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該当件数319件
  • 太平洋戦争で犠牲となった動物や動物園で亡くなった動物の霊を慰めるための慰霊碑です。上野動物園内のゾウ園の向かいにあります。最初の慰霊碑は昭和6年(1931)に建立され、現在のものは50年(1975)に新たに建立されました。人工石には「動物よ安らかに」の碑文が刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 元プロボクサーでコメディアンのたこ八郎さん(1940~1985)の地蔵があることで有名です。無病息災を祈願した「たこ地蔵」は「めいわくかけてありがとう たこ八郎」と自筆で刻まれており、発起人である由利徹さん、赤塚不二夫さん、山本晋也さんらの名前も刻まれています。日蓮聖人御開眼の毘沙門天を奉安しています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 東京藝術大学美術学部構内にある美術館です。平成10年(1998)に芸術資料館から現在の名称に改称しました。芸術資料収集は、 明治20年(1887)の東京美術学校設置に先立つ時期から行われ、現在の収蔵品は3万件余りに達し、その中でも大きな比重を占めているのが歴代卒業生の作品となっています。
    上野・御徒町エリア
  • 「東京にオペラやバレエもできる本格的な音楽ホールを」という要望に応え、東京都が開都500年事業として建設し、昭和36年(1961)年に開館しました。大ホールと小ホールからなり、バックステージの広さなどのゆとりある造りは貴重で、海外の有名歌劇場が来日した際の公演に使用されることが多いホールです。
    上野・御徒町エリア
  • 漫画・アニメ作品「ブルーピリオド」は、主人公の高校生・矢口八虎が1枚の絵画との出会いをきっかけに美大受験を目指す青春物語を描いた作品であり、台東区の東京藝術大学をはじめ、上野恩賜公園や公園内の文化施設が舞台として登場します。
    区にゆかりのある本作品を通して、新たな観光スポット創出による誘客促進と区内観光客の回遊性向上を図るため、こちらのマンホール蓋を設置しました。

    設置年月日:令和4年3月1日
    上野・御徒町エリア 谷中エリア
  • 江戸時代中期の儒学者・経世家である太宰春台の墓は天眼寺(てんげんじ)にあります。春台は17歳の時儒学者、中野撝謙に師事し、朱子学を学びました。「経済録」・「聖学問答」・「弁道書」・「三王外紀」など数十巻を著し、日本に「経済」という言葉を広めた人物でもあります。延享4年(1747)に没しました。
    谷中エリア
  • 根岸界隈のうち、旧日光街道沿い(金杉通り)は戦災で焼け残り、土蔵造りの商家が残っており、柳通りの裏路地には旧花街時代の建造物が所々に残っています。根岸の柳通りから来る道はかつて音無川が流れていた道です。柳通りには歩道の両側に柳が街路樹として植えられており、柳が密になるこの通りがかつて花街のあった界隈です。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 彰義隊戦死者碑は、明治新政府に反抗して討滅された彰義隊の戦死者を供養するために明治15年(1882)に建てられました。上野恩賜公園内の西郷隆盛像の裏手にあります。墓石には旧幕臣山岡鉄舟の筆によって「戦死之墓」とのみ記され、「彰義隊」の文字はありません。
    上野・御徒町エリア
  • 島田虎之助、直心影流島田派の剣客。幼少より中津藩剣術師範堀十郎左衛門の道場で学び、上達が早く16歳の頃には九州一円を武者修行し名声をあげました。浅草新堀で道場を開き、そこには勝麟太郎(のちの海舟)も通いました。虎之助は幕末の剣豪といわれましたが、嘉永5年(1852)に病没しました。お墓は正定寺(しょうじょうじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア 浅草中央部エリア
  • 永昌寺は、江戸時代永禄元年(1558)に浅草の下谷に下谷長者が開創した寺です。寛永14年(1637)に現在の地に移りました。近辺は大名屋敷が多く、肥前藩主松浦壱岐守の妻、永昌院が開基となり、寺名に由来しています。明治15(1882)に嘉納治五郎がこの寺院の境内に柔道場「講道館」を設立しました。
    上野・御徒町エリア
  • 屋形船は、江戸時代の末頃に始まった船遊びで、水の流れや川面を渡る風とともに料理を味わいながら、川岸の風景や夜景を肌で感じることができます。屋形船には乗合船と貸切船があり、浅草橋や柳橋をはじめ月島、浜松町などの発着場から、隅田川をはじめお台場などを周遊するコースがあります。
    浅草中央部エリア
  • 高橋至時は江戸時代中期の暦学者で、寛政7年(1795)に改暦の議が幕府で起こると、同門の間重富とともに天文方に抜擢され、「寛政歴」を作りました。伊能忠敬が実測地図を作成する際には、測量を指導し完成させました。二人は「日本地図の父母」といわれています。文化元年(1804)肺患のため没しました。お墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 谷中には各所に桜があり、特に谷中霊園は桜の名所としても有名です。天王寺の横から続く中央の道は「さくら通り」とも呼ばれていて、桜が咲く頃は桜のトンネルのようになり、平日でも桜を見ながら散策をする人が多くみられます。寛永寺から言問通りを渡り、浄名院の横を通り霊園に入る全長100mの桜並木や、霊園内に点在する大木なども見事です。
    谷中エリア
  • 根岸御行の松は、江戸名所図会や広重の錦絵にも描かれています。江戸名松の一つに数えられ、根岸4丁目の西蔵院不動堂の境内にあります。この松は、樋口一葉の作品「琴の音」や子規の俳句の題材にもなりました。初代の松は樹齢350年を経た後枯れてしまい、現在は平成30年に植えられた4代目の松になります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • こちらの三面大黒天は、創建した当初から安置されたもので、弘法大師の作と伝えられています。正面に大黒天、向かって右は弁財天、左が毘沙門天、後部は宝珠形光背を付けているユニークで徳のあるご尊像です。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた山岡鉄舟と初代三遊亭圓朝の墓は、鉄舟が明治16年(1883)に建立した全生庵にあります。鉄舟は晩年、禅を修め道場としてこの寺を建てました。居噺で人気を博した円朝は禅を通じて鉄舟に師事し親交を深めました。円朝の墓石には、鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とあります。
    谷中エリア
  • 甚内橋は鳥越川にかかっていた橋です。鳥越川は、不忍池から忍川をへて、三味線堀に落ち隅田川に注ぐ川で、今の蔵前通りと並行して流れていました。甚内橋跡は攅霊橋(浦島橋)から130mほど下流です。大きさは「長六間、両袖間壱間つゞ共一幅弐間」とあります。十字路の東南角には甚内橋跡の石碑があります。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 蓬莱園と命名された庭園は、江戸時代、肥前の国平戸藩主の松浦家の別邸庭園として造られたものです。鳥越川の水を取り込んだ大泉水を中心に、二千六百坪の敷地に築山や東屋、四季の花木、蓬莱の仙郷を思わせる名園だったようですが、関東大震災で荒廃し、現在は都立忍岡高校校庭に池の一部と都指定の天然記念物の大イチョウを残すのみです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • はなし塚は、太平洋戦時下で公演が禁止された「五人廻し」「明烏」などの名作落語と落語家先輩の霊を弔うために昭和16年(1941)に建てられた塚です。本法寺(ほんぽうじ)の外塀には、歴代の噺家の名が一面に刻まれています。境内には財と福をもたらす白狐を祀った熊谷稲荷があります。白狐を祀った稲荷は全国に2ケ所しかない非常に珍しいものです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 関東大震災では遊女をはじめ多くの人々が池に逃れ、490人が溺死する悲劇が起こりました。この観音さまは溺死した人々の供養のために大正15年(1926)に造立されたものです。
    奥浅草エリア
  • 浅草御蔵とは、江戸幕府が全国に散在する天領から運んだ年貢米や買い上げ米などを収納・保管した倉庫のことです。大坂、京都の二条城と合わせて三御蔵と呼ばれていました。浅草御蔵跡碑は昭和31年(1956)に浅草南部商工観光協会が建立し、現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは昭和9年(1934)のことです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 天海僧正の毛髪を治めた宝塔で、慶安5年(1652)に弟子の義海によって建立されました。寛永寺を創建した天海僧正は寛永20年(1643)子院の本覚院において108歳で没し、慈眼大師の諡号がおくられました。毛髪塔が立つ場所は本覚院跡で現在の寛永寺清水観音堂の裏にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 包丁塚は、上豊調理師会により建立されました。この石碑は、不忍池の中央にある弁天島にあり、弁天島には、その他ふぐ供養碑やめがねの碑などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 浅草木馬館は、昭和52年(1977)に開館した大衆劇場で、全国人気劇団が月替わりで公演し、「涙あり笑いあり」の芝居や舞踊ショーが演じらています。お目当ての役者が登場すると客席からおひねりが飛び交います。
    浅草中央部エリア
  • かわとはきものギャラリーには、世界各国の歴史的なはきものや各種参考靴、工具などが展示されています。足形測定機により自身の足の甲回りを採寸することができたり、シマウマや象など変わった皮に触れることもできます。
    浅草中央部エリア
  • ゴルフ商品街は、御徒町駅を出てすぐのアメ横通りと駅前通りにあるゴルフショップ商店街です。アメ横通りは、CMで有名な「二木ゴルフ」や「ことぶきゴルフ」「ロイヤルゴルフ」、駅前通りは「フタバゴルフ」、といったゴルフショップが建ち並びます。品揃えも豊富で、ゴルフ好きの男性客で賑わっています。
    上野・御徒町エリア
  • 駒形堂は、浅草寺のご本尊である観音像が、隅田川から引き上げられた地に建立されたお堂です。馬頭観音が祀られていることから「駒形」の地名の由緒ともなっています。現在の堂は平成15年(2003)に再建されたものです。ご本尊顕現の地のため、お堂周辺の十町余りの川筋は魚介殺生禁断となり、戒殺碑が建立されました。
    浅草中央部エリア
  • 宝永7年(1710年)、江戸六地蔵の2番目に奥州街道の旅人の安全を祈願して街道の入口にある東禅寺に建立されました。その他、品川寺(東海道)、太宗寺(甲州街道)、真性寺(中山道)、霊巌寺(千葉街道)、永代寺(千葉街道)に地蔵が建立されていました。
    奥浅草エリア
  • 吉原弁財天は、千束三丁目にある花園公園にあります。昭和10年吉原神社に合祀されたため、正確には神社ではありませんが、現在も鎮魂碑など多くの遺構を残しております。
    奥浅草エリア
  • 玉林寺のシイは、天正 19年(1591)に創建された玉林寺本堂の裏庭にある都指定天然記念物の巨大なシイの木です。シイの種類はスダジイで、幹回り5.63m、樹高9.5m、枝張りは東に3.5m、西に2m、南に7.5m、北に4mあります。見学する際は玉林寺の寺務所にて記帳し、寺の方と見学します。
    谷中エリア
  • 御隠殿は輪王寺宮の別邸で、寛永時本坊で公務を執られていた宮が、時折り息抜きにこられた屋敷です。敷地は三千数百坪で、老松の林に囲まれた池を持つ優雅な庭園で、ここから眺める月が美しかったといわれます。慶応4年(1868)上野戦争によって焼失し、現在は全くその跡を留めていません。根岸薬師堂(ねぎしやくしどう)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • KIWAYAウクレレミュージアムは、ウクレレ文化の保存と継承を目的に平成16年(2004)にKIWAYA社屋に創設されたミュージアムです。正式名称はウクレレミュージアム「樂」です。古今東西の歴史的なウクレレから珍しいウクレレまでを所蔵・展示しています。
    浅草中央部エリア
  • 下谷神社(したやじんじゃ)の境内に「寄席発祥之地」の石碑があります。江戸時代寛政10年(1798)に馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎(のちの三笑亭可楽)が、素人噺家として入場料をとって興行を行ったことが、寄席のはじまりだといわれています。
    上野・御徒町エリア
  • 昭和24年(1949)に国立図書館が文部省から国立国会図書館に移管されて成立した、国立国会図書館の支部図書館です。戦前の日本において唯一の国立図書館であった帝国図書館の後身で、上野公園に林立する文化施設の一つとして親しまれてきましたが、現在は国際子ども図書館へと改装開館しました。
    上野・御徒町エリア
  • 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲の「花」の歌碑は、昭和31年(1956)、言問橋のたもとの隅田公園内に武島羽衣先生歌碑建設会によって建立されました。「花」の歌碑には、羽衣自筆の歌詞が刻まれています。うららかな春景色を彷彿とさせる美しいメロディーは、今なお多くの人々に親しまれ、歌いつがれています。
    奥浅草エリア
  • 「東京ふぐ料理連盟」が、フグの霊を供養するために、昭和40年(1965)に建立した石碑です。上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にあります。「幾千萬のふぐの霊に満腔の感謝をささげ、今後絶對安心してふぐを召し上がられることを祈念し茲に別記會員有志の協力によってふぐ供養碑を建立した所以であります」と刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 1917(大正6)年に日本で最初の駅伝「東海道五十三次駅伝徒歩競争」京都~東京間の508㎞23区間で開催されました。スタートは京都の三条大橋で、ゴールは上野の不忍池で開かれていた博覧会場の正面玄関でした。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸幕府唯一の医学専門学校の医学館が清洲橋通り沿いにありました。明和2年(1765)、幕府奥医師多紀元孝が医師(漢方医)の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾躋寿館から出発、寛政3年(1791)に、幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし、医学館と改称、規模を拡大しました。文化3年(1806)、大火に遭い焼失しましたが、同年に旧向柳原一丁目に移転、再建されました。
    敷地は約7千平方メートル、代々多紀家がその監督に当たり、天保14年(1843)には寄宿舎を設けて全寮制とし、広く一般からも入学を許可し、子弟育成をはかるなど、江戸時代後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献しました。
    ※現在、この場所に「旧躋寿館跡 浅草医学館跡」に関する案内板や説明版等は設置されておりません。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 明治の文豪で陸軍軍人であった森鴎外の旧居跡には水月ホテル鴎外荘が建っており、ホテルの前に「森鴎外居住之跡」と刻まれた石があります。ホテル敷地内の内庭には旧居の―部と樹齢三百年のカヤの木が残り、「舞姫」の題字・署名・本文ともすべて鴎外直筆の毛筆原稿からとられた「舞姫の碑」の文学碑も建っています。
    上野・御徒町エリア
  • 日暮里の地は、江戸時代中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれて、四季折々の花樹を楽しむ江戸の人々の行楽地として賑わいました。青雲寺は修性院と共に「花見寺」と呼ばれ、豊かな自然に囲まれて草花を数多く植えた美しい庭園があったといわれています。また、滝沢馬琴(たきざわばきん)筆塚の碑があります。
    谷中エリア

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