メニューを閉じる
該当件数175件
  • 清水浜臣は、松平定信の知遇を受けた江戸時代後期の医者・国学者で、平安時代の物語や和歌の考証に励みました。広く県居門の遺稿を収集・校正して、「県門遺稿」と題して刊行しました。著書には、「杉田日記」「後撰和歌集補注」「源氏物語名寄図考」などがあります。お墓は善照寺(ぜんしょうじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 対鴎荘は、明治時代の政治家三条実美の別邸でした。征韓論をめぐって政府内に対立が続いていた頃、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していました。明治天皇は病床の実美を気遣い、この邸を訪れています。碑は、この事績を顕彰して建立されたものです。対鴎荘は、多摩市連光寺に移築されました。
    奥浅草エリア
  • 斉藤家は美濃国の出身といわれ、家康入府時から江戸神田に住み、雉子町の名主として六ヶ町を支配しました。神田果物市場を監督して野菜上納を掌って、代々市左衛門と称しました。斉藤長秋とその子、孫は、三代にわたって江戸の地誌を調べ「江戸名所図会」を完成させました。齋藤長秋三代のお墓は法善寺(ほうぜんじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 真友の碑は、英語で書かれており、昭和51年(1976)に建立されました。この石碑は不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 家康の頃から幕府のお菓子司をつとめた大久保主水の墓は瑞輪寺(ずいりんじ)にあります。家康が江戸で町づくりを始めた際に用水事業を命ぜられ、井の頭池などの河流を利用し江戸城・市中の引水に成功し、これが日本の水道の先駆けとなりました。この功により家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「もんと」と読むようになったといわれます。
    谷中エリア
  • 沢田正二郎は、大正から昭和初期に活躍した大衆演劇の人気俳優で、早稲田大在学中から坪内逍遥主宰の文芸協会演劇研究所に入るなど演劇の世界に身を投じました。芸術座を結成し退団後は、新しい大衆劇の創造を目指して新国劇を創立、「国定忠治」を初め剣劇で活躍し「沢正」と呼ばれ人気を博しました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 長唄碑は、幕末の長唄中興の祖である杵屋六三郎を賛辞する碑で、不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 慈海僧正は、寛永寺の門主・輪王寺宮の名代を勤める東叡山凌雲院の学頭の4代目です。東叡山護国院、目黒不動、比叡山西塔宝園院、川越仙波の喜多院を経て東叡山凌雲院の住職となりました。お墓は、当初凌雲院境内墓地にありましたが、昭和33年(1958)東京文化会館の建設のため寛永寺に移築されました。
    上野・御徒町エリア
  • 鳥居清信は、江戸中期の浮世絵師で鳥居派の始祖。画法を浮世絵師の父から学んだ後、菱川師宣に私淑し、更には狩野派や土佐派の画風もとり入れて独自の画風を築きました。代表作に「立美人」「傘持美人」等があります。享保14年(1729)に没し、浅草法城寺に葬された後、墓は妙顕寺(みょうけんじ)に移されました。
    上野・御徒町エリア
  • 坂東報恩寺にあるこの鐘が鋳造されたのは、慶安元年(1648)で、当時報恩寺(ほうおんじ)は八丁堀にありました。銘文によると、報恩寺14世住持宣了らの発願で作られました。鋳造者は江戸幕府の命で京都から江戸に下った御用釜師堀浄栄の息子浄甫をさします。この銅鐘は平成8年(1996)に台東区有形文化財として登載されました。
    上野・御徒町エリア
  • 佐々木信綱は、歌人・国文学者です。父の教えを受け五歳にして作歌、その後、東京大学文学部古典講習科入学しました。父没後、あとを受けて竹柏会を主宰、「心の華」(「心の花」)を刊行しました。文化勲章を受章、帝国芸術院会員となりました。歌会始撰者でもあり、貞明皇后ら皇族に和歌を指導しました。そのお墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 江戸中期の儒学者である太田錦城の墓は一乗寺(いちじょうじ)にあります。錦城は皆川洪圓、山本北山に折衷派を学びましたが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、ついに一家を成しました。いわゆる折衷学派といいます。 晩年に至り一時、近畿に遊び、老中吉田候に仕えましたが、前田家に賓使としてまぬかれ、三百石を給せられました。
    谷中エリア
  • 長昌寺の銅鐘は、総高147cm。享保5年(1720)に小幡内匠勝行という当時を代表する鋳物師の一人が製作しました。銅鐘は長昌寺(ちょうしょうじ)の歴史を刻んでいますほか、今戸付近の歴史を知る上で貴重な文化財となっています。
    奥浅草エリア
  • 天祐庵は、京都表千家「不審庵」の写しとして、江戸時代安永年間(1780~)に名古屋の牧野邸「太郎庵」として造営され、大正5年(1916)茶人高橋箒庵への譲渡などを経て、昭和33年(1958)に伝法院庭園内に移築されました。躙口や天井などが、利休系草庵茶室の典型とされる見事な比例感を醸し出しています。
    浅草中央部エリア
  • 山田宗偏は江戸時代前期の茶人で、6歳で茶道を学び、利休茶道の奥義を極めました。赤穂浪士の大高忠雄が宗偏に弟子入りし、宗偏から「12月14日に吉良邸で茶会」という情報を聞きだして討ち入りしました。一説に宗偏は赤穂浪士達の無念を思いやり吉良邸茶会の日を教えたともいわれています。お墓は願竜寺(がんりゅうじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア

当サイトでは、利便性の向上と利用状況の解析、広告配信のためにCookieを使用しています。
サイトを閲覧いただく際には、Cookieの使用に同意いただく必要があります。
詳細はこのサイトについてをご確認ください。