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該当件数319件
  • 三崎坂は、谷中2丁目と3丁目の間を南東に上り、坂下で団子坂と向き合う坂です。この坂がある三崎町は三遊亭円朝の「怪談牡丹燈籠」の舞台にもなりました。右も左も寺ばかりで首を振り振り上り下りしたという説などから別名を首振り坂ともいいます。谷中の中央を東西に貫くメインストリートです。
    谷中エリア
  • 清廉度量、家庭円満の神様(布袋尊)が祀られている橋場不動尊。正式名を砂尾山橋場寺不動院といい、現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。
    760年、寂昇(じゃくしょう)上人によって開創されました。1845年に建立された本堂は、小堂ながら美しく簡素なたたずまいを残す江戸時代の建築様式です。明治の大火、関東大震災、第二次大戦の戦災でも周辺を災禍から守ったことから「火伏せの不動尊」とも呼ばれています。

    本堂の右前には、樹齢約700年の大銀杏が見事な枝葉を伸ばしています。その昔、すぐ近くを流れる隅田川を往来して参拝する人の目印となったのがこの銀杏で、今なおそのパワーを授かりに来る人も多いそうです。
    また、江戸時代から伝わる布袋尊像が祀られています。その姿は肩に袋がなくお腹が袋代わりの形をしている珍しいもので、古くから庶民に尊信されています。(御開帳期間 1月1日~7日)
    奥浅草エリア
  • 永昌寺は、江戸時代永禄元年(1558)に浅草の下谷に下谷長者が開創した寺です。寛永14年(1637)に現在の地に移りました。近辺は大名屋敷が多く、肥前藩主松浦壱岐守の妻、永昌院が開基となり、寺名に由来しています。明治15(1882)に嘉納治五郎がこの寺院の境内に柔道場「講道館」を設立しました。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸時代、谷中には大円寺と福泉院に二つの笠森稲荷がありました。福泉院前の鍵屋という水茶屋にいたのが江戸で評判の美人お仙です。幕末の上野戦争で福泉院焼失し廃寺になり笠森稲荷は寛永寺の子院養寿院に移転しました。のち、明治26年に福泉院跡に建立されたのが功徳林寺(くどくりんじ)で、明治末期には稲荷社が祀られました。
    谷中エリア
  • 浅草東洋館は、都内で唯一の「いろもの」を主とした寄席を開催している演芸場です。「いろもの」とは、漫才、漫談、コント、マジック、紙切り、曲芸など、落語以外の演芸の事です。テレビなどでお馴染みの出演者も登場いたします。
    浅草中央部エリア
  • 日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正13年(1924)に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。これをうけて昭和3年(1928)に竣工したのが黒田記念館です。岡田信一郎により設計され、現在は黒田記念室と特別室で黒田清輝の作品を展示しています。
    上野・御徒町エリア
  • 正月行事の一つとして、七福神をまつる神社・仏閣を参詣する風習が起こり、それを七福神詣などと呼びました。谷中七福神詣りは江戸時代中期、宝暦年間(1751~1764年)に始まり盛んになった、江戸では最も古い七福神巡礼といわれています。谷中、上野など歴史的な建造物や寺・公園を通りながら、ゆっくりと一日散策が楽しめるコースになっています。
    上野・御徒町エリア 谷中エリア
  • 落ち着いた色合いの浴室で、まるで高級リゾートのような雰囲気の改栄湯。そんな改栄湯の魅力の一つは、別名「美人の湯」ともよばれる「軟水」。地下120mから汲み上げたまろやかな井戸水を軟水化装置に通し、化粧水のようにトロトロな肌触りの軟水を作り出しています。改栄湯では浴槽のお湯からカランのお湯まですべてが軟水。お風呂上がりにはお肌しっとり、髪の毛さらさらになれることまちがいなしです。お風呂の種類も多く、高濃度浸透炭酸泉、シルキーバス、ジェットバス、サウナなど気分によって様々なお風呂を楽しめます。
    そしてお風呂上がりには、キンキンに冷えた生ビールやレモンサワーで乾杯するもよし、改栄湯名物こだわりの生乳ソフトクリームを食べるのもよし、どの年代の方々も、身も心も温まる幸せな空間となっています。オリジナルグッズの販売もありますのでお立ち寄りの際にはぜひ覗いてみてくださいね。
    奥浅草エリア
  • 年始に七福神(恵比寿、大黒、毘沙門、弁財、布袋、福禄寿、寿老人)を祀る神社仏閣を参詣し、一年の平穏を祈る正月行事。江戸時代末期に始まり戦後は中断していましたが、1977年に復活し今日に受け継がれ親しまれています。

    浅草名所七福神の特徴は福禄寿、寿老人が2社ずつあり、巡る社寺が9ヶ所あるところ。九は数の究み、鳩と言う字にも使われていて、鳩は「集まる」という縁起の良い意味を持つ故事に由来しているそうです。福笹に各社寺の福絵馬をつけ、色紙・福絵に御朱印をいただきながら巡拝しましょう。

    江戸文化発祥の地といわれる浅草には、観音様の境内を中心として広く各所に名所・旧跡があります。七福神をめぐる途中、これらの名跡も訪ねながら江戸文化の面影を偲んでみてはいかがでしょうか。
    御利益にあやかりながらの散策は、福徳と心の安らぎを与えてくれることでしょう。
    浅草中央部エリア 奥浅草エリア
  • 幡随院長兵衛は、江戸初期の町奴で、肥前唐津の士族出身、幡随院の住職向導に私淑、浅草花川戸に住み、奉公人を周旋する口入れ業に従事していたといわれます。その時代町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、旗本奴も市中を乱していました。長兵衛は慶安3年(1650)に旗本奴頭領の騙し討で没しました。お墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 慶応4年(1868)の上野戦争によって荒れ果て、明治新政府が病院建設を決めていた上野の山を、近代的な公園にすべきと提言した長崎医学校教官でオランダ人医師ボードウィンの胸像です。昭和48(1973)年に建立されましたが、オランダ政府の資料の錯誤で平成18年(2006)に像を交換するまでは博士の弟の像でした。
    上野・御徒町エリア
  • 関東大震災では遊女をはじめ多くの人々が池に逃れ、490人が溺死する悲劇が起こりました。この観音さまは溺死した人々の供養のために大正15年(1926)に造立されたものです。
    奥浅草エリア
  • 駒形堂は、浅草寺のご本尊である観音像が、隅田川から引き上げられた地に建立されたお堂です。馬頭観音が祀られていることから「駒形」の地名の由緒ともなっています。現在の堂は平成15年(2003)に再建されたものです。ご本尊顕現の地のため、お堂周辺の十町余りの川筋は魚介殺生禁断となり、戒殺碑が建立されました。
    浅草中央部エリア
  • 上野恩賜公園内、不忍池の弁天島の天竜橋の向かい辺りに建てられている石碑で、徳川家康の愛用した眼鏡がかたどられています。東京の眼鏡業界の組合により昭和43年(1968)に建立されました。業界の発展に寄与した先覚者や建立者の名が刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた山岡鉄舟と初代三遊亭圓朝の墓は、鉄舟が明治16年(1883)に建立した全生庵にあります。鉄舟は晩年、禅を修め道場としてこの寺を建てました。居噺で人気を博した円朝は禅を通じて鉄舟に師事し親交を深めました。円朝の墓石には、鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とあります。
    谷中エリア
  • 太平洋戦争で犠牲となった動物や動物園で亡くなった動物の霊を慰めるための慰霊碑です。上野動物園内のゾウ園の向かいにあります。最初の慰霊碑は昭和6年(1931)に建立され、現在のものは50年(1975)に新たに建立されました。人工石には「動物よ安らかに」の碑文が刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 根岸御行の松は、江戸名所図会や広重の錦絵にも描かれています。江戸名松の一つに数えられ、根岸4丁目の西蔵院不動堂の境内にあります。この松は、樋口一葉の作品「琴の音」や子規の俳句の題材にもなりました。初代の松は樹齢350年を経た後枯れてしまい、現在は平成30年に植えられた4代目の松になります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 吉原弁財天は、千束三丁目にある花園公園にあります。昭和10年吉原神社に合祀されたため、正確には神社ではありませんが、現在も鎮魂碑など多くの遺構を残しております。
    奥浅草エリア
  • 江戸時代中期の儒学者・経世家である太宰春台の墓は天眼寺(てんげんじ)にあります。春台は17歳の時儒学者、中野撝謙に師事し、朱子学を学びました。「経済録」・「聖学問答」・「弁道書」・「三王外紀」など数十巻を著し、日本に「経済」という言葉を広めた人物でもあります。延享4年(1747)に没しました。
    谷中エリア
  • 浅草御蔵とは、江戸幕府が全国に散在する天領から運んだ年貢米や買い上げ米などを収納・保管した倉庫のことです。大坂、京都の二条城と合わせて三御蔵と呼ばれていました。浅草御蔵跡碑は昭和31年(1956)に浅草南部商工観光協会が建立し、現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは昭和9年(1934)のことです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • したまちミュージアム付設展示場は、明治43年に建てられ、昭和61年(1986)まで谷中6丁目で営業していた「吉田屋酒店」を移築した展示場です。前土間、揚戸の出入口など江戸商家の建築様式を伝える貴重な建物です。館内には、酒を量売りしていた時に使用した大きな棹秤、枡、樽や徳利、宣伝用ポスターなどの資料を展示しています。
    谷中エリア
  • 明治の文豪で陸軍軍人であった森鴎外の旧居跡には水月ホテル鴎外荘が建っており、ホテルの前に「森鴎外居住之跡」と刻まれた石があります。ホテル敷地内の内庭には旧居の―部と樹齢三百年のカヤの木が残り、「舞姫」の題字・署名・本文ともすべて鴎外直筆の毛筆原稿からとられた「舞姫の碑」の文学碑も建っています。
    上野・御徒町エリア
  • 谷中には各所に桜があり、特に谷中霊園は桜の名所としても有名です。天王寺の横から続く中央の道は「さくら通り」とも呼ばれていて、桜が咲く頃は桜のトンネルのようになり、平日でも桜を見ながら散策をする人が多くみられます。寛永寺から言問通りを渡り、浄名院の横を通り霊園に入る全長100mの桜並木や、霊園内に点在する大木なども見事です。
    谷中エリア
  • 東京下町八社福参りは、 台東区内の鷲神社・今戸神社・第六天榊神社・下谷神社・小野照崎神社、中央区内の水天宮・小網神社・住吉神社の8つのお社をお参りして8つのお恵みを受けることです。正月七草までの年の始めに家族の開運・無事息災を祈り、お守を受けることで「八方除け、八方開き」にも通じます。
    根岸・入谷・金杉エリア 上野・御徒町エリア 奥浅草エリア
  • 浅草木馬館は、昭和52年(1977)に開館した大衆劇場で、全国人気劇団が月替わりで公演し、「涙あり笑いあり」の芝居や舞踊ショーが演じらています。お目当ての役者が登場すると客席からおひねりが飛び交います。
    浅草中央部エリア
  • お化け地蔵は松吟寺(しょうぎんじ)にあります。「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、高さ3m余の並外れて大きいからなど、いくつかの伝承があります。石仏は享保6年(1721)の建立で、関東大震災で二つに折れましたが、補修して現在に至っています。常夜灯は、寛政2年(1790)に建てられました。
    奥浅草エリア
  • 昭和20年(1945)の「東京大空襲」の犠牲者を悼む慰霊碑で平成17年(2005)に海老名香葉子さん(故林家三平の夫人)によって上野恩賜公園内に建立されました。この塔は東京大空襲を忘れないため・同じ悲劇が起こらないよう、願いをこめて、大空襲で亡くなったご家族がモチーフになっている平和祈念母子像・時計塔です。
    上野・御徒町エリア
  • 天海僧正の毛髪を治めた宝塔で、慶安5年(1652)に弟子の義海によって建立されました。寛永寺を創建した天海僧正は寛永20年(1643)子院の本覚院において108歳で没し、慈眼大師の諡号がおくられました。毛髪塔が立つ場所は本覚院跡で現在の寛永寺清水観音堂の裏にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 明治13年(1880)に竣工された都内に現存する最古のレンガ建築です。この建物は、教育博物館の書籍庫として建てられたもので、耐火を重視し、すべての開口部に鉄扉を付設するなどの不燃性を重視した造りとなっています。築124年を迎えた平成22年(2010年)に耐震改修事業の一環により全面改修が施されました。
    上野・御徒町エリア
  • 包丁塚は、上豊調理師会により建立されました。この石碑は、不忍池の中央にある弁天島にあり、弁天島には、その他ふぐ供養碑やめがねの碑などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 「東京にオペラやバレエもできる本格的な音楽ホールを」という要望に応え、東京都が開都500年事業として建設し、昭和36年(1961)年に開館しました。大ホールと小ホールからなり、バックステージの広さなどのゆとりある造りは貴重で、海外の有名歌劇場が来日した際の公演に使用されることが多いホールです。
    上野・御徒町エリア
  • 甚内橋は鳥越川にかかっていた橋です。鳥越川は、不忍池から忍川をへて、三味線堀に落ち隅田川に注ぐ川で、今の蔵前通りと並行して流れていました。甚内橋跡は攅霊橋(浦島橋)から130mほど下流です。大きさは「長六間、両袖間壱間つゞ共一幅弐間」とあります。十字路の東南角には甚内橋跡の石碑があります。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 妙亀塚は妙亀塚公園という小さな公園の中にある塚です。このあたりは謡曲「隅田川」で有名な妙亀尼とその子梅若丸の伝説の地で、小高い塚に板碑をはめ込んだ供養塔が立っており、都の旧跡に指定されています。
    この妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていました。妙亀塚は「梅若伝説」にちなんだ名称です。「梅若伝説」とは平安時代、吉田少将惟房の子・梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、都から奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去りました。我が子を探し求めてはるばるこの地まで来た母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵を結んだ、という説話です。謡曲『隅田川』はこの伝説をもとにしています。
    塚の上には板碑が祀られています。この板碑には「弘安十一年戊子五月二十二日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものです。しかし妙亀塚と板碑との関係は、明らかではありません。
    なお、隅田川の対岸、木母寺(墨田区堤通)境内には梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)があり、この妙亀塚と相対するものと考えられています。
    奥浅草エリア
  • 国立国会図書館法に基づく国内唯一の国立の児童書専門図書館として、平成12年(2000)に開館しました。国内外の豊富な資料と情報資源を活用し、子どもの本に関わる活動や調査研究を支援しています。また、子どもと本のふれあいの場としての役割も担っている図書館です。
    レンガ棟は、明治39年(1906)に建てられた帝国図書館の建物を保存・再利用しています。
    上野・御徒町エリア
  • 明治新政府に反抗して討滅された彰義隊の戦死者を供養するために明治15年(1882)に建てられました。上野恩賜公園内の西郷隆盛像の裏手にあります。墓石には旧幕臣山岡鉄舟の筆によって「戦死之墓」とのみ記され、「彰義隊」の文字はありません。墓碑の右手には上野彰義隊資料室があります。
    上野・御徒町エリア
  • 人形の街のはじまりは、正徳元年(1711)吉徳初代、三河出身の次郎兵衛が開いた人形の店で、陳列や販売方法の工夫など、たくましい商魂で一大問屋街を作り上げました。以来、東京の人形問屋の約70%以上がこの浅草橋界隈に集まりました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 谷中では、秋になると「さくら通り」などあちらこちらで桜の木が色づき始めます。さらに、イチョウやモミジなど紅葉する木がさまざまあり、見事な風景を作り出します。また、谷中霊園の天王寺の横の道からJR日暮里駅の西口に下りる石段の坂は「紅葉坂」といい、周辺の紅葉がきれいだったためこのように命名されたという説があります。
    谷中エリア
  • 自性院(じしょういん)は、慶長16年(1611)に神田に創建、慶安元年(1648)現在地に移った古寺です。愛染堂に安置した愛染明王像(非公開)で知られます。愛染明王は縁結び、家庭円満の対象として信仰されています。文豪川口松太郎の昭和初期の名作「愛染かつら」は、愛染明王像と本堂前にあった桂の古木にヒントを得た作品だといわれます。
    谷中エリア
  • 岡倉天心宅跡は、旧宅跡であり日本美術院のあった場所で現在、岡倉天心記念公園になっています。 岡倉天心は東京大学在学中から日本美術の恩人フェノロサの感化を受け、日本の伝統美術復興に努力し、日本の近代美術の先駆者となりました。明治31(1898)に日本美術院を創設し、横山大観をはじめ優れた画家を世に送り出しました。
    谷中エリア
  • 西町太郎稲荷神社は、立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として、現在地(万治年間(1658~61)に九州筑後柳川藩11万9600石の太守、立花左近将監の江戸中屋敷として設けられた邸跡地)に建立されたものです。諸々の祈願事を叶え、特に商売繁盛に御利益があると、厚く信仰されています。
    上野・御徒町エリア

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