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該当件数175件
  • 幕末・明治時代の戯作者・新聞記者である假名垣魯文の墓と魯文の猫塔記念碑は永久寺(えいきゅうじ)にあります。魯文は長じて商家に奉公したが、戯作者を志し、式亭三馬や十返舎一九などの戯作を耽読、諸方を遊歴して作家生活に入りました。その後、世相を風刺した作品を発表し、明治開花期の花形作家となりました。墓石には、聖観音を線刻した板碑がはめ込まれています。
    谷中エリア
  • 荷田在満は江戸中期の国学者で、荷田春満の甥にあたり、学問的後継者です。享保年間江戸に下り学問普及に努力し、その後、幕府の命により京師に赴き大嘗会議を記録し注釈を加えました。また、貞観格式の校訂を行い、田安家に仕えましたがまもなく辞任し、その後は人々を集めて教育を業としました。お墓は金竜寺(きんりゅうじ)境内にあります。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 佐々木信綱は、歌人・国文学者です。父の教えを受け五歳にして作歌、その後、東京大学文学部古典講習科入学しました。父没後、あとを受けて竹柏会を主宰、「心の華」(「心の花」)を刊行しました。文化勲章を受章、帝国芸術院会員となりました。歌会始撰者でもあり、貞明皇后ら皇族に和歌を指導しました。そのお墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 長唄碑は、幕末の長唄中興の祖である杵屋六三郎を賛辞する碑で、不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 日本スポーツ文化賞栄誉広場は、平成8年(1996)に上野恩賜公園内に設置されました。日本スポーツ文化賞栄誉広場には、国民栄誉賞受賞者の手形が展示されています。
    上野・御徒町エリア
  • 三島政行は、江戸府内の地誌「御府内風土記」「新編武蔵風土記稿」などの編纂に従事しました。幕命によって、江戸府内の地誌「御府内風土記」の編纂を行い、3年にして完了しましたが、明治5年(1872)に焼失、その際に災を免れた資料集が「御府内備考」です。お墓は浄念寺(じょうねんじ)境内にあります。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 大原重徳は幕末・明治維新期の尊攘派公卿です。幕府が調印した日米修好通商条約に強く反対し、新進公家と共に調印不許可を朝廷に訴え、その後も一貫した尊王攘夷派として活躍しました。維新後は参与、刑法官知事、集議院長官を歴任し明治新政府で活躍しました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 沢田正二郎は、大正から昭和初期に活躍した大衆演劇の人気俳優で、早稲田大在学中から坪内逍遥主宰の文芸協会演劇研究所に入るなど演劇の世界に身を投じました。芸術座を結成し退団後は、新しい大衆劇の創造を目指して新国劇を創立、「国定忠治」を初め剣劇で活躍し「沢正」と呼ばれ人気を博しました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 長昌寺の銅鐘は、総高147cm。享保5年(1720)に小幡内匠勝行という当時を代表する鋳物師の一人が製作しました。銅鐘は長昌寺(ちょうしょうじ)の歴史を刻んでいますほか、今戸付近の歴史を知る上で貴重な文化財となっています。
    奥浅草エリア
  • 板碑は石造の塔婆で、板石塔婆ともいいます。鎌倉時代から室町時代にかけて、追善供養などの目的で造られました。龍宝寺にある板碑は高さ155.8cm、上端の幅39cm、下端の幅44.5cm、厚さ約5cmです。中央に不動明王の種子(仏体を表した梵字)を刻むため、「不動板碑」と呼ばれ、区内現存の板碑を代表するもののひとつです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 滋養のため、食材として、人々の胃袋におさめられたスッポンに感謝するために建立された塔です。上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にあります。塔自体はスッポンの形をしていませんが輪郭が彫ってあります。
    上野・御徒町エリア
  • 阿部友之進は、江戸中期、徳川吉宗治世期に活躍した本草学者です。本草学を曽占春、岩崎灌園に学び、漢学を登場琴台に学びました。元年(1861)幕府が派遣した咸臨丸に乗船し小笠原の実地調査にあたりました。明治3年没。そのお墓は梅林寺(ばいりんじ)にあり、都の旧跡に指定されている(昭和3年指定)。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 岡崎屋勘六は江戸末期の書家・勘亭流の祖で、勘亭流とは江戸歌舞伎の看板、番付、台本などに使われる特殊な書体のことです。安永8年(1779)、江戸中村座の依頼を受け、春狂言の大名題を書きました。これが歌舞伎文字勘亭流の始まりとされます。現在もこの伝統は継承され歌舞伎看板などで使われています。 お墓は清光寺(せいこうじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 宋紫石は江戸中期の画家で、長崎に遊学し、清朝の画家沈南蘋の精緻な写実画をうけついだ熊代熊斐に学びました。さらに宋紫岩の薫陶を受け、名を宋紫石と改め、遂に一家をなし、江戸に帰って、大いに南蘋派を流布させた名匠です。南蘋派は日本の伝統画に写実の思想を再覚醒せしめた近代日本画壇の源流です。お墓は徳本寺(とくほんじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 家康の頃から幕府のお菓子司をつとめた大久保主水の墓は瑞輪寺(ずいりんじ)にあります。家康が江戸で町づくりを始めた際に用水事業を命ぜられ、井の頭池などの河流を利用し江戸城・市中の引水に成功し、これが日本の水道の先駆けとなりました。この功により家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「もんと」と読むようになったといわれます。
    谷中エリア

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