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該当件数319件
  • 徳川家霊廟は、江戸幕府の将軍職を務めた徳川将軍家歴代の墓所のことで、東京の寛永寺、増上寺、日光の輪王寺にあります。上野寛永寺墓地には、徳川将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っています。厳有院(家綱)霊廟と常憲院(綱吉)霊廟の建築物群は、昭和20年(1945)の空襲で大部分を焼失しました。
    上野・御徒町エリア
  • 上野恩賜公園内の竹の台噴水東側にある銅像で、昭和26年(1951)に福島県出身の玉應不三雄によって建立されました。高さ4.5m(石台を含む)の全身立像です。英世は福島の貧農に生まれ、北里柴三郎博士に師事し、ロックフェラー研究所に入り、梅毒の病原体を発見、アフリカで黄熱病の研究中感染して、死去しました。
    上野・御徒町エリア
  • 祈る者に十種福を授ける仏様が祀られている天王寺は鎌倉時代の創建といわれ、都内有数の古寺です。江戸時代には「富くじ」興行があり、目黒の滝泉寺、湯島天神と共に江戸三富と呼ばれて賑わいました。幸田露伴の「五重塔」のモデルとなった天王寺五重塔は昭和32年(1957)に焼失しましたが、その跡地は今も谷中霊園に残っています。
    谷中エリア
  • 桜橋 は、台東区今戸と 墨田区向島との間で、隅田川両岸の 「隅田公園」 を結ぶ歩行者専用橋です。橋の創架は昭和60年(1985)、「隅田公園」 の施設の一つとして台東区と墨田区の共同事業で架橋されました。「隅田川」 では最初のそして唯一の歩行者専用橋です。
    奥浅草エリア
  • 伝法院通りは、仲見世通りと六区興行街を結び、浅草通りの裏通り道として早くから賑わってきました。つくばエクスプレス開業時には来街者を引き込み、街に回遊性を持たせるため、伝法院通り江戸まちづくり景観整備事業と銘打って、正面外観の改修や統一看板の設置など、江戸情緒あふれる街並みを再現する景観整備を進めてきました。
    浅草中央部エリア
  • 水上バスやクルーザーで隅田川や東京湾のクルージングが楽しめる「東京都観光汽船」。浅草の乗船場からは、浜離宮・お台場海浜公園・豊洲・日の出桟橋へ行くルートなど、東京観光に便利な便が多数出航しています。また、東京スカイツリーをバックに綺麗な写真が撮れるスポットなどを巡る約30分の「浅草周遊コース」も。初日の出やお花見、隅田川花火大会、クリスマスなどのイベント時は、いつもと違う目線から東京の景色を堪能できるイベントクルーズも企画されています。
    漫画・アニメ界の巨匠、松本零士氏が宇宙船をイメージしてデザインした船や、約300人が乗船可能なアメリカンな大型船など多種多様な船体も魅力。目的や人数にあわせてコースや時間帯を選べるチャータークルーズも行われています。
    浅草中央部エリア
  • 年始に七福神(恵比寿、大黒、毘沙門、弁財、布袋、福禄寿、寿老人)を祀る神社仏閣を参詣し、一年の平穏を祈る正月行事。江戸時代末期に始まり戦後は中断していましたが、1977年に復活し今日に受け継がれ親しまれています。

    浅草名所七福神の特徴は福禄寿、寿老人が2社ずつあり、巡る社寺が9ヶ所あるところ。九は数の究み、鳩と言う字にも使われていて、鳩は「集まる」という縁起の良い意味を持つ故事に由来しているそうです。福笹に各社寺の福絵馬をつけ、色紙・福絵に御朱印をいただきながら巡拝しましょう。

    江戸文化発祥の地といわれる浅草には、観音様の境内を中心として広く各所に名所・旧跡があります。七福神をめぐる途中、これらの名跡も訪ねながら江戸文化の面影を偲んでみてはいかがでしょうか。
    御利益にあやかりながらの散策は、福徳と心の安らぎを与えてくれることでしょう。
    浅草中央部エリア 奥浅草エリア
  • 川沿いの散策が心地よい「隅田公園」は、江戸時代から桜の名所として知られる人気スポット。吾妻橋から桜橋まで川の両堤沿いに広がる桜は約1km続いており、その美しさから日本さくら名所百選に選定されています。
    東京スカイツリーとの共演も見逃せません。風のない日は川の水面に映った「逆さスカイツリー」と桜のコラボレーションも楽しめます。シーズン中は夜桜がライトアップされ、日中とは異なる幻想的な雰囲気に包まれるのも魅力のひとつ。屋形船や水上バスも運航しているので、いつもと違った目線のお花見もおすすめです。
    浅草中央部エリア
  • 台東区立一葉記念館は、昭和36年(1961)に我が国初の女流作家の単独文学館として開館しました。一葉直筆の「たけくらべ」未定稿、下谷龍泉寺町で荒物駄菓子屋を営んでいた当時の仕入帳などの貴重な資料をはじめ、一葉が住んでいた頃の家並みや一葉旧宅の模型も所蔵・展示しています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 2019年に放送されたテレビアニメ「さらざんまい」において、かっぱ橋周辺や浅草地域を中心に台東区内の風景が細かく描かれ、放送終了後も聖地として多くのアニメファンが来訪しています。当該ポストは、浅草郵便局や製作委員会、地元商店街等の協力のもと、観光振興を目的に設置されました。
    <「さらざんまい」監督の幾原邦彦氏のコメント>
    「実在する風景を舞台として制作したキャラクターたちが、このような形で地域の方々にも受け入れていただけて大変嬉しいです。聖地巡礼のシンボルとしていただければスタッフ一同、幸いです。」

    設置年月日:令和3年3月10日
    浅草中央部エリア
  • 曹源寺(かっぱ寺)は、江戸時代には大雨のたびに掘割の溢れた水に苦しむ住民のために雨合羽商の喜八は私財を投じて水はけ工事を行い、これを河童が手伝って瞬く間に完成させたといわれています。この噂が広まり「かっぱ寺」とも呼ばれ、特に水に縁のある商売人から信仰されています。
    浅草中央部エリア
  • 有富蓄財、有徳、財宝、五穀豊穣の神様が祀られている護国院は、天海僧正の弟子の生順が釈迦堂の別当寺として寛永年間(1624-1644)初期に創立した寺で、当時は現在の東京国立博物館右手裏に位置していました。こちらの大黒天画像は徳川三代将軍家光公が贈ったものと伝えられています。御前立の大黒天木像は台東区文化財に指定されています。
    谷中エリア
  • 国立国会図書館法に基づく国内唯一の国立の児童書専門図書館として、平成12年(2000)に開館しました。国内外の豊富な資料と情報資源を活用し、子どもの本に関わる活動や調査研究を支援しています。また、子どもと本のふれあいの場としての役割も担っている図書館です。
    レンガ棟は、明治39年(1906)に建てられた帝国図書館の建物を保存・再利用しています。
    上野・御徒町エリア
  • 芸道富有、子孫繁栄の神様が祀られている天海僧正は、比叡山延暦寺にならって上野の山に寛永寺を創建しました。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島にならって、水谷伊勢守勝隆が池に中ノ島(弁天島)を築き、寛永中期(1630年代)に弁天堂を建立しました。当初、小舟を渡して参拝していましたが、後に橋が架けられました。
    上野・御徒町エリア
  • 花やしき通りは、浅草寺境内と六区興行街を結んでいます。最盛期の大正末期から昭和初期には花やしきを軸に、西に凌雲閣、南にはひょうたん池があり、終日遊山客の往来で賑わいました。大正7年には沿道に露店が許可され、現在でも衣裳屋や用品店、飲食店が多く、浅草寺境内まで趣のある町並みが続いています。
    浅草中央部エリア
  • 白鬚橋は隅田川にかかる橋で、橋名は東岸にある「白鬚神社」にちなんでいます。創架は大正3年(1914)で近在の人々が基金を募り完成した木橋でした。現在の橋は、昭和6年(1931)に竣工し、橋長は168m、幅員は22mのアーチ形式です。
    奥浅草エリア
  • 日暮里駅北口から御殿坂を上っていくと下る階段があります。階段から眺める夕日が美しいことから名付けられました。
    谷中エリア
  • 花川戸靴・はきもの問屋街は、江戸通り沿いに、靴や鞄など革製品を取り扱っている店70店余りが軒を連ねて立ち並んでいる問屋商店街です。
    浅草中央部エリア
  • 妙亀塚は妙亀塚公園という小さな公園の中にある塚です。このあたりは謡曲「隅田川」で有名な妙亀尼とその子梅若丸の伝説の地で、小高い塚に板碑をはめ込んだ供養塔が立っており、都の旧跡に指定されています。
    この妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていました。妙亀塚は「梅若伝説」にちなんだ名称です。「梅若伝説」とは平安時代、吉田少将惟房の子・梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、都から奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去りました。我が子を探し求めてはるばるこの地まで来た母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵を結んだ、という説話です。謡曲『隅田川』はこの伝説をもとにしています。
    塚の上には板碑が祀られています。この板碑には「弘安十一年戊子五月二十二日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものです。しかし妙亀塚と板碑との関係は、明らかではありません。
    なお、隅田川の対岸、木母寺(墨田区堤通)境内には梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)があり、この妙亀塚と相対するものと考えられています。
    奥浅草エリア
  • 正月行事の一つとして、七福神をまつる神社・仏閣を参詣する風習が起こり、それを七福神詣などと呼びました。谷中七福神詣りは江戸時代中期、宝暦年間(1751~1764年)に始まり盛んになった、江戸では最も古い七福神巡礼といわれています。谷中、上野など歴史的な建造物や寺・公園を通りながら、ゆっくりと一日散策が楽しめるコースになっています。
    上野・御徒町エリア 谷中エリア
  • 「セイコきもの文化財団」が、着物文化の普及向上を目的に平成2年(1990)に開設した美術館です。着物に関する資料の収集・調査研究を行い、江戸時代から明治・大正時代の着物や歌舞伎の舞台衣装など企画展示を行っていました。平成18年(2006)に休館となりましたが、着物に関する調査研究等は引き続き本財団で行っています。
    平成18年(2006)に休館
    上野・御徒町エリア
  • 東上野神仏具問屋街は、上野から浅草へ続く浅草通りにあります。別名「仏壇通り」といわれるほど、神仏具の専門店約60店舗が軒を連ねています。明暦3年(1657)の「明暦の大火」の後、徳川幕府により多くの寺院がこの周辺に集められたことで、仏壇・仏具などの職人が多く集まるようになりました。
    上野・御徒町エリア
  • 築地塀は、観音寺(かんのんじ)境内の南面を画する延長37.6mのいわゆる練り塀で江戸時代に築造された土塀です。土と瓦を交互に積み重ねて作った土塀に屋根瓦をふいた珍しいものです。人通りが絶えると、まるで江戸時代にタイムスリップしたような気分になります。平成4年(1992)に「台東区まちかど賞」を受賞しました。
    谷中エリア
  • 沖田総司終焉の地は、今戸神社とされ、境内には「沖田総司終焉之地」の碑があります。新選組隊士の永倉新八の「同志連名記」によると、江戸に引き上げた時、沖田総司の肺の病はかなり進んでおり、薩長軍の江戸入りに際して、総司を含む患者たちは今戸神社に収容されたとあります。
    奥浅草エリア
  • 伊能忠敬は、江戸時代の商人・測量家で、寛政12年(1800)から文化13年(1816)までの17年をかけて全国を測量して「大日本沿海輿地全図」を完成させました。歴史上はじめて国土の正確な姿を明らかにし、初めて金星の子午線経過を観測した人物です。「東河伊能先生之墓」と記された墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 清廉度量、家庭円満の神様(布袋尊)が祀られている橋場不動尊。正式名を砂尾山橋場寺不動院といい、現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。
    760年、寂昇(じゃくしょう)上人によって開創されました。1845年に建立された本堂は、小堂ながら美しく簡素なたたずまいを残す江戸時代の建築様式です。明治の大火、関東大震災、第二次大戦の戦災でも周辺を災禍から守ったことから「火伏せの不動尊」とも呼ばれています。

    本堂の右前には、樹齢約700年の大銀杏が見事な枝葉を伸ばしています。その昔、すぐ近くを流れる隅田川を往来して参拝する人の目印となったのがこの銀杏で、今なおそのパワーを授かりに来る人も多いそうです。
    また、江戸時代から伝わる布袋尊像が祀られています。その姿は肩に袋がなくお腹が袋代わりの形をしている珍しいもので、古くから庶民に尊信されています。(御開帳期間 1月1日~7日)
    奥浅草エリア
  • 浅草寺本堂の東に建つ朱塗りの鮮やかな二天門。当初は、境内にあった東照宮の随身門として建てられたと伝えられています。随身門とは、神社を守護する神さまを配置した門のこと。当時は、神道の神さまである豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)と櫛岩間戸命(くしいわまどのみこと)の守護神像が左右に祀られていました。
    しかし、1868年(明治元年)に明治政府が発令した神仏分離令により、仏教寺院である浅草寺には、この2柱の神さまの像を祀ることができなくなりました。そこで、浅草寺はこの2柱の像を浅草神社に遷座し、代わりに鎌倉の鶴岡八幡宮にあった仏教の守護神である広目天(こうもくてん)と持国天(じこくてん)の像を二天門に安置。これに伴い、正式名称が随身門から二天門に変更されました。
    その後、第二次世界大戦により2柱の像は焼失。現在は、上野の寛永寺(かんえいじ)の四代将軍徳川家綱霊廟にあった持国天と増長天(ぞうちょうてん)の像が祀られています。持国天と増長天は、四天王と呼ばれる仏さまとして知られていますが、四天王は仏教の守護神であることから武装した姿。どちらも、鎌倉時代以降に流行した複数の木材を組み合わせる技法「寄木造」により造られています。
    浅草中央部エリア
  • 日本画家・横山大観が50年間暮らした池之端の自宅兼画室及び庭園を、記念館として公開しています。建物と庭園は大観自身による設計で、貴重な文化財であることから、「横山大観旧宅及び庭園」として、国の史跡・名勝に指定されました。大観作品をそのまま床の間に掛けて展示しており、日本画本来の楽しみ方を体験できる貴重な空間です。
    上野・御徒町エリア
  • 浄名院は、寛文6年(1666)、上野寛永寺36坊のひとつとして開かれました。江戸時代の寺の隆盛の陰で不徳な僧も生まれたため、妙立和尚が不徳な僧を戒め、清い信仰を広めようと安楽律宗を開き、これを引き継いだ38世妙運大和尚が明治12年に五濁より民衆を救い仏恩に報いるために八万四千体の石地蔵建立を発願しました。現在では2万5千体を超える像が造立されています。
    谷中エリア
  • 天明2年(1782)に本物の溶岩を運んで築かれた、都内でも珍しい富士塚「下谷坂本富士」。
    富士山に誰もが行けるわけではなかった時代、その姿を伝えるべく作られた、直径約15m、高さ約6mのミニチュアの富士山が小野照崎神社の境内にあります。
    一合目から順に十合目まで記されており、南無妙法と書かれた石碑や修験道の開祖である役小角の像も残る等、神仏習合の名残が見て取れます。
    先人の山守りの知恵によって今も当時の荘厳な姿を残していて、国の重要有形民俗文化財に指定されています。
    富士山に合わせて、お山開きが行われ、6月30日と1日には富士塚に登ることができます。

    【Twitter】https://twitter.com/onoterupr
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 地下鉄浅草駅は、昭和2年(1927)に東洋初に地下鉄開業した浅草~上野間の始発駅として誕生しました。重厚な鋼鉄製の柱や地下鉄開業当時のレトロなポスター、駅構内の出入り口の上屋など社寺のような和風デザインは、昭和初期のならではのモダンなセンスがうかがえます。
    浅草中央部エリア
  • 徳川第5代将軍である綱吉公が、1693年に京都の石清水八幡宮を勧請して創建した神社。春には早咲きの桜(種類未詳、通称:藏前桜)とミモザを同時に見ることができる花見スポットとしても人気があります。

    江戸時代には勧進大相撲の開催地としても知られ、3大強豪力士の谷風、小野川、雷電などの名力士による幾多の名勝負が繰り広げられ大いに賑わいを見せました。また、御神輿は昭和の名工・志布景彩(しふけいさい)によるもので、その華麗さから御神輿として初めて意匠登録されています。

    創建当初の社号は「石清水八幡宮」でしたが、1951年に「藏前神社」へと改称しました。江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の一社として尊崇され、社地は200石の朱印地を賜り、江戸を代表する名社のひとつに数えられています。赤穂義士討ち入りの成功祈願や、落語の演目にある「元犬」ゆかりの神社としても知られるパワースポットです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 神田川にかかる浅草橋から、春日通り交差点までの江戸通りの両端には数多くの卸問屋が並んでいます。ここは、主に、おもちゃや工具材料などの卸問屋街として、発展を遂げてきました。現在では、ビーズ、装飾品、手芸などのお店も加わって個性豊かな特色のある卸問屋街となっています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 三崎坂は、谷中2丁目と3丁目の間を南東に上り、坂下で団子坂と向き合う坂です。この坂がある三崎町は三遊亭円朝の「怪談牡丹燈籠」の舞台にもなりました。右も左も寺ばかりで首を振り振り上り下りしたという説などから別名を首振り坂ともいいます。谷中の中央を東西に貫くメインストリートです。
    谷中エリア
  • 鳩ポッポの歌碑は、昭和37年(1962)に作詞の舞台となった浅草寺本堂の西側に建立されました。童謡「鳩ポッポ」は、作詞家である東くめ女史が、浅草寺の境内にて鳩と戯れている子供たちをみてこの歌詞を書き、滝蓮太郎により作曲されました。
    浅草中央部エリア
  • 下谷七福神詣りは比較的新しい七福神詣りで、それまでは個々に御開帳日を定め行われいていたものを昭和52年(1977)から七社寺そろって御開帳日を定め、七福神めぐりが始められました。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 浅草寺裏手にあります雷5656会館は、雷おこしの実際の製造を見学施設「浅草工房」と、ご自分で作ることができる「雷おこし製造体験」がございます。
    また、5階は「ときわホール」は発表会・催し物等の貸し会場として、4階は打合せなどでご利用いただける「貸しスペース」がございます。
    浅草中央部エリア
  • 書道博物館は、洋画家であり書家でもあった中村不折により、昭和11年(1936)に開館されました。博物館には、亀甲獣骨文、青銅器、石碑、鏡鑑、拓本、経巻文書など不折が書道研究のために収集した、中国、日本の書道に関する古美術品、考古出土品など重要文化財12点、重要美術品5点を含む約16000点が収蔵されています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正13年(1924)に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。これをうけて昭和3年(1928)に竣工したのが黒田記念館です。岡田信一郎により設計され、現在は黒田記念室と特別室で黒田清輝の作品を展示しています。
    上野・御徒町エリア
  • 旧東京音楽奏楽堂前の銅像です。作者は滝廉太郎と同郷の彫刻家朝倉文夫の手によるものです。滝は明治27年(1894)に東京音楽学校に入学、のちに研究科に進んで、ピアノ授業の嘱託となり音楽家として世に出ました。「荒城の月」などを作曲し、23歳の若さで夭折しました。郷里の大分県の岡城趾にも同じ像が置かれています。
    上野・御徒町エリア

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