メニューを閉じる
該当件数319件
  • 旧東京音楽奏楽堂前の銅像です。作者は滝廉太郎と同郷の彫刻家朝倉文夫の手によるものです。滝は明治27年(1894)に東京音楽学校に入学、のちに研究科に進んで、ピアノ授業の嘱託となり音楽家として世に出ました。「荒城の月」などを作曲し、23歳の若さで夭折しました。郷里の大分県の岡城趾にも同じ像が置かれています。
    上野・御徒町エリア
  • 妙亀塚は妙亀塚公園という小さな公園の中にある塚です。このあたりは謡曲「隅田川」で有名な妙亀尼とその子梅若丸の伝説の地で、小高い塚に板碑をはめ込んだ供養塔が立っており、都の旧跡に指定されています。
    この妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていました。妙亀塚は「梅若伝説」にちなんだ名称です。「梅若伝説」とは平安時代、吉田少将惟房の子・梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、都から奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去りました。我が子を探し求めてはるばるこの地まで来た母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵を結んだ、という説話です。謡曲『隅田川』はこの伝説をもとにしています。
    塚の上には板碑が祀られています。この板碑には「弘安十一年戊子五月二十二日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものです。しかし妙亀塚と板碑との関係は、明らかではありません。
    なお、隅田川の対岸、木母寺(墨田区堤通)境内には梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)があり、この妙亀塚と相対するものと考えられています。
    奥浅草エリア
  • 2019年に放送されたテレビアニメ「さらざんまい」において、かっぱ橋周辺や浅草地域を中心に台東区内の風景が細かく描かれ、放送終了後も聖地として多くのアニメファンが来訪しています。当該ポストは、浅草郵便局や製作委員会、地元商店街等の協力のもと、観光振興を目的に設置されました。
    <「さらざんまい」監督の幾原邦彦氏のコメント>
    「実在する風景を舞台として制作したキャラクターたちが、このような形で地域の方々にも受け入れていただけて大変嬉しいです。聖地巡礼のシンボルとしていただければスタッフ一同、幸いです。」

    設置年月日:令和3年3月10日
    浅草中央部エリア
  • 昭和通りの東側付近にある焼肉店やキムチを扱う韓国料理店・食材店が軒を連ねている都内で最も長い歴史を誇るコリアンタウンがあります。「キムチ横丁」の愛称で呼ばれています。その発祥は戦後間もない混乱期の昭和23年(1948)頃、現在の場所に焼肉店・精肉店・民族衣裳店等が集まったことに端を発しています。
    上野・御徒町エリア
  • 下谷七福神詣りは比較的新しい七福神詣りで、それまでは個々に御開帳日を定め行われいていたものを昭和52年(1977)から七社寺そろって御開帳日を定め、七福神めぐりが始められました。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 袋物参考館は、世界50ヶ国にも及ぶ民族の生活用具としてのバッグなど、およそ3000点を収集所蔵している参考館です。江戸時代の煙草入れや印籠、北欧のトナカイ皮革のバッグなど約300点を所蔵品の中から選び、常設展示しています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 2019年に放送されたテレビアニメ「さらざんまい」において、かっぱ橋周辺や浅草地域を中心に台東区内の風景が細かく描かれ、放送終了後も聖地として多くのアニメファンが来訪しています。このマンホール蓋は、東京都下水道局や製作委員会、地元商店街等の協力のもと、観光振興を目的に設置されました。
    描かれているのは、主人公である矢逆一稀、久慈悠、陣内燕太の3人が、かっぱ橋に封印されていた謎のカッパ型生命体“ケッピ”によって河童の姿に変身させられた姿です。

    設置年月日:令和3年4月13日
    浅草中央部エリア
  • 元三島神社の起源は、弘安の役(蒙古襲来1281年)にさかのぼります。勇将河野通有は愛媛県大三島の大山~神社に必勝祈願し出陣。武功を挙げ帰陣したところ、夢の中に神のお告げを得て大山~神の分霊を観請して上野山内に鎮座したことが始まりです。元三島神社は徳川幕府から社領を受けますが、御用地となったために上野から浅草へ移転し、現在の地に至ります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 三崎坂は、谷中2丁目と3丁目の間を南東に上り、坂下で団子坂と向き合う坂です。この坂がある三崎町は三遊亭円朝の「怪談牡丹燈籠」の舞台にもなりました。右も左も寺ばかりで首を振り振り上り下りしたという説などから別名を首振り坂ともいいます。谷中の中央を東西に貫くメインストリートです。
    谷中エリア
  • 宝泉湯はサウナと日替り薬湯が人気の銭湯です。熱帯魚の水槽が目印となっています。浴室奥の主浴槽、深内に超音波気泡ジェット3連とブクブクの気泡湯、電気風呂があり、並びに、別室となったミストと薬風呂があります。ぬるめの湯の薬風呂、頭上から降りそそぐミストの細かい霧雨が気持ちいいと評判です。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 「セイコきもの文化財団」が、着物文化の普及向上を目的に平成2年(1990)に開設した美術館です。着物に関する資料の収集・調査研究を行い、江戸時代から明治・大正時代の着物や歌舞伎の舞台衣装など企画展示を行っていました。平成18年(2006)に休館となりましたが、着物に関する調査研究等は引き続き本財団で行っています。
    平成18年(2006)に休館
    上野・御徒町エリア
  • 浅草東洋館は、都内で唯一の「いろもの」を主とした寄席を開催している演芸場です。「いろもの」とは、漫才、漫談、コント、マジック、紙切り、曲芸など、落語以外の演芸の事です。テレビなどでお馴染みの出演者も登場いたします。
    浅草中央部エリア
  • 漫画・アニメ作品「ブルーピリオド」は、主人公の高校生・矢口八虎が1枚の絵画との出会いをきっかけに美大受験を目指す青春物語を描いた作品であり、台東区の東京藝術大学をはじめ、上野恩賜公園や公園内の文化施設が舞台として登場します。
    区にゆかりのある本作品を通して、新たな観光スポット創出による誘客促進と区内観光客の回遊性向上を図るため、こちらのマンホール蓋を設置しました。

    設置年月日:令和4年3月1日
    上野・御徒町エリア 谷中エリア
  • 旧東京音楽学校奏楽堂は、東京芸術大学にあった音楽ホールを昭和62年(1987)に移築・復原したものです。明治23年(1890)に創建された日本最古の洋式音楽ホールで、国の重要文化財に指定されています。2階にある音楽ホールは、かつて滝廉太郎、山田耕作、三浦環が公演した由緒ある舞台です。
    上野・御徒町エリア
  • 昭和20年(1945)の「東京大空襲」の犠牲者を悼む慰霊碑で平成17年(2005)に海老名香葉子さん(故林家三平の夫人)によって上野恩賜公園内に建立されました。この塔は東京大空襲を忘れないため・同じ悲劇が起こらないよう、願いをこめて、大空襲で亡くなったご家族がモチーフになっている平和祈念母子像・時計塔です。
    上野・御徒町エリア
  • 甚内橋は鳥越川にかかっていた橋です。鳥越川は、不忍池から忍川をへて、三味線堀に落ち隅田川に注ぐ川で、今の蔵前通りと並行して流れていました。甚内橋跡は攅霊橋(浦島橋)から130mほど下流です。大きさは「長六間、両袖間壱間つゞ共一幅弐間」とあります。十字路の東南角には甚内橋跡の石碑があります。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 浅間神社は、富士信仰が盛んであった江戸時代、富士参りができない人々の為に元禄年間(1688~1703)創建と推察されており、本殿の扉には明治維新頃の漆喰彫刻「下り龍」が残っています。富士山山開きの7月1日に例大祭、5・6月の最終土日の4日間に植木市が行われます。
    奥浅草エリア
  • 江戸時代中期の儒学者・経世家である太宰春台の墓は天眼寺(てんげんじ)にあります。春台は17歳の時儒学者、中野撝謙に師事し、朱子学を学びました。「経済録」・「聖学問答」・「弁道書」・「三王外紀」など数十巻を著し、日本に「経済」という言葉を広めた人物でもあります。延享4年(1747)に没しました。
    谷中エリア
  • 創業90余年の伝統的木造銭湯です。日替わりの薬湯が人気で、地元の人々を長年にわたり癒してた「下町の銭湯」です。店内にはジャズ音楽が流れ、グレープフルーツの輪切りや生姜、吟醸酒を使った湯が提供されることもあるといいます。谷中散歩の途中に立ち寄る人も多いです。
    谷中エリア
  • 皮革産業資料館は、台東区の地場産業である皮革産業に関する製品や書籍、文献を収蔵・展示する資料館として昭和56年(1981)に開館しました。国内では唯一の皮革専門の資料館として貴重な存在です。展示品の中には元大関小錦の靴や長島茂雄氏のスパイクシューズなどもあります。
    奥浅草エリア
  • ねぎし三平堂は、林家三平の笑いの精神を受け継ぐ場所です。林家三平は落語家の名門に生まれながら、それまでの古典落語に飽き足らず、殻を大きく破った三平落語を創り上げました。自由闊達な話芸は、寄席だけにとどまらず、あらゆるメディアに進出し、神風タレント第一号、昭和の爆笑王として、いつまでも日本人の心に残っています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 延命長寿、諸病平癒の神様が祀られている石浜神社は、東に隅田の大川、西に霊峰富士、北に名山筑波といった名勝に恵まれ、「江戸名所図会」などにも大きく納められ、「神明さん」の通称のもと、市民の間にその名を馳せました。石浜神社に祀られている寿老人像は、浅草名所七福神の復活に際し、延命長寿の神として奉安されたものです。
    奥浅草エリア
  • 江戸時代、谷中には大円寺と福泉院に二つの笠森稲荷がありました。福泉院前の鍵屋という水茶屋にいたのが江戸で評判の美人お仙です。幕末の上野戦争で福泉院焼失し廃寺になり笠森稲荷は寛永寺の子院養寿院に移転しました。のち、明治26年に福泉院跡に建立されたのが功徳林寺(くどくりんじ)で、明治末期には稲荷社が祀られました。
    谷中エリア
  • 源空寺は、浄土宗の寺で、天正18年(1590)円誉上人が湯島に開山し、明暦3年(1657)の大火で浅草に移転しました。湯島の草庵で多くの信者を集めて、徳川家康も円誉に帰依し江戸城に召して法を聞いていたといわれています。慶長9年(1604)に家康は、寺地と法然上人源空の名にちなんだ源空寺の号を円誉に与えました。
    上野・御徒町エリア
  • 太平洋戦争で犠牲となった動物や動物園で亡くなった動物の霊を慰めるための慰霊碑です。上野動物園内のゾウ園の向かいにあります。最初の慰霊碑は昭和6年(1931)に建立され、現在のものは50年(1975)に新たに建立されました。人工石には「動物よ安らかに」の碑文が刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • スターの広場は、浅草公会堂の正面入口前にある広場です。広場には、大衆芸能の分野で多くの人々に愛され親しまれた浅草ゆかりの俳優、落語家、歌手など約300名を超える芸能人の方々の原寸大手型とサインを刻印したプレートがスターの広場、オレンジ通り沿いの花壇に並べられ、多くのファンに親しまれています。
    浅草中央部エリア
  • 姥ヶ池は、隅田川に通じる大池で明治24年(1891)に埋め立てられました。「昔、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって石の下敷きになって死に、それを悲しみ悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げた」という言い伝えにより、「姥ヶ池」と呼ばれていました。その碑は花川戸公園内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 硯の資料室は、中国硯の研究に力を注ぐ楠文夫氏が蒐集した硯・石印・水滴等を展示した資料室です。中国では「硯は文人の魂」といわれ愛用されてきました。この中国四大名硯といわれる硯等300点以上が展示され、手にとって観賞することができます。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 川路聖謨トルは、幕末の外国奉行。奈良奉行、大阪奉行を歴任した後、外国奉行に就任し、下田で日露和親条約に調印したましが井伊大老と日米和親条約締結で対立により失脚しました。後に外国奉行に復権しましたが、慶応4(1868)年、江戸開城の報に接し、ピストルで自決しました。お墓は大正寺(たいしょうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 浅草迷子しらせ石標は、江戸時代安政7年(1860)の復元として、昭和32年(1957)に浅草寺本道前に建立されました。石標は当時、迷子や尋ね人の掲示板の役割を果たしていました。また、安政の大地震による吉原楼閣の犠牲者の慰霊碑でもあります。
    浅草中央部エリア
  • 不忍池由来碑は、上野恩賜公園の弁財天入口近くにある石碑で、昭和41年(1966)に建立されました。上野台地と本郷台地の間を忍ヶ丘と呼ばれていたことに由来しているといわれています。この地域は、古くは海で、海岸線の後退で沼のようになったのは平安時代といわれています。
    上野・御徒町エリア
  • 築地塀は、観音寺(かんのんじ)境内の南面を画する延長37.6mのいわゆる練り塀で江戸時代に築造された土塀です。土と瓦を交互に積み重ねて作った土塀に屋根瓦をふいた珍しいものです。人通りが絶えると、まるで江戸時代にタイムスリップしたような気分になります。平成4年(1992)に「台東区まちかど賞」を受賞しました。
    谷中エリア
  • 「東京にオペラやバレエもできる本格的な音楽ホールを」という要望に応え、東京都が開都500年事業として建設し、昭和36年(1961)年に開館しました。大ホールと小ホールからなり、バックステージの広さなどのゆとりある造りは貴重で、海外の有名歌劇場が来日した際の公演に使用されることが多いホールです。
    上野・御徒町エリア
  • 寿永寺は寛永7年(1630)建立で、寿永法尼が徳川二代将軍秀忠公の菩提を葬うため、この地に庵室を営んだことに起源しています。また、放生会という動物慰霊の文を発願し、布袋尊を勧請して祀っています。幸福を授けるという布袋尊は、地域の人々に長く愛されています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 谷中では、秋になると「さくら通り」などあちらこちらで桜の木が色づき始めます。さらに、イチョウやモミジなど紅葉する木がさまざまあり、見事な風景を作り出します。また、谷中霊園の天王寺の横の道からJR日暮里駅の西口に下りる石段の坂は「紅葉坂」といい、周辺の紅葉がきれいだったためこのように命名されたという説があります。
    谷中エリア
  • 日の出湯は、宮大工により、昭和初期に建てられた銭湯です。外観は破風造りの社寺仏閣の様ですが、店内は平成19年(2007)に全面リニューアルしています。高い天井、広くゆったりとした浴室は、マイナスイオンがいっぱいです。男湯からは庭を眺めることができ、女湯は風呂場のタイルに水槽がはめ込まれ、可愛い金魚が泳いでいます。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 金杉通りは昭和初年に開通しました。旧道は上野山下から入谷口通りを経由、昭和通りと並行して東北に延び三ノ輪で昭和通りと合流します。この道を俗に「金杉通り」と呼びますが、昔はこの街道を奥州街道裏道と呼びました。金杉の地名は、鎌倉時代に金曽木彦三郎という人物の姓から、初めは金曽木、それが金杉に変わったものとされています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 谷文晁は江戸後期文人画家で、狩野派、土佐派、文人画、西洋画など手法を研究し独自の画風を作りました。江戸文人画壇の重鎮となり、画業は上方の円山応挙、狩野探幽とともに「徳川時代の三大家」に数えられます。親交のある松平定信に乞われて近習となって諸国を随行しながら絵を描いたといわれています。お墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 八万四千体地蔵は、浄名院(じょうみょういん)にある2万5千体を超えるたくさんの石地蔵菩薩像のことです。明治12年に、第38世妙運大和尚が仏恩に報い、衆生済度(迷い苦しんでいる人々を救い、悟りの境地に導くこと)のために、八万四千体の地蔵建立を発願されたことに始まります。「八万四千」とは仏法で無数の意味を示します。この石地蔵尊は全国各地にも造立されており、これまで約5万体の石地蔵尊が造立され、今も増え続けています。
    上野・御徒町エリア
  • 「東京ふぐ料理連盟」が、フグの霊を供養するために、昭和40年(1965)に建立した石碑です。上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にあります。「幾千萬のふぐの霊に満腔の感謝をささげ、今後絶對安心してふぐを召し上がられることを祈念し茲に別記會員有志の協力によってふぐ供養碑を建立した所以であります」と刻まれています。
    上野・御徒町エリア

当サイトでは、利便性の向上と利用状況の解析、広告配信のためにCookieを使用しています。
サイトを閲覧いただく際には、Cookieの使用に同意いただく必要があります。
詳細はこのサイトについてをご確認ください。