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該当件数320件
  • ゴルフ商品街は、御徒町駅を出てすぐのアメ横通りと駅前通りにあるゴルフショップ商店街です。アメ横通りは、CMで有名な「二木ゴルフ」や「ことぶきゴルフ」「ロイヤルゴルフ」、駅前通りは「フタバゴルフ」、といったゴルフショップが建ち並びます。品揃えも豊富で、ゴルフ好きの男性客で賑わっています。
    上野・御徒町エリア
  • 「東京ふぐ料理連盟」が、フグの霊を供養するために、昭和40年(1965)に建立した石碑です。上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にあります。「幾千萬のふぐの霊に満腔の感謝をささげ、今後絶對安心してふぐを召し上がられることを祈念し茲に別記會員有志の協力によってふぐ供養碑を建立した所以であります」と刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 永久寺は江戸五色不動(えどごしきふどう)の一つ、目黄不動として知られています。開創は14世紀の南北朝騒乱の頃とされます。その後の歴史の流れの中でいくたびか戦乱などによって焼失し、 再建を繰り返してきました。 一歩山門を入りますと樹齢一千年を越える松の木が、 御仏と共に訪れる人を静かに迎えています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 岡崎屋勘六は江戸末期の書家・勘亭流の祖で、勘亭流とは江戸歌舞伎の看板、番付、台本などに使われる特殊な書体のことです。安永8年(1779)、江戸中村座の依頼を受け、春狂言の大名題を書きました。これが歌舞伎文字勘亭流の始まりとされます。現在もこの伝統は継承され歌舞伎看板などで使われています。 お墓は清光寺(せいこうじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 初代柄井川柳は、川柳の創始者です。川柳は江戸時代の前句付の点者で、川柳撰集である「柳多留」の編纂でも有名です。その墓は龍宝寺(りゅうほうじ)にあり、別名「川柳寺」とも呼ばれます。龍宝寺は上野の寛永寺を開山した天海大僧正の法兄にあたる豪海大僧正が開山した天台宗寺院で、不動明王の梵字を刻んだ板碑が境内に残っています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 大雄寺のクスノキは、大雄寺境内にある巨木で都内で一番大きいクスノキといわれています。幹回り6.2m、樹高13m、枝張12mで推定樹齢200~300年です。「都市の美観風致を維持するための樹木の保存に関する法律」に基づく都知事指定樹であり、「台東区みどりの条例」保護樹木です。
    谷中エリア
  • 鳥塚は、弁天堂のほぼ裏側に位置する大きな塚です。この鳥塚は東京都内に店舗を有する食鳥肉の販売業者が組織している東京食鳥鶏卵商業協同組合及び東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合の組合員有志が生活の糧であり子孫の繁栄に寄与する諸鳥類の霊魂を永久に慰めるために昭和37年(1962)に建立されました。
    上野・御徒町エリア
  • 島田虎之助、直心影流島田派の剣客。幼少より中津藩剣術師範堀十郎左衛門の道場で学び、上達が早く16歳の頃には九州一円を武者修行し名声をあげました。浅草新堀で道場を開き、そこには勝麟太郎(のちの海舟)も通いました。虎之助は幕末の剣豪といわれましたが、嘉永5年(1852)に病没しました。お墓は正定寺(しょうじょうじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア 浅草中央部エリア
  • 白鬚橋は隅田川にかかる橋で、橋名は東岸にある「白鬚神社」にちなんでいます。創架は大正3年(1914)で近在の人々が基金を募り完成した木橋でした。現在の橋は、昭和6年(1931)に竣工し、橋長は168m、幅員は22mのアーチ形式です。
    奥浅草エリア
  • KIWAYAウクレレミュージアムは、ウクレレ文化の保存と継承を目的に平成16年(2004)にKIWAYA社屋に創設されたミュージアムです。正式名称はウクレレミュージアム「樂」です。古今東西の歴史的なウクレレから珍しいウクレレまでを所蔵・展示しています。
    浅草中央部エリア
  • 幕末から明治初期にかけての大名・政治家で宇和島藩8代藩主伊達宗城の墓は谷中霊園にあります。宗城は藩政の重点を富国強兵・殖産興業策をとり、蝋の専売制、藩兵の洋式訓練等を実施し、藩権力の強化に成功しました。将軍継承問題では松平慶永、島津斉彬、山内豊信の諸侯と共に慶喜を擁立し(幕末の四賢候といわれます)幕政改革を志す一橋派の有力メンバーとなって活躍しました。
    谷中エリア
  • 姥ヶ池は、隅田川に通じる大池で明治24年(1891)に埋め立てられました。「昔、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって石の下敷きになって死に、それを悲しみ悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げた」という言い伝えにより、「姥ヶ池」と呼ばれていました。その碑は花川戸公園内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 幕末の勤王家である蒲生君平の墓は臨江寺(りんこうじ)にあり、国史跡に指定されています。君平は幼児期から学問に励み、寛政の末期、諸国の天皇陵を歩き、享和元年(1801)に「三陵志」を著しました。これは幕末の尊皇論の先駆をなすものとして知られています。文化10年(1813)に没し、高山彦三郎や林子平と共に「寛政三奇人」の一人にあげられています。
    谷中エリア
  • 室生其角は14、5才の頃に芭蕉に入門し、早くから頭角をあらわしたといわれ、蕉門十哲の第一人者とされる俳人です。芭蕉の死後、次第に蕉風をはなれ、清新華麗な独自の句風をなし、江戸俳壇の中心となりました。宝永4年(1707)に没しています。句碑は出山寺(しゅっさんじ)にあり、「草茎を つつむ葉もなき 雲間哉」と刻まれています。
    奥浅草エリア
  • 弘田龍太郎は、「春よ来い」や「叱られて」などで知られる大正時代から昭和初期の作曲家である弘田龍太郎の墓は全生庵(ぜんしょうあん)にあります。平成元年(1989)春、親族によって、龍太郎夫妻が眠る墓のかたわらに、「叱られて」(清水かつら作詞)の譜面と、作曲家松村禎三の撰文が浮き彫りされる碑が建立されました。
    谷中エリア
  • 川路聖謨トルは、幕末の外国奉行。奈良奉行、大阪奉行を歴任した後、外国奉行に就任し、下田で日露和親条約に調印したましが井伊大老と日米和親条約締結で対立により失脚しました。後に外国奉行に復権しましたが、慶応4(1868)年、江戸開城の報に接し、ピストルで自決しました。お墓は大正寺(たいしょうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 扇塚は、上野不忍池の弁天堂の少し手前の左側にある作家佐藤春夫氏の詩文で、扇の形をした碑です。初代花柳寿美の舞扇を納めて、昭和24年(1949)2月、6代目尾上菊五郎、二世花柳寿輔、花柳章太郎氏らの手によって建てられました。
    上野・御徒町エリア
  • 東京下町八社福参りは、 台東区内の鷲神社・今戸神社・第六天榊神社・下谷神社・小野照崎神社、中央区内の水天宮・小網神社・住吉神社の8つのお社をお参りして8つのお恵みを受けることです。正月七草までの年の始めに家族の開運・無事息災を祈り、お守を受けることで「八方除け、八方開き」にも通じます。
    根岸・入谷・金杉エリア 上野・御徒町エリア 奥浅草エリア
  • 日の出湯は、宮大工により、昭和初期に建てられた銭湯です。外観は破風造りの社寺仏閣の様ですが、店内は平成19年(2007)に全面リニューアルしています。高い天井、広くゆったりとした浴室は、マイナスイオンがいっぱいです。男湯からは庭を眺めることができ、女湯は風呂場のタイルに水槽がはめ込まれ、可愛い金魚が泳いでいます。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 背面地蔵は正保4年(1647)の創立で一丈三尺余りです。 その昔奥州街道の傍、 道路仏として西向きに立てられましたが、 後に明和元年 (1764) 道筋が寺の東側に改り、 地蔵尊を前向きに建て直したところ、 不思議な事に一夜のうちに元の向きになったと人々に伝えられて、 この尊称が起こったといわれています。薬王寺(やくおうじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 梅田雲浜は、幕末期の儒学者。小浜で朱子学を修め、大津、京都で子弟を教えますが、幕府を批判したため小浜藩を追放されました。高杉晋作らと交際し、尊皇攘夷を唱え、井伊直弼排斥も企てましたが、安政5年(1858)「安政の大獄」で捕らえられ、翌年(1859)小倉藩江戸邸の獄中で病没しました。お墓は海禅寺(かいぜんじ)にあります。
    浅草中央部エリア
  • 北村季吟は江戸時代前期の歌人・俳人で、祖父・父を継いで医学を業としていましたが、俳人安原貞室、松永貞徳の門に入り、和歌・俳諧を学び貞門派俳諧の新鋭といわれました。同門は松尾芭蕉らを輩出しました。元禄2年(1689)、幕府歌学所に補せられ、再昌院法印の称を受けました。お墓は正慶寺(しょうけいじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • いと塚は、三味線や琴などの芸事にはかかせない糸に対する感謝を表した塚で、不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 幕末期の蘭学・西洋医学者である伊東玄朴の墓は天龍院(てんりゅういん)にあります。玄朴は医学を志し、長崎の鳴滝塾でシーボルトよりオランダ医学を学びました。江戸で医者として開業後は、その腕が認められ、安政5年(1858)には幕府奥医師になり、蘭方医として種痘所(後の西洋医学所、現東京大学医学部)の開設などに尽力し、明治4年(1871)72歳で没しました。
    谷中エリア
  • こちらの三面大黒天は、創建した当初から安置されたもので、弘法大師の作と伝えられています。正面に大黒天、向かって右は弁財天、左が毘沙門天、後部は宝珠形光背を付けているユニークで徳のあるご尊像です。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 横山大観顕彰碑は、横山大観記念館入口脇にあります。近代日本画壇の巨匠である横山大観は、明治26年(1894)に東京美術学校卒業、終生校長岡倉天心を敬愛し、東洋の理想を受け継ぎながら、新しい日本画風を創造しました。碑は昭和43年(1968)に東京百年を記念してこの地に建てられました。
    上野・御徒町エリア
  • 乾山窯元之碑は入谷鬼子母神(真源寺)側の交差点一郭にあります。隣には、「入谷朝顔発祥之碑」があります。琳派の創始者の画家・尾形光琳の弟で作陶が有名な尾形乾山が入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれました。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 駒形堂は、浅草寺のご本尊である観音像が、隅田川から引き上げられた地に建立されたお堂です。馬頭観音が祀られていることから「駒形」の地名の由緒ともなっています。現在の堂は平成15年(2003)に再建されたものです。ご本尊顕現の地のため、お堂周辺の十町余りの川筋は魚介殺生禁断となり、戒殺碑が建立されました。
    浅草中央部エリア
  • 昭和24年(1949)に国立図書館が文部省から国立国会図書館に移管されて成立した、国立国会図書館の支部図書館です。戦前の日本において唯一の国立図書館であった帝国図書館の後身で、上野公園に林立する文化施設の一つとして親しまれてきましたが、現在は国際子ども図書館へと改装開館しました。
    上野・御徒町エリア
  • 彰義隊戦死者碑は、明治新政府に反抗して討滅された彰義隊の戦死者を供養するために明治15年(1882)に建てられました。上野恩賜公園内の西郷隆盛像の裏手にあります。墓石には旧幕臣山岡鉄舟の筆によって「戦死之墓」とのみ記され、「彰義隊」の文字はありません。
    上野・御徒町エリア
  • 日本初の私鉄である日本鉄道が、上野-熊谷間の第一区線開業時に合わせて、山下町に東京方の起点駅として明治16年(1883)に開業した歴史ある駅です。現在、北関東と東京を結ぶJR各線と東京メトロ各線、また東北、上・信越方面の各新幹線、その他在来線各線が発着するなど、東京の「北の玄関口」として機能しています。
    上野・御徒町エリア
  • 浄厳律師は江戸時代の真言宗を代表する高僧の一人です。5代将軍徳川綱吉の帰依を受け、招請によって霊雲寺(文京区湯島)の祖となりました。上州馬庭念流18代当主剣豪樋口定伊は神田下谷に道場を構え、門弟は1万人を数えたといわれます。水戸藩徳川斉昭に見込まれ剣術の教授し、天留の術を創案しました。お墓は妙極院(みょうごくいん)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 真友の碑は、英語で書かれており、昭和51年(1976)に建立されました。この石碑は不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 明治6年(1873)、明治天皇は元勲三条実美の別邸対鴎荘に行幸し病床にあった三条実美を見舞われました。御見舞いの帰途、伊達宗城邸で御休息の際、隅田川の冬景色を賞せられた和歌「いつみてもあかぬ景色は隅田川 難美路の花は冬もさきつつ」をお詠みになりました。碑は今戸町の隅田公園内にあります。
    奥浅草エリア
  • 両大師は、江戸時代正保元年(1644)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立されました。天海僧正と天海が最も尊敬した平安時代の高僧慈恵大師の二大師を祀ることから「両大師」と呼ばれるようになりましたが、正式には「寛永寺開山堂」といいます。堂内にある天海僧正坐像は有形文化財に指定されています。
    上野・御徒町エリア
  • 1917(大正6)年に日本で最初の駅伝「東海道五十三次駅伝徒歩競争」京都~東京間の508㎞23区間で開催されました。スタートは京都の三条大橋で、ゴールは上野の不忍池で開かれていた博覧会場の正面玄関でした。
    上野・御徒町エリア
  • 岡倉天心宅跡は、旧宅跡であり日本美術院のあった場所で現在、岡倉天心記念公園になっています。 岡倉天心は東京大学在学中から日本美術の恩人フェノロサの感化を受け、日本の伝統美術復興に努力し、日本の近代美術の先駆者となりました。明治31(1898)に日本美術院を創設し、横山大観をはじめ優れた画家を世に送り出しました。
    谷中エリア
  • 下村観山は、現代日本美術の発展に寄与した画家です。観山は幼少から絵を好み、東京美術学校(東京芸術大学)に学び、卒業後、同校助教授となりました。岡倉天心の日本美術院創立に参加し、横山大観らと活躍、昭和5年(1930)に没しました。歴史を題材としたものを得意とし、「弱法師」は代表作です。お墓は安立寺(あんりゅうじ)にあります。
    谷中エリア
  • 笠森稲荷の本尊は、現在の天王寺の境内にあった養寿院末寺福泉院に祀られていました。明治3年(1870)にこの寺が廃寺になり、現在は江戸百観音の札所として信仰を集めていた養寿院に遷つされています。
    上野・御徒町エリア
  • 宮戸座は明治29年(1896)に開場、座名は隅田川の古称「宮戸川」にちなんだといわれます。関東大震災で焼失後、昭和3年(1928)に再建され、昭和12年(1937)に廃座となりました。この舞台で修業し、のち名優になった人は多く、別名「出世小屋」ともいわれています。宮戸座跡之碑は昭和53年(1978)に建てられました。
    浅草中央部エリア

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