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該当件数320件
  • 浅間神社は、富士信仰が盛んであった江戸時代、富士参りができない人々の為に元禄年間(1688~1703)創建と推察されており、本殿の扉には明治維新頃の漆喰彫刻「下り龍」が残っています。富士山山開きの7月1日に例大祭、5・6月の最終土日の4日間に植木市が行われます。
    奥浅草エリア
  • 幡随院長兵衛は、江戸初期の町奴で、肥前唐津の士族出身、幡随院の住職向導に私淑、浅草花川戸に住み、奉公人を周旋する口入れ業に従事していたといわれます。その時代町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、旗本奴も市中を乱していました。長兵衛は慶安3年(1650)に旗本奴頭領の騙し討で没しました。お墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 清廉度量、家庭円満の神様(布袋尊)が祀られている橋場不動尊。正式名を砂尾山橋場寺不動院といい、現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。
    760年、寂昇(じゃくしょう)上人によって開創されました。1845年に建立された本堂は、小堂ながら美しく簡素なたたずまいを残す江戸時代の建築様式です。明治の大火、関東大震災、第二次大戦の戦災でも周辺を災禍から守ったことから「火伏せの不動尊」とも呼ばれています。

    本堂の右前には、樹齢約700年の大銀杏が見事な枝葉を伸ばしています。その昔、すぐ近くを流れる隅田川を往来して参拝する人の目印となったのがこの銀杏で、今なおそのパワーを授かりに来る人も多いそうです。
    また、江戸時代から伝わる布袋尊像が祀られています。その姿は肩に袋がなくお腹が袋代わりの形をしている珍しいもので、古くから庶民に尊信されています。(御開帳期間 1月1日~7日)
    奥浅草エリア
  • すしや通りという名称は、明治時代、雷門通りから六区に通ずる延長100mの通りに18軒もの寿司屋が連なったことに由来しています。昭和61年(1986)には、通りに全覆式アーケードやカラー舗装が施されました。
    浅草中央部エリア
  • 姥ヶ池は、隅田川に通じる大池で明治24年(1891)に埋め立てられました。「昔、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって石の下敷きになって死に、それを悲しみ悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げた」という言い伝えにより、「姥ヶ池」と呼ばれていました。その碑は花川戸公園内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 市村座の定式幕は、「黒」「萌葱(緑)」「柿色」三色の引幕で、現在国立劇場が同じ定式幕を使用しています。猿若町では天保末期から明治にかけて1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(後の守田座)があり、芝居町を形成していました。江戸歌舞伎興隆の場となったこの地に昭和39年(1964)に跡碑が建てられました。
    奥浅草エリア
  • 芸道富有、子孫繁栄の神様が祀られている天海僧正は、比叡山延暦寺にならって上野の山に寛永寺を創建しました。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島にならって、水谷伊勢守勝隆が池に中ノ島(弁天島)を築き、寛永中期(1630年代)に弁天堂を建立しました。当初、小舟を渡して参拝していましたが、後に橋が架けられました。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸千家の祖川上不白が関宿藩主久世大和守の外神田下屋敷に建てた茶室で、明治2年(1869)に現在地に移築しました。不審庵表千家六代原叟宗左の三畳台目の茶室と同じ建て方といわれ、有形文化財に指定されています。不白は千家の茶を普及させ、大衆の茶道を試みたといわれおり、この茶室は江戸千家を広める拠点となりました。
    上野・御徒町エリア
  • 明治の文豪で陸軍軍人であった森鴎外の旧居跡には水月ホテル鴎外荘が建っており、ホテルの前に「森鴎外居住之跡」と刻まれた石があります。ホテル敷地内の内庭には旧居の―部と樹齢三百年のカヤの木が残り、「舞姫」の題字・署名・本文ともすべて鴎外直筆の毛筆原稿からとられた「舞姫の碑」の文学碑も建っています。
    上野・御徒町エリア
  • 浅草迷子しらせ石標は、江戸時代安政7年(1860)の復元として、昭和32年(1957)に浅草寺本道前に建立されました。石標は当時、迷子や尋ね人の掲示板の役割を果たしていました。また、安政の大地震による吉原楼閣の犠牲者の慰霊碑でもあります。
    浅草中央部エリア
  • 白鬚橋は隅田川にかかる橋で、橋名は東岸にある「白鬚神社」にちなんでいます。創架は大正3年(1914)で近在の人々が基金を募り完成した木橋でした。現在の橋は、昭和6年(1931)に竣工し、橋長は168m、幅員は22mのアーチ形式です。
    奥浅草エリア
  • 下谷七福神詣りは比較的新しい七福神詣りで、それまでは個々に御開帳日を定め行われいていたものを昭和52年(1977)から七社寺そろって御開帳日を定め、七福神めぐりが始められました。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 浅草木馬館は、昭和52年(1977)に開館した大衆劇場で、全国人気劇団が月替わりで公演し、「涙あり笑いあり」の芝居や舞踊ショーが演じらています。お目当ての役者が登場すると客席からおひねりが飛び交います。
    浅草中央部エリア
  • 自性院(じしょういん)は、慶長16年(1611)に神田に創建、慶安元年(1648)現在地に移った古寺です。愛染堂に安置した愛染明王像(非公開)で知られます。愛染明王は縁結び、家庭円満の対象として信仰されています。文豪川口松太郎の昭和初期の名作「愛染かつら」は、愛染明王像と本堂前にあった桂の古木にヒントを得た作品だといわれます。
    谷中エリア
  • 笠森お仙・鈴木春信の碑は、お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺(だいえんじ)に大正8年(1919)に「笠森阿仙の碑」と「錦絵開祖鈴木春信」碑の二つの碑が建立されました。お仙は笠森神社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三大美人の一人です。絵師鈴木春信はその姿を、当時新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描きました。
    谷中エリア
  • 金杉通りは昭和初年に開通しました。旧道は上野山下から入谷口通りを経由、昭和通りと並行して東北に延び三ノ輪で昭和通りと合流します。この道を俗に「金杉通り」と呼びますが、昔はこの街道を奥州街道裏道と呼びました。金杉の地名は、鎌倉時代に金曽木彦三郎という人物の姓から、初めは金曽木、それが金杉に変わったものとされています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 泥舟は幕末期の幕臣・槍術家である高橋泥舟の墓は大雄寺(だいおうじ)にあります。山岡鉄舟の義兄にあたります。剣術の名人として世に賞賛され、幕府講武所教授、師範役となり従五位下伊勢守に叙任されました。廃藩置県後は要職を退き、隠棲し書を楽しんだといわれます。勝海舟・山岡鉄舟と共に幕末の三舟といわれています。
    谷中エリア
  • 目黄不動は寛永年間(1624~1643)の中頃、三代将軍家光が天海大僧正の具申をうけ、江戸の鎮護と天下泰平を祈願して、5つの方角の不動尊を選んで割り当てた江戸五色不動(目白・目赤・目黒・目青・目黄)の一つです。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 根岸界隈のうち、旧日光街道沿い(金杉通り)は戦災で焼け残り、土蔵造りの商家が残っており、柳通りの裏路地には旧花街時代の建造物が所々に残っています。根岸の柳通りから来る道はかつて音無川が流れていた道です。柳通りには歩道の両側に柳が街路樹として植えられており、柳が密になるこの通りがかつて花街のあった界隈です。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 了翁禅師塔碑は、寛永寺にある石碑です。了翁は僧門に入り、諸国を巡錫している途中、夢の中で一種の筆法を修得し、これを錦袋円と名付け、上野不忍池の池畔に店舗を営みました。そこで得た私財を江戸大火の際に罹災民の救済に投じ、また、勧学寮という学問所などを建立し教育に尽力しました。
    上野・御徒町エリア
  • お化け地蔵は松吟寺(しょうぎんじ)にあります。「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、高さ3m余の並外れて大きいからなど、いくつかの伝承があります。石仏は享保6年(1721)の建立で、関東大震災で二つに折れましたが、補修して現在に至っています。常夜灯は、寛政2年(1790)に建てられました。
    奥浅草エリア
  • 浅草文庫は、明治7年(1874)に創設された官立の図書館で、その跡碑が榊神社境内にあります。当時の和・漢・洋の蔵書数は11万~13万冊ともいわれ、明治14年に封鎖されました。現在、その蔵書は国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館などに所蔵され、太政大臣三条実美の筆蹟と伝える「浅草文庫」の朱印が押されています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 天祐庵は、京都表千家「不審庵」の写しとして、江戸時代安永年間(1780~)に名古屋の牧野邸「太郎庵」として造営され、大正5年(1916)茶人高橋箒庵への譲渡などを経て、昭和33年(1958)に伝法院庭園内に移築されました。躙口や天井などが、利休系草庵茶室の典型とされる見事な比例感を醸し出しています。
    浅草中央部エリア
  • 宝永7年(1710年)、江戸六地蔵の2番目に奥州街道の旅人の安全を祈願して街道の入口にある東禅寺に建立されました。その他、品川寺(東海道)、太宗寺(甲州街道)、真性寺(中山道)、霊巌寺(千葉街道)、永代寺(千葉街道)に地蔵が建立されていました。
    奥浅草エリア
  • 下村観山は、現代日本美術の発展に寄与した画家です。観山は幼少から絵を好み、東京美術学校(東京芸術大学)に学び、卒業後、同校助教授となりました。岡倉天心の日本美術院創立に参加し、横山大観らと活躍、昭和5年(1930)に没しました。歴史を題材としたものを得意とし、「弱法師」は代表作です。お墓は安立寺(あんりゅうじ)にあります。
    谷中エリア
  • 東京文化会館内にある音楽資料室です。数少ない音楽専門の図書館として昭和36年(1961)に開設されました。クラシック音楽を中心に、民族音楽、邦楽、舞踊などの資料を無料で閲覧・視聴することができます。また、都内で活動するアマチュアの演奏団体にオーケストラ・吹奏楽用のパート譜の館外貸出も行っています。
    上野・御徒町エリア
  • 延命長寿、諸病平癒、人々の安全と健康を守る神様が祀られている長安寺の歴史は古く、建立は寛文9年(1669)とされていますが、これよりさらに400年も前にさかのぼった板碑(塔婆の一種)が残されています。また、長安寺には明治初期の画家狩野芳崖(かのうほうがい1828-1888)の墓所があります。
    谷中エリア
  • 蔵前橋西詰めの下流側に石碑と若木が植えられています。初代「首尾の松」は、江戸時代安永年間(1772~80)風災で倒れ、その後も枯れたり焼失し、昭和37年(1962)これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者と共にこの橋際に碑を建設しました。現在の松は七代目といわれます。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 延命長寿、諸病平癒の神様が祀られている石浜神社は、東に隅田の大川、西に霊峰富士、北に名山筑波といった名勝に恵まれ、「江戸名所図会」などにも大きく納められ、「神明さん」の通称のもと、市民の間にその名を馳せました。石浜神社に祀られている寿老人像は、浅草名所七福神の復活に際し、延命長寿の神として奉安されたものです。
    奥浅草エリア
  • 御隠殿は輪王寺宮の別邸で、寛永時本坊で公務を執られていた宮が、時折り息抜きにこられた屋敷です。敷地は三千数百坪で、老松の林に囲まれた池を持つ優雅な庭園で、ここから眺める月が美しかったといわれます。慶応4年(1868)上野戦争によって焼失し、現在は全くその跡を留めていません。根岸薬師堂(ねぎしやくしどう)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 佐野善左衛門政言は江戸時代中期の武士で、天明4年(1784)、江戸城内で時の権力者田沼意知(田沼意次の子)に刃傷におよびました。意知は翌日死亡し、政言は切腹となり、28歳で一生を閉じました。この刃傷事件の翌日から高価の米価が下落し、老中田沼意次も失脚しました。お墓は徳本寺(とくほんじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 東上野神仏具問屋街は、上野から浅草へ続く浅草通りにあります。別名「仏壇通り」といわれるほど、神仏具の専門店約60店舗が軒を連ねています。明暦3年(1657)の「明暦の大火」の後、徳川幕府により多くの寺院がこの周辺に集められたことで、仏壇・仏具などの職人が多く集まるようになりました。
    上野・御徒町エリア
  • 芸術上の功績顕著な芸術家を優遇するための栄誉機関です。芸術に寄与する活動とともに、芸術に関する重要事項を審議する機関となっています。明治40年(1906)に設けられた美術審査委員会を母体とし、改組拡充を経て昭和22年(1947)に「日本藝術院」と名称を変更しました。
    上野・御徒町エリア
  • 硯の資料室は、中国硯の研究に力を注ぐ楠文夫氏が蒐集した硯・石印・水滴等を展示した資料室です。中国では「硯は文人の魂」といわれ愛用されてきました。この中国四大名硯といわれる硯等300点以上が展示され、手にとって観賞することができます。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 永昌寺は、江戸時代永禄元年(1558)に浅草の下谷に下谷長者が開創した寺です。寛永14年(1637)に現在の地に移りました。近辺は大名屋敷が多く、肥前藩主松浦壱岐守の妻、永昌院が開基となり、寺名に由来しています。明治15(1882)に嘉納治五郎がこの寺院の境内に柔道場「講道館」を設立しました。
    上野・御徒町エリア
  • 島田虎之助、直心影流島田派の剣客。幼少より中津藩剣術師範堀十郎左衛門の道場で学び、上達が早く16歳の頃には九州一円を武者修行し名声をあげました。浅草新堀で道場を開き、そこには勝麟太郎(のちの海舟)も通いました。虎之助は幕末の剣豪といわれましたが、嘉永5年(1852)に病没しました。お墓は正定寺(しょうじょうじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア 浅草中央部エリア
  • 東京下町八社福参りは、 台東区内の鷲神社・今戸神社・第六天榊神社・下谷神社・小野照崎神社、中央区内の水天宮・小網神社・住吉神社の8つのお社をお参りして8つのお恵みを受けることです。正月七草までの年の始めに家族の開運・無事息災を祈り、お守を受けることで「八方除け、八方開き」にも通じます。
    根岸・入谷・金杉エリア 上野・御徒町エリア 奥浅草エリア
  • 嘉永・安政時代に下谷坂本村字入谷に住んでいた植木師の成田屋山崎留次郎が、東の朝顔造りの大関であったと記録が残っています。入谷が朝顔で有名になったのは、明治になってからのことで、土質が朝顔造りに適していたのか、十数件の植木屋が、一軒500~600坪の土地を有し、軒を連ねて朝顔造りをはじめました。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 包丁塚は、上豊調理師会により建立されました。この石碑は、不忍池の中央にある弁天島にあり、弁天島には、その他ふぐ供養碑やめがねの碑などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 「東京ふぐ料理連盟」が、フグの霊を供養するために、昭和40年(1965)に建立した石碑です。上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にあります。「幾千萬のふぐの霊に満腔の感謝をささげ、今後絶對安心してふぐを召し上がられることを祈念し茲に別記會員有志の協力によってふぐ供養碑を建立した所以であります」と刻まれています。
    上野・御徒町エリア

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