこの塚を建立します」とあります。
    上野・御徒町エリア
  • いと塚は、三味線や琴などの芸事にはかかせない糸に対する感謝を表した塚で、不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 妙亀塚は妙亀塚公園という小さな公園の中にある塚です。このあたりは謡曲「隅田川」で有名な妙亀尼とその子梅若丸の伝説の地で、小高い塚に板碑をはめ込んだ供養塔が立っており、都の旧跡に指定されています。妙亀塚は「梅若伝説」にちなんだ名称です。
    奥浅草エリア
  • 川柳発祥の地碑は、三筋2丁目交差点の南東角に建っている石碑です。平成19年(2007)、川柳発祥250年を記念して建立されました。旧浅草新堀天台宗龍宝寺前(現在の蔵前4丁目)に住んでいた里正柄井八右衛門が無名庵川柳と号し、初めて万句合を興行しました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 川路聖謨トルは、幕末の外国奉行。奈良奉行、大阪奉行を歴任した後、外国奉行に就任し、下田で日露和親条約に調印したましが井伊大老と日米和親条約締結で対立により失脚しました。後に外国奉行に復権しましたが、慶応4(1868)年、江戸開城の報に接し、ピストルで自決しました。お墓は大正寺(たいしょうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 浅草御蔵とは、江戸幕府が全国に散在する天領から運んだ年貢米や買い上げ米などを収納・保管した倉庫のことです。大坂、京都の二条城と合わせて三御蔵と呼ばれていました。浅草御蔵跡碑は昭和31年(1956)に浅草南部商工観光協会が建立し、現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは昭和9年(1934)のことです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 琵琶の碑は、福徳・諸芸能上達の神として広く信仰されている弁財天の琵琶を模してつくられた石碑です。この石碑は、不忍池の中央にある弁天島にあり、「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 横山大観は、近代日本画壇の巨匠です。明治22年(1889)に開校した東京美術学校に第一期生として入学し、岡倉天心に多大な啓発を受けました。その後海外に渡り、ニューヨークやパリなどで相次いで展覧会を開き、高い評価を得ました。日本でもその画風が評価され始め、第一回文化勲章の受章者となりました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 佐野善左衛門政言は江戸時代中期の武士で、天明4年(1784)、江戸城内で時の権力者田沼意知(田沼意次の子)に刃傷におよびました。意知は翌日死亡し、政言は切腹となり、28歳で一生を閉じました。この刃傷事件の翌日から高価の米価が下落し、老中田沼意次も失脚しました。お墓は徳本寺(とくほんじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 細井平洲は江戸時代の儒学者です。農家の次男として生まれた平洲は少年の時代より勉学を積み重ね、私塾「嚶鳴館」を開き、多くの人々を教えました。特に上杉鷹山の師として有名になり、内村鑑三は鷹山を「代表的日本人」として挙げ、その師である平洲を「当代最大の学者の一人」として紹介しています。お墓は天嶽院(てんがくいん)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 八橋検校顕彰碑は、東京・上野不忍池の弁天堂境内にあります。八橋検校(1614-1685)は、生田流、山田流などの箏曲の祖と言われています。箏組歌13曲、段物3曲などを制定し、現在の箏曲の基礎を築きました。顕彰碑は昭和41年(1966)に建立されました。顕彰碑の下方には石造りの箏も置かれています。
    上野・御徒町エリア
  • 芸道富有、子孫繁栄の神様が祀られている天海僧正は、比叡山延暦寺にならって上野の山に寛永寺を創建しました。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島にならって、水谷伊勢守勝隆が池に中ノ島(弁天島)を築き、寛永中期(1630年代)に弁天堂を建立しました。当初、小舟を渡して参拝していましたが、後に橋が架けられました。
    上野・御徒町エリア
  • 自性院(じしょういん)は、慶長16年(1611)に神田に創建、慶安元年(1648)現在地に移った古寺です。愛染堂に安置した愛染明王像(非公開)で知られます。愛染明王は縁結び、家庭円満の対象として信仰されています。文豪川口松太郎の昭和初期の名作「愛染かつら」は、愛染明王像と本堂前にあった桂の古木にヒントを得た作品だといわれます。
    谷中エリア
  • 亀田鵬斉は、江戸時代の代表的な儒学者の一人で、詩、書、画にも人並みはずれた才能を発揮した学者、芸術家です。作品は寺社仏閣の碑や扁額、個人所有書画等、数多く存在します。 お墓は称福寺(しょうふくじ)にあります。
    奥浅草エリア

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