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該当件数320件
  • 岡倉天心記念公園は、横山大観らと日本美術院を創設し、日本の伝統美術の復興に努力した岡倉天心の邸宅兼、日本美術院跡に台東区が作った公園で、昭和42年(1967)に開園しました。約700平方mの小さな公園です。園内には岡倉天心を記念した六角堂が建ち、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されています。
    谷中エリア
  • 神田川にかかる浅草橋から、春日通り交差点までの江戸通りの両端には数多くの卸問屋が並んでいます。ここは、主に、おもちゃや工具材料などの卸問屋街として、発展を遂げてきました。現在では、ビーズ、装飾品、手芸などのお店も加わって個性豊かな特色のある卸問屋街となっています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 「東京にオペラやバレエもできる本格的な音楽ホールを」という要望に応え、東京都が開都500年事業として建設し、昭和36年(1961)年に開館しました。大ホールと小ホールからなり、バックステージの広さなどのゆとりある造りは貴重で、海外の有名歌劇場が来日した際の公演に使用されることが多いホールです。
    上野・御徒町エリア
  • 台東区立一葉記念館は、昭和36年(1961)に我が国初の女流作家の単独文学館として開館しました。一葉直筆の「たけくらべ」未定稿、下谷龍泉寺町で荒物駄菓子屋を営んでいた当時の仕入帳などの貴重な資料をはじめ、一葉が住んでいた頃の家並みや一葉旧宅の模型も所蔵・展示しています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 人形の街のはじまりは、正徳元年(1711)吉徳初代、三河出身の次郎兵衛が開いた人形の店で、陳列や販売方法の工夫など、たくましい商魂で一大問屋街を作り上げました。以来、東京の人形問屋の約70%以上がこの浅草橋界隈に集まりました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 明治13年(1880)に竣工された都内に現存する最古のレンガ建築です。この建物は、教育博物館の書籍庫として建てられたもので、耐火を重視し、すべての開口部に鉄扉を付設するなどの不燃性を重視した造りとなっています。築124年を迎えた平成22年(2010年)に耐震改修事業の一環により全面改修が施されました。
    上野・御徒町エリア
  • 神田川に架かる浅草橋は、江戸時代には浅草見附があったところで、台東区側の橋のたもとに「浅草見附跡」の碑が建っています。浅草見附が置かれたのは寛永13年(1636)、江戸城の警護のため36箇所に設けられた見附の一つで、枡形の門は「浅草御門」と呼ばれ、警護人を置いて浅草観音や遠くは奥州へ往来する人々を取り締まりました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • したまちミュージアム付設展示場は、明治43年に建てられ、昭和61年(1986)まで谷中6丁目で営業していた「吉田屋酒店」を移築した展示場です。前土間、揚戸の出入口など江戸商家の建築様式を伝える貴重な建物です。館内には、酒を量売りしていた時に使用した大きな棹秤、枡、樽や徳利、宣伝用ポスターなどの資料を展示しています。
    谷中エリア
  • 永昌寺は、江戸時代永禄元年(1558)に浅草の下谷に下谷長者が開創した寺です。寛永14年(1637)に現在の地に移りました。近辺は大名屋敷が多く、肥前藩主松浦壱岐守の妻、永昌院が開基となり、寺名に由来しています。明治15(1882)に嘉納治五郎がこの寺院の境内に柔道場「講道館」を設立しました。
    上野・御徒町エリア
  • 東京下町八社福参りは、 台東区内の鷲神社・今戸神社・第六天榊神社・下谷神社・小野照崎神社、中央区内の水天宮・小網神社・住吉神社の8つのお社をお参りして8つのお恵みを受けることです。正月七草までの年の始めに家族の開運・無事息災を祈り、お守を受けることで「八方除け、八方開き」にも通じます。
    根岸・入谷・金杉エリア 上野・御徒町エリア 奥浅草エリア
  • 市村座の定式幕は、「黒」「萌葱(緑)」「柿色」三色の引幕で、現在国立劇場が同じ定式幕を使用しています。猿若町では天保末期から明治にかけて1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(後の守田座)があり、芝居町を形成していました。江戸歌舞伎興隆の場となったこの地に昭和39年(1964)に跡碑が建てられました。
    奥浅草エリア
  • 太平洋戦争で犠牲となった動物や動物園で亡くなった動物の霊を慰めるための慰霊碑です。上野動物園内のゾウ園の向かいにあります。最初の慰霊碑は昭和6年(1931)に建立され、現在のものは50年(1975)に新たに建立されました。人工石には「動物よ安らかに」の碑文が刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 清廉度量、家庭円満の神様(布袋尊)が祀られている橋場不動尊。正式名を砂尾山橋場寺不動院といい、現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。
    760年、寂昇(じゃくしょう)上人によって開創されました。1845年に建立された本堂は、小堂ながら美しく簡素なたたずまいを残す江戸時代の建築様式です。明治の大火、関東大震災、第二次大戦の戦災でも周辺を災禍から守ったことから「火伏せの不動尊」とも呼ばれています。

    本堂の右前には、樹齢約700年の大銀杏が見事な枝葉を伸ばしています。その昔、すぐ近くを流れる隅田川を往来して参拝する人の目印となったのがこの銀杏で、今なおそのパワーを授かりに来る人も多いそうです。
    また、江戸時代から伝わる布袋尊像が祀られています。その姿は肩に袋がなくお腹が袋代わりの形をしている珍しいもので、古くから庶民に尊信されています。(御開帳期間 1月1日~7日)
    奥浅草エリア
  • 慶応4年(1868)の上野戦争によって荒れ果て、明治新政府が病院建設を決めていた上野の山を、近代的な公園にすべきと提言した長崎医学校教官でオランダ人医師ボードウィンの胸像です。昭和48(1973)年に建立されましたが、オランダ政府の資料の錯誤で平成18年(2006)に像を交換するまでは博士の弟の像でした。
    上野・御徒町エリア
  • 日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正13年(1924)に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。これをうけて昭和3年(1928)に竣工したのが黒田記念館です。岡田信一郎により設計され、現在は黒田記念室と特別室で黒田清輝の作品を展示しています。
    上野・御徒町エリア
  • 昭和通りの東側付近にある焼肉店やキムチを扱う韓国料理店・食材店が軒を連ねている都内で最も長い歴史を誇るコリアンタウンがあります。「キムチ横丁」の愛称で呼ばれています。その発祥は戦後間もない混乱期の昭和23年(1948)頃、現在の場所に焼肉店・精肉店・民族衣裳店等が集まったことに端を発しています。
    上野・御徒町エリア
  • 根岸御行の松は、江戸名所図会や広重の錦絵にも描かれています。江戸名松の一つに数えられ、根岸4丁目の西蔵院不動堂の境内にあります。この松は、樋口一葉の作品「琴の音」や子規の俳句の題材にもなりました。初代の松は樹齢350年を経た後枯れてしまい、現在は平成30年に植えられた4代目の松になります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 関東大震災では遊女をはじめ多くの人々が池に逃れ、490人が溺死する悲劇が起こりました。この観音さまは溺死した人々の供養のために大正15年(1926)に造立されたものです。
    奥浅草エリア
  • すしや通りという名称は、明治時代、雷門通りから六区に通ずる延長100mの通りに18軒もの寿司屋が連なったことに由来しています。昭和61年(1986)には、通りに全覆式アーケードやカラー舗装が施されました。
    浅草中央部エリア
  • 書道博物館は、洋画家であり書家でもあった中村不折により、昭和11年(1936)に開館されました。博物館には、亀甲獣骨文、青銅器、石碑、鏡鑑、拓本、経巻文書など不折が書道研究のために収集した、中国、日本の書道に関する古美術品、考古出土品など重要文化財12点、重要美術品5点を含む約16000点が収蔵されています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 吉原弁財天は、千束三丁目にある花園公園にあります。昭和10年吉原神社に合祀されたため、正確には神社ではありませんが、現在も鎮魂碑など多くの遺構を残しております。
    奥浅草エリア
  • 江戸幕府唯一の医学専門学校の医学館が清洲橋通り沿いにありました。明和2年(1765)、幕府奥医師多紀元孝が医師(漢方医)の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾躋寿館から出発、寛政3年(1791)に、幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし、医学館と改称、規模を拡大しました。文化3年(1806)、大火に遭い焼失しましたが、同年に旧向柳原一丁目に移転、再建されました。
    敷地は約7千平方メートル、代々多紀家がその監督に当たり、天保14年(1843)には寄宿舎を設けて全寮制とし、広く一般からも入学を許可し、子弟育成をはかるなど、江戸時代後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献しました。
    ※現在、この場所に「旧躋寿館跡 浅草医学館跡」に関する案内板や説明版等は設置されておりません。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 大雄寺のクスノキは、大雄寺境内にある巨木で都内で一番大きいクスノキといわれています。幹回り6.2m、樹高13m、枝張12mで推定樹齢200~300年です。「都市の美観風致を維持するための樹木の保存に関する法律」に基づく都知事指定樹であり、「台東区みどりの条例」保護樹木です。
    谷中エリア
  • 谷文晁は江戸後期文人画家で、狩野派、土佐派、文人画、西洋画など手法を研究し独自の画風を作りました。江戸文人画壇の重鎮となり、画業は上方の円山応挙、狩野探幽とともに「徳川時代の三大家」に数えられます。親交のある松平定信に乞われて近習となって諸国を随行しながら絵を描いたといわれています。お墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 幡随院長兵衛は、江戸初期の町奴で、肥前唐津の士族出身、幡随院の住職向導に私淑、浅草花川戸に住み、奉公人を周旋する口入れ業に従事していたといわれます。その時代町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、旗本奴も市中を乱していました。長兵衛は慶安3年(1650)に旗本奴頭領の騙し討で没しました。お墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 両大師は、江戸時代正保元年(1644)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立されました。天海僧正と天海が最も尊敬した平安時代の高僧慈恵大師の二大師を祀ることから「両大師」と呼ばれるようになりましたが、正式には「寛永寺開山堂」といいます。堂内にある天海僧正坐像は有形文化財に指定されています。
    上野・御徒町エリア
  • 旧東京音楽学校奏楽堂は、東京芸術大学にあった音楽ホールを昭和62年(1987)に移築・復原したものです。明治23年(1890)に創建された日本最古の洋式音楽ホールで、国の重要文化財に指定されています。2階にある音楽ホールは、かつて滝廉太郎、山田耕作、三浦環が公演した由緒ある舞台です。
    上野・御徒町エリア
  • 姥ヶ池は、隅田川に通じる大池で明治24年(1891)に埋め立てられました。「昔、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって石の下敷きになって死に、それを悲しみ悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げた」という言い伝えにより、「姥ヶ池」と呼ばれていました。その碑は花川戸公園内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 蔵前橋西詰めの下流側に石碑と若木が植えられています。初代「首尾の松」は、江戸時代安永年間(1772~80)風災で倒れ、その後も枯れたり焼失し、昭和37年(1962)これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者と共にこの橋際に碑を建設しました。現在の松は七代目といわれます。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 昭和8年(1933)に京成本線開通にあわせ、開業した駅です。ホームが短く4両編成の電車しか停車できないことによる乗降客の減少や、建物の老朽化のため、平成9年(1997)に営業休止となりました。駅事務室、ホームは地下にあり、ホームは電車の通過中に見ることができ、外観では入口にあたる建物を見ることができます。
    上野・御徒町エリア
  • 西町太郎稲荷神社は、立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として、現在地(万治年間(1658~61)に九州筑後柳川藩11万9600石の太守、立花左近将監の江戸中屋敷として設けられた邸跡地)に建立されたものです。諸々の祈願事を叶え、特に商売繁盛に御利益があると、厚く信仰されています。
    上野・御徒町エリア
  • 松尾芭蕉(1644~1694)の句碑は、江戸時代寛政8年(1796)、芭蕉の103回忌に、浅草寺弁天山の鐘楼の入り口に建立されました。この句碑、元は浅草寺本堂の銭塚地蔵の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。佐脇嵩雪が描いた芭蕉の座像が線刻してありますが、200年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっています。
    浅草中央部エリア
  • 妙亀塚は妙亀塚公園という小さな公園の中にある塚です。このあたりは謡曲「隅田川」で有名な妙亀尼とその子梅若丸の伝説の地で、小高い塚に板碑をはめ込んだ供養塔が立っており、都の旧跡に指定されています。妙亀塚は「梅若伝説」にちなんだ名称です。
    奥浅草エリア
  • 目黄不動は寛永年間(1624~1643)の中頃、三代将軍家光が天海大僧正の具申をうけ、江戸の鎮護と天下泰平を祈願して、5つの方角の不動尊を選んで割り当てた江戸五色不動(目白・目赤・目黒・目青・目黄)の一つです。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 御隠殿は輪王寺宮の別邸で、寛永時本坊で公務を執られていた宮が、時折り息抜きにこられた屋敷です。敷地は三千数百坪で、老松の林に囲まれた池を持つ優雅な庭園で、ここから眺める月が美しかったといわれます。慶応4年(1868)上野戦争によって焼失し、現在は全くその跡を留めていません。根岸薬師堂(ねぎしやくしどう)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 昭和43年(1968)に、嘉納治五郎没後30周年を記念して講道館が建立した石碑です。明治15年(1882)講道館の創始者嘉納治五郎が永昌寺(えいしょうじ)に下宿して友人や門弟らと稽古を始めたのが柔道の始まりといわれています。当時の建物は関東大震災で焼失しました。永昌寺は小説「姿三四郎」に登場する隆昌寺のモデルでもあります。
    上野・御徒町エリア
  • 聖天宮は、上野不忍池の弁天堂にあるお宮です。江戸時代後期の「江戸名所図会」には、弁天島の北には小島が描かれ、「聖天」と記されています。(「聖天宮 本社の北の方、小島に勧請す。此島は其始弁天の祠ありし旧地なり。其頃もこの聖天の宮ありしにや、今も地主の神と称せり」)
    上野・御徒町エリア
  • 浅間神社は、富士信仰が盛んであった江戸時代、富士参りができない人々の為に元禄年間(1688~1703)創建と推察されており、本殿の扉には明治維新頃の漆喰彫刻「下り龍」が残っています。富士山山開きの7月1日に例大祭、5・6月の最終土日の4日間に植木市が行われます。
    奥浅草エリア
  • 昭和52年(1977)にこけら落としされた浅草公会堂は、毎年1月の新春浅草歌舞伎などの演芸・演劇などの興業や、集会室や展示会などが催されます。客席1000席の大ホールには、浅草寺三社祭や広重の「江戸百景 浅草仲見世」の情景が描かれた鍛帳が雰囲気を創り上げています。
    浅草中央部エリア
  • 虫塚は、寛永寺境内にあります。伊勢長島藩主である増山雪斎の遺志で写生に使った虫類を供養した碑で、文政4年(1821)に建てられました。当初、寛永寺子院勧善院内にありましたが、昭和初期に現在地に移転しました。碑は自然石で、正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は、詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれています。
    上野・御徒町エリア

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