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該当件数175件
  • 狩野芳崖は、墓明治初期に活躍した日本画家で、代表作として「不動明王図」があります。お墓は長安寺(ちょうあんじ)の墓地の中ほどにあり、板碑は死者の菩提を弔うため、生前に自らの死後に備えて供養を行うため建立した塔婆の一種です。長安寺境内には鎌倉・室町時代合わせて4基あり、「長安寺板碑」として台東区の有形文化財に指定されています。
    谷中エリア
  • 対鴎荘は、明治時代の政治家三条実美の別邸でした。征韓論をめぐって政府内に対立が続いていた頃、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していました。明治天皇は病床の実美を気遣い、この邸を訪れています。碑は、この事績を顕彰して建立されたものです。対鴎荘は、多摩市連光寺に移築されました。
    奥浅草エリア
  • 東京自動車三十年会記念碑は、上野不忍池の弁天堂境内にあります。わが国自動車業界の黎明期を支えた先達を顕彰する記念碑です。昭和28年(1953)に結成された「三十年会」は、その当時業界歴が30年以上の方々で構成され、会の名の由来となっています。この記念碑は昭和50年(1975)に同会が建立しました。
    上野・御徒町エリア
  • 室生其角は14、5才の頃に芭蕉に入門し、早くから頭角をあらわしたといわれ、蕉門十哲の第一人者とされる俳人です。芭蕉の死後、次第に蕉風をはなれ、清新華麗な独自の句風をなし、江戸俳壇の中心となりました。宝永4年(1707)に没しています。句碑は出山寺(しゅっさんじ)にあり、「草茎を つつむ葉もなき 雲間哉」と刻まれています。
    奥浅草エリア
  • 櫛淵碑は、上野恩師公園内、不忍池の弁天島境内の裏にある「虚沖軒先生碑」と刻まれた石碑です。石碑には、櫛淵彌兵衛宣根の先祖に伝わる香取神道流から、神道一心流を興すに至るまで、簡略に記されています。櫛淵彌兵衛宣根は、一橋徳川家に召抱えられ、以後三代にわたって徳川将軍直々の護衛役として仕えました。
    上野・御徒町エリア
  • 佐々木信綱は、歌人・国文学者です。父の教えを受け五歳にして作歌、その後、東京大学文学部古典講習科入学しました。父没後、あとを受けて竹柏会を主宰、「心の華」(「心の花」)を刊行しました。文化勲章を受章、帝国芸術院会員となりました。歌会始撰者でもあり、貞明皇后ら皇族に和歌を指導しました。そのお墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 慈海僧正は、寛永寺の門主・輪王寺宮の名代を勤める東叡山凌雲院の学頭の4代目です。東叡山護国院、目黒不動、比叡山西塔宝園院、川越仙波の喜多院を経て東叡山凌雲院の住職となりました。お墓は、当初凌雲院境内墓地にありましたが、昭和33年(1958)東京文化会館の建設のため寛永寺に移築されました。
    上野・御徒町エリア
  • 沢田正二郎は、大正から昭和初期に活躍した大衆演劇の人気俳優で、早稲田大在学中から坪内逍遥主宰の文芸協会演劇研究所に入るなど演劇の世界に身を投じました。芸術座を結成し退団後は、新しい大衆劇の創造を目指して新国劇を創立、「国定忠治」を初め剣劇で活躍し「沢正」と呼ばれ人気を博しました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 真友の碑は、英語で書かれており、昭和51年(1976)に建立されました。この石碑は不忍池の中央にある弁天島にあります。弁天島にはその他「ふぐ供養碑」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 長昌寺の銅鐘は、総高147cm。享保5年(1720)に小幡内匠勝行という当時を代表する鋳物師の一人が製作しました。銅鐘は長昌寺(ちょうしょうじ)の歴史を刻んでいますほか、今戸付近の歴史を知る上で貴重な文化財となっています。
    奥浅草エリア
  • 鳥居清信は、江戸中期の浮世絵師で鳥居派の始祖。画法を浮世絵師の父から学んだ後、菱川師宣に私淑し、更には狩野派や土佐派の画風もとり入れて独自の画風を築きました。代表作に「立美人」「傘持美人」等があります。享保14年(1729)に没し、浅草法城寺に葬された後、墓は妙顕寺(みょうけんじ)に移されました。
    上野・御徒町エリア
  • 天祐庵は、京都表千家「不審庵」の写しとして、江戸時代安永年間(1780~)に名古屋の牧野邸「太郎庵」として造営され、大正5年(1916)茶人高橋箒庵への譲渡などを経て、昭和33年(1958)に伝法院庭園内に移築されました。躙口や天井などが、利休系草庵茶室の典型とされる見事な比例感を醸し出しています。
    浅草中央部エリア
  • 坂東報恩寺にあるこの鐘が鋳造されたのは、慶安元年(1648)で、当時報恩寺(ほうおんじ)は八丁堀にありました。銘文によると、報恩寺14世住持宣了らの発願で作られました。鋳造者は江戸幕府の命で京都から江戸に下った御用釜師堀浄栄の息子浄甫をさします。この銅鐘は平成8年(1996)に台東区有形文化財として登載されました。
    上野・御徒町エリア
  • 山田宗偏は江戸時代前期の茶人で、6歳で茶道を学び、利休茶道の奥義を極めました。赤穂浪士の大高忠雄が宗偏に弟子入りし、宗偏から「12月14日に吉良邸で茶会」という情報を聞きだして討ち入りしました。一説に宗偏は赤穂浪士達の無念を思いやり吉良邸茶会の日を教えたともいわれています。お墓は願竜寺(がんりゅうじ)境内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 江戸中期の儒学者である太田錦城の墓は一乗寺(いちじょうじ)にあります。錦城は皆川洪圓、山本北山に折衷派を学びましたが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、ついに一家を成しました。いわゆる折衷学派といいます。 晩年に至り一時、近畿に遊び、老中吉田候に仕えましたが、前田家に賓使としてまぬかれ、三百石を給せられました。
    谷中エリア

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