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該当件数320件
  • 浅草ロック座は、浅草六区(明治期に七つの区画に整備された際に六番目に整備されたことに由来)にあります。昭和22年(1947)にストリップ劇場としてスタート。客席145席を有してメイン出演者とバックダンサーによる華やかなレビューショーが楽しめます。
    浅草中央部エリア
  • 八橋検校顕彰碑は、東京・上野不忍池の弁天堂境内にあります。八橋検校(1614-1685)は、生田流、山田流などの箏曲の祖と言われています。箏組歌13曲、段物3曲などを制定し、現在の箏曲の基礎を築きました。顕彰碑は昭和41年(1966)に建立されました。顕彰碑の下方には石造りの箏も置かれています。
    上野・御徒町エリア
  • 柳橋はの起源は江戸中期、当時は下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往来していましたが不便なため、元禄11年(1698)に建設されました。明治20年(1887)に鋼鉄橋になり、その後の関東大震災にて焼失したため、昭和4年(1929)に現在の橋が完成しました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • すしや通りという名称は、明治時代、雷門通りから六区に通ずる延長100mの通りに18軒もの寿司屋が連なったことに由来しています。昭和61年(1986)には、通りに全覆式アーケードやカラー舗装が施されました。
    浅草中央部エリア
  • 鳩ポッポの歌碑は、昭和37年(1962)に作詞の舞台となった浅草寺本堂の西側に建立されました。童謡「鳩ポッポ」は、作詞家である東くめ女史が、浅草寺の境内にて鳩と戯れている子供たちをみてこの歌詞を書き、滝蓮太郎により作曲されました。
    浅草中央部エリア
  • 根岸界隈のうち、旧日光街道沿い(金杉通り)は戦災で焼け残り、土蔵造りの商家が残っており、柳通りの裏路地には旧花街時代の建造物が所々に残っています。根岸の柳通りから来る道はかつて音無川が流れていた道です。柳通りには歩道の両側に柳が街路樹として植えられており、柳が密になるこの通りがかつて花街のあった界隈です。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 神田川に架かる浅草橋は、江戸時代には浅草見附があったところで、台東区側の橋のたもとに「浅草見附跡」の碑が建っています。浅草見附が置かれたのは寛永13年(1636)、江戸城の警護のため36箇所に設けられた見附の一つで、枡形の門は「浅草御門」と呼ばれ、警護人を置いて浅草観音や遠くは奥州へ往来する人々を取り締まりました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 昭和20年(1945)の「東京大空襲」の犠牲者を悼む慰霊碑で平成17年(2005)に海老名香葉子さん(故林家三平の夫人)によって上野恩賜公園内に建立されました。この塔は東京大空襲を忘れないため・同じ悲劇が起こらないよう、願いをこめて、大空襲で亡くなったご家族がモチーフになっている平和祈念母子像・時計塔です。
    上野・御徒町エリア
  • ねぎし三平堂は、林家三平の笑いの精神を受け継ぐ場所です。林家三平は落語家の名門に生まれながら、それまでの古典落語に飽き足らず、殻を大きく破った三平落語を創り上げました。自由闊達な話芸は、寄席だけにとどまらず、あらゆるメディアに進出し、神風タレント第一号、昭和の爆笑王として、いつまでも日本人の心に残っています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた山岡鉄舟と初代三遊亭圓朝の墓は、鉄舟が明治16年(1883)に建立した全生庵にあります。鉄舟は晩年、禅を修め道場としてこの寺を建てました。居噺で人気を博した円朝は禅を通じて鉄舟に師事し親交を深めました。円朝の墓石には、鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とあります。
    谷中エリア
  • 築地塀は、観音寺(かんのんじ)境内の南面を画する延長37.6mのいわゆる練り塀で江戸時代に築造された土塀です。土と瓦を交互に積み重ねて作った土塀に屋根瓦をふいた珍しいものです。人通りが絶えると、まるで江戸時代にタイムスリップしたような気分になります。平成4年(1992)に「台東区まちかど賞」を受賞しました。
    谷中エリア
  • 書道博物館は、洋画家であり書家でもあった中村不折により、昭和11年(1936)に開館されました。博物館には、亀甲獣骨文、青銅器、石碑、鏡鑑、拓本、経巻文書など不折が書道研究のために収集した、中国、日本の書道に関する古美術品、考古出土品など重要文化財12点、重要美術品5点を含む約16000点が収蔵されています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 浄名院は、寛文6年(1666)、上野寛永寺36坊のひとつとして開かれました。江戸時代の寺の隆盛の陰で不徳な僧も生まれたため、妙立和尚が不徳な僧を戒め、清い信仰を広めようと安楽律宗を開き、これを引き継いだ38世妙運大和尚が明治12年に五濁より民衆を救い仏恩に報いるために八万四千体の石地蔵建立を発願しました。現在では2万5千体を超える像が造立されています。
    谷中エリア
  • お化け地蔵は松吟寺(しょうぎんじ)にあります。「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、高さ3m余の並外れて大きいからなど、いくつかの伝承があります。石仏は享保6年(1721)の建立で、関東大震災で二つに折れましたが、補修して現在に至っています。常夜灯は、寛政2年(1790)に建てられました。
    奥浅草エリア
  • 吉原弁財天は、千束三丁目にある花園公園にあります。昭和10年吉原神社に合祀されたため、正確には神社ではありませんが、現在も鎮魂碑など多くの遺構を残しております。
    奥浅草エリア
  • 包丁塚は、上豊調理師会により建立されました。この石碑は、不忍池の中央にある弁天島にあり、弁天島には、その他ふぐ供養碑やめがねの碑などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • ノスタルジックな景観に惹かれ中に入ると、昔ながらの番頭さん。もう少し進むと、格子状の高い天井に、波打った形のタイル浴槽。どこか懐かしいあたたかな空間が広がります。
    早朝6時から営業しており、すべての浴槽で46度のお湯が提供されています。常連の方々を魅了するのは早朝のこの少し熱めの温度のお湯と昔ながらの懐かしさでしょうか。
    店頭の屋根瓦や格子型天井等も昭和から引き継がれてきている歴史あるものです。お立ち寄りの際は、有形文化財に指定されたその景観も、ぜひゆったりとご覧ください。
    上野・御徒町エリア
  • 太平洋戦争で犠牲となった動物や動物園で亡くなった動物の霊を慰めるための慰霊碑です。上野動物園内のゾウ園の向かいにあります。最初の慰霊碑は昭和6年(1931)に建立され、現在のものは50年(1975)に新たに建立されました。人工石には「動物よ安らかに」の碑文が刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 寿湯は、上野という都会にありながら銭湯という概念の常識を超えた様々なお風呂が楽しめ、露天風呂が自慢の銭湯です。お風呂の温度は40度から45度の3種の湯に設定してあり老若男女楽しめます。また男女ともにサウナも人気のお風呂になっております。
    上野・御徒町エリア
  • 有富蓄財、有徳、財宝、五穀豊穣の神様が祀られている護国院は、天海僧正の弟子の生順が釈迦堂の別当寺として寛永年間(1624-1644)初期に創立した寺で、当時は現在の東京国立博物館右手裏に位置していました。こちらの大黒天画像は徳川三代将軍家光公が贈ったものと伝えられています。御前立の大黒天木像は台東区文化財に指定されています。
    谷中エリア
  • スターの広場は、浅草公会堂の正面入口前にある広場です。広場には、大衆芸能の分野で多くの人々に愛され親しまれた浅草ゆかりの俳優、落語家、歌手など約300名を超える芸能人の方々の原寸大手型とサインを刻印したプレートがスターの広場、オレンジ通り沿いの花壇に並べられ、多くのファンに親しまれています。
    浅草中央部エリア
  • 江戸の下町を舞台にした「鬼平犯科帳」など、時代小説の傑作を多数発表した池波正太郎。日本を代表する時代小説作家の文学作品を後世に伝え、彼の功績を称えるために設立されたのが「池波正太郎記念文庫」です。
    館内には著作本や小説に関するさまざまな資料をはじめ、生前彼が愛用していた万年筆やパイプ、帽子などが展示されています。書斎も復元されており、池波正太郎をより身近に感じられるスポットです。また「池波グッズ」とよばれる、作品の舞台を紹介した古地図やポストカード、扇子など様々なグッズも必見。池波ファンにはたまらない空間となっています。
    浅草中央部エリア
  • 日本画家・横山大観が50年間暮らした池之端の自宅兼画室及び庭園を、記念館として公開しています。建物と庭園は大観自身による設計で、貴重な文化財であることから、「横山大観旧宅及び庭園」として、国の史跡・名勝に指定されました。大観作品をそのまま床の間に掛けて展示しており、日本画本来の楽しみ方を体験できる貴重な空間です。
    上野・御徒町エリア
  • 『美しい日本の歴史的風土100選』に選ばれた樹齢90年の谷中のシンボル的な大木です。
    谷中エリア
  • 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲の「花」の歌碑は、昭和31年(1956)、言問橋のたもとの隅田公園内に武島羽衣先生歌碑建設会によって建立されました。「花」の歌碑には、羽衣自筆の歌詞が刻まれています。うららかな春景色を彷彿とさせる美しいメロディーは、今なお多くの人々に親しまれ、歌いつがれています。
    奥浅草エリア
  • 昭和43年(1968)に、嘉納治五郎没後30周年を記念して講道館が建立した石碑です。明治15年(1882)講道館の創始者嘉納治五郎が永昌寺(えいしょうじ)に下宿して友人や門弟らと稽古を始めたのが柔道の始まりといわれています。当時の建物は関東大震災で焼失しました。永昌寺は小説「姿三四郎」に登場する隆昌寺のモデルでもあります。
    上野・御徒町エリア
  • 全生庵は、山岡鉄舟居士が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治16年(1883)に建立しました。また、居士との縁で落語家の三遊亭円朝の墓所があり、円朝遣愛の幽霊画五十幅、明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されています。
    谷中エリア
  • 花川戸靴・はきもの問屋街は、江戸通り沿いに、靴や鞄など革製品を取り扱っている店70店余りが軒を連ねて立ち並んでいる問屋商店街です。
    浅草中央部エリア
  • 東本願寺は、天正19年(1591)神田に開創され、明暦の大火(1657)で浅草に移転しました。江戸時代の様子は葛飾北斎の『富嶽三十六景』中の『東都浅草本願寺』等の浮世絵に登場します。現在の本堂は、関東大震災後に再建されました。御本尊の『阿弥陀如来立像』は四天王寺の心柱を使用し、嘉禄2年(1226)頃の作と伝わっています。また、梵鐘は寛永7年(1630)以後のものと推定され、都内に現存する梵鐘の中では有数の風格を誇り、毎年大晦日に除夜の鐘で一般開放します。(要予約)
    浅草中央部エリア
  • 延命長寿、諸病平癒の神様が祀られている石浜神社は、東に隅田の大川、西に霊峰富士、北に名山筑波といった名勝に恵まれ、「江戸名所図会」などにも大きく納められ、「神明さん」の通称のもと、市民の間にその名を馳せました。石浜神社に祀られている寿老人像は、浅草名所七福神の復活に際し、延命長寿の神として奉安されたものです。
    奥浅草エリア
  • 2019年に放送されたテレビアニメ「さらざんまい」において、かっぱ橋周辺や浅草地域を中心に台東区内の風景が細かく描かれ、放送終了後も聖地として多くのアニメファンが来訪しています。当該ポストは、浅草郵便局や製作委員会、地元商店街等の協力のもと、観光振興を目的に設置されました。
    <「さらざんまい」監督の幾原邦彦氏のコメント>
    「実在する風景を舞台として制作したキャラクターたちが、このような形で地域の方々にも受け入れていただけて大変嬉しいです。聖地巡礼のシンボルとしていただければスタッフ一同、幸いです。」

    設置年月日:令和3年3月10日
    浅草中央部エリア
  • 花やしき通りは、浅草寺境内と六区興行街を結んでいます。最盛期の大正末期から昭和初期には花やしきを軸に、西に凌雲閣、南にはひょうたん池があり、終日遊山客の往来で賑わいました。大正7年には沿道に露店が許可され、現在でも衣裳屋や用品店、飲食店が多く、浅草寺境内まで趣のある町並みが続いています。
    浅草中央部エリア
  • ジュエリータウンおかちまち(貴金属・宝飾店街)は、JR御徒町駅東側一帯にある400軒もの貴金属・宝石の卸問屋が集まっている日本有数のジュエリータウンです。全国の店に卸しているほか、個人が入れる店舗も多く、品揃えも豊富で市価より安く手に入れることができます。
    上野・御徒町エリア
  • 市村座の定式幕は、「黒」「萌葱(緑)」「柿色」三色の引幕で、現在国立劇場が同じ定式幕を使用しています。猿若町では天保末期から明治にかけて1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(後の守田座)があり、芝居町を形成していました。江戸歌舞伎興隆の場となったこの地に昭和39年(1964)に跡碑が建てられました。
    奥浅草エリア
  • 三崎坂は、谷中2丁目と3丁目の間を南東に上り、坂下で団子坂と向き合う坂です。この坂がある三崎町は三遊亭円朝の「怪談牡丹燈籠」の舞台にもなりました。右も左も寺ばかりで首を振り振り上り下りしたという説などから別名を首振り坂ともいいます。谷中の中央を東西に貫くメインストリートです。
    谷中エリア
  • 山谷は、荒川区と隣接した地域にあり数多くの簡易宿泊所があります。これは戦後、東京都によって被災者を仮の宿泊施設に集めたことが簡易宿泊所へとつながり、高度経済成長期の頃には日本有数の日雇労働者の滞在場所となりました。現在では、日雇労働者の高齢化や景気の低迷により、従来の労働者に代わって、外国人の利用が増えています。
    奥浅草エリア
  • 徳川第5代将軍である綱吉公が、1693年に京都の石清水八幡宮を勧請して創建した神社。春には早咲きの桜(種類未詳、通称:藏前桜)とミモザを同時に見ることができる花見スポットとしても人気があります。

    江戸時代には勧進大相撲の開催地としても知られ、3大強豪力士の谷風、小野川、雷電などの名力士による幾多の名勝負が繰り広げられ大いに賑わいを見せました。また、御神輿は昭和の名工・志布景彩(しふけいさい)によるもので、その華麗さから御神輿として初めて意匠登録されています。

    創建当初の社号は「石清水八幡宮」でしたが、1951年に「藏前神社」へと改称しました。江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の一社として尊崇され、社地は200石の朱印地を賜り、江戸を代表する名社のひとつに数えられています。赤穂義士討ち入りの成功祈願や、落語の演目にある「元犬」ゆかりの神社としても知られるパワースポットです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 御隠殿は輪王寺宮の別邸で、寛永時本坊で公務を執られていた宮が、時折り息抜きにこられた屋敷です。敷地は三千数百坪で、老松の林に囲まれた池を持つ優雅な庭園で、ここから眺める月が美しかったといわれます。慶応4年(1868)上野戦争によって焼失し、現在は全くその跡を留めていません。根岸薬師堂(ねぎしやくしどう)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 江戸時代の国学者で著名な俳諧師である石川雅望の墓は榧寺(かやでら)境内にあります。雅望は晩年、狂歌をよくし、著書には「源注余滴」「雅言集覧」などがあり、戯者小説類も数種あります。墓がある榧寺は樹齢千年の榧の木にちなんで名づけられた寺で、大きな榧の木から作られた火除けの神、秋葉権現で知られています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • どこかノスタルジックな景観のお江戸上野広小路亭。その魅力はなんといっても、舞台と客席の近さ。舞台に手が届きそうな距離で、古典芸能やお笑いライブを楽しめる、なんとも贅沢な空間となっています。
    ここでは、落語や漫才だけでなく、講談も聞くことができます。落語は知っているけど講談ってなんだろう?と思われた方も、ぜひ一度お江戸上野広小路亭をのぞいてみませんか?
    上野・御徒町エリア

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