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該当件数320件
  • 芸道富有、子孫繁栄の神様が祀られている天海僧正は、比叡山延暦寺にならって上野の山に寛永寺を創建しました。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島にならって、水谷伊勢守勝隆が池に中ノ島(弁天島)を築き、寛永中期(1630年代)に弁天堂を建立しました。当初、小舟を渡して参拝していましたが、後に橋が架けられました。
    上野・御徒町エリア
  • 1917(大正6)年に日本で最初の駅伝「東海道五十三次駅伝徒歩競争」京都~東京間の508㎞23区間で開催されました。スタートは京都の三条大橋で、ゴールは上野の不忍池で開かれていた博覧会場の正面玄関でした。
    上野・御徒町エリア
  • 下谷神社(したやじんじゃ)の境内に「寄席発祥之地」の石碑があります。江戸時代寛政10年(1798)に馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎(のちの三笑亭可楽)が、素人噺家として入場料をとって興行を行ったことが、寄席のはじまりだといわれています。
    上野・御徒町エリア
  • 三島政行は、江戸府内の地誌「御府内風土記」「新編武蔵風土記稿」などの編纂に従事しました。幕命によって、江戸府内の地誌「御府内風土記」の編纂を行い、3年にして完了しましたが、明治5年(1872)に焼失、その際に災を免れた資料集が「御府内備考」です。お墓は浄念寺(じょうねんじ)境内にあります。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 日の出湯は、宮大工により、昭和初期に建てられた銭湯です。外観は破風造りの社寺仏閣の様ですが、店内は平成19年(2007)に全面リニューアルしています。高い天井、広くゆったりとした浴室は、マイナスイオンがいっぱいです。男湯からは庭を眺めることができ、女湯は風呂場のタイルに水槽がはめ込まれ、可愛い金魚が泳いでいます。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 嘉永・安政時代に下谷坂本村字入谷に住んでいた植木師の成田屋山崎留次郎が、東の朝顔造りの大関であったと記録が残っています。入谷が朝顔で有名になったのは、明治になってからのことで、土質が朝顔造りに適していたのか、十数件の植木屋が、一軒500~600坪の土地を有し、軒を連ねて朝顔造りをはじめました。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 両大師は、江戸時代正保元年(1644)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立されました。天海僧正と天海が最も尊敬した平安時代の高僧慈恵大師の二大師を祀ることから「両大師」と呼ばれるようになりましたが、正式には「寛永寺開山堂」といいます。堂内にある天海僧正坐像は有形文化財に指定されています。
    上野・御徒町エリア
  • 幕末の勤王家である蒲生君平の墓は臨江寺(りんこうじ)にあり、国史跡に指定されています。君平は幼児期から学問に励み、寛政の末期、諸国の天皇陵を歩き、享和元年(1801)に「三陵志」を著しました。これは幕末の尊皇論の先駆をなすものとして知られています。文化10年(1813)に没し、高山彦三郎や林子平と共に「寛政三奇人」の一人にあげられています。
    谷中エリア
  • 金杉通りは昭和初年に開通しました。旧道は上野山下から入谷口通りを経由、昭和通りと並行して東北に延び三ノ輪で昭和通りと合流します。この道を俗に「金杉通り」と呼びますが、昔はこの街道を奥州街道裏道と呼びました。金杉の地名は、鎌倉時代に金曽木彦三郎という人物の姓から、初めは金曽木、それが金杉に変わったものとされています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 彰義隊戦死者碑は、明治新政府に反抗して討滅された彰義隊の戦死者を供養するために明治15年(1882)に建てられました。上野恩賜公園内の西郷隆盛像の裏手にあります。墓石には旧幕臣山岡鉄舟の筆によって「戦死之墓」とのみ記され、「彰義隊」の文字はありません。
    上野・御徒町エリア
  • 聖天宮は、上野不忍池の弁天堂にあるお宮です。江戸時代後期の「江戸名所図会」には、弁天島の北には小島が描かれ、「聖天」と記されています。(「聖天宮 本社の北の方、小島に勧請す。此島は其始弁天の祠ありし旧地なり。其頃もこの聖天の宮ありしにや、今も地主の神と称せり」)
    上野・御徒町エリア
  • 「かなりや」歌碑は、上野恩賜公園内、不忍池弁天島の天龍橋手前にある歌碑で、昭和35年(1960)に「西條八十会」によって建立されました。碑面には忘れた唄を思い出す「かなりや」の四番の歌詞が自筆で刻まれています。上野東照宮を散策していた時にこの「かなりや」の唄を作ったのを記念してこの地に建てられました。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸千家の祖川上不白が関宿藩主久世大和守の外神田下屋敷に建てた茶室で、明治2年(1869)に現在地に移築しました。不審庵表千家六代原叟宗左の三畳台目の茶室と同じ建て方といわれ、有形文化財に指定されています。不白は千家の茶を普及させ、大衆の茶道を試みたといわれおり、この茶室は江戸千家を広める拠点となりました。
    上野・御徒町エリア
  • 佐々木信綱は、歌人・国文学者です。父の教えを受け五歳にして作歌、その後、東京大学文学部古典講習科入学しました。父没後、あとを受けて竹柏会を主宰、「心の華」(「心の花」)を刊行しました。文化勲章を受章、帝国芸術院会員となりました。歌会始撰者でもあり、貞明皇后ら皇族に和歌を指導しました。そのお墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 至徳の古鐘は、南北朝時代至徳4年(1387)に鋳造されたもので、その時代の鐘は東京都では珍しく、都内有数の古鐘として、特に「至徳の古鐘」と呼ばれています。当初、武蔵国多西郡または騎西郡、あるいは相模国西郡のいずれかの寺にあったものを、後に浅草寺に移したと推察されます。
    現在は、五重塔北側の絵馬堂内に保管されています。絵馬堂は通常非公開となっていますが、不定期で行われる「伝法院庭園拝観と絵馬展」が開催される際は、展示されている至徳の古鐘を見ることができます。
    浅草中央部エリア
  • 勝川春章は、江戸末期の浮世絵師で、美人画などを多く描き、葛飾北斎の師でもありました。お墓は西福寺(さいふくじ)にあります。西福寺は、古くは三河国松平郷(愛知県豊田市)にあった寺で、徳川家康が現在地に移転したといわれています。東京で最も早い公立小学校の一つである育英小学校の発祥の地としても知られています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 日暮里の地は、江戸時代中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれて、四季折々の花樹を楽しむ江戸の人々の行楽地として賑わいました。青雲寺は修性院と共に「花見寺」と呼ばれ、豊かな自然に囲まれて草花を数多く植えた美しい庭園があったといわれています。また、滝沢馬琴(たきざわばきん)筆塚の碑があります。
    谷中エリア
  • 谷中では、秋になると「さくら通り」などあちらこちらで桜の木が色づき始めます。さらに、イチョウやモミジなど紅葉する木がさまざまあり、見事な風景を作り出します。また、谷中霊園の天王寺の横の道からJR日暮里駅の西口に下りる石段の坂は「紅葉坂」といい、周辺の紅葉がきれいだったためこのように命名されたという説があります。
    谷中エリア
  • 不忍池の中央には、琵琶湖の竹生島を模して造られたという弁天島があり、そこに弁財天を祀る弁天堂があります。弁天堂の周囲には「ふぐ供養碑」「魚塚」「めがねの碑」などユニークな石碑が多いことで知られています。
    上野・御徒町エリア
  • 柳瀬美仲は、江戸時代中期の歌人。、京都で詠歌を武者小路実陰の門に学んだ後、江戸に出て和歌を教授しました。「はつせ路や 初音聞かまく尋ねても まだこもりくの山ほととぎす」の一首によって、世人は美仲を「こもりくの美仲先生」と呼びました。元文5年(1740)に没し、「隠口先生美仲甫之墓」と刻まれた墓が教證寺(きょうしょうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • KIWAYAウクレレミュージアムは、ウクレレ文化の保存と継承を目的に平成16年(2004)にKIWAYA社屋に創設されたミュージアムです。正式名称はウクレレミュージアム「樂」です。古今東西の歴史的なウクレレから珍しいウクレレまでを所蔵・展示しています。
    浅草中央部エリア
  • かわとはきものギャラリーには、世界各国の歴史的なはきものや各種参考靴、工具などが展示されています。足形測定機により自身の足の甲回りを採寸することができたり、シマウマや象など変わった皮に触れることもできます。
    浅草中央部エリア
  • 幕末から明治初期にかけての大名・政治家で宇和島藩8代藩主伊達宗城の墓は谷中霊園にあります。宗城は藩政の重点を富国強兵・殖産興業策をとり、蝋の専売制、藩兵の洋式訓練等を実施し、藩権力の強化に成功しました。将軍継承問題では松平慶永、島津斉彬、山内豊信の諸侯と共に慶喜を擁立し(幕末の四賢候といわれます)幕政改革を志す一橋派の有力メンバーとなって活躍しました。
    谷中エリア
  • 吉原遊郭は、江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼を担いました。昭和三十三年売春防止法の成立によって遊郭は廃止され、その名残を記す碑は、昭和三十五年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古によるものです。
    奥浅草エリア
  • 上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にある石碑で、昭和51年(1976)に「東京魚商業協同組合」によって建立されました。碑文には「四海を海に囲まれた我が国では、(中略)私共水産小売業者は、水揚げされる水産資源に感謝し慎んで魚の霊を悼み、組合創立50周年を機に供養のためこの塚を建立します」とあります。
    上野・御徒町エリア
  • 玉林寺のシイは、天正 19年(1591)に創建された玉林寺本堂の裏庭にある都指定天然記念物の巨大なシイの木です。シイの種類はスダジイで、幹回り5.63m、樹高9.5m、枝張りは東に3.5m、西に2m、南に7.5m、北に4mあります。見学する際は玉林寺の寺務所にて記帳し、寺の方と見学します。
    谷中エリア
  • 大雄寺のクスノキは、大雄寺境内にある巨木で都内で一番大きいクスノキといわれています。幹回り6.2m、樹高13m、枝張12mで推定樹齢200~300年です。「都市の美観風致を維持するための樹木の保存に関する法律」に基づく都知事指定樹であり、「台東区みどりの条例」保護樹木です。
    谷中エリア
  • 東京自動車三十年会記念碑は、上野不忍池の弁天堂境内にあります。わが国自動車業界の黎明期を支えた先達を顕彰する記念碑です。昭和28年(1953)に結成された「三十年会」は、その当時業界歴が30年以上の方々で構成され、会の名の由来となっています。この記念碑は昭和50年(1975)に同会が建立しました。
    上野・御徒町エリア
  • 昭和46年(1971)、日本ゴム工業会 三田土会によって建立された石碑です。明治19年(1886)に松前藩士の四人の兄弟が日本で初めてゴムの熱加硫法に成功し、土屋護謨(ゴム)製造所をこの地に創設しました。後に「三田土ゴム工業」となり大規模な工場を建設、軟式のゴムボールや消しゴムなど新しいゴム製品を次々に開発しました。
    上野・御徒町エリア
  • 背面地蔵は正保4年(1647)の創立で一丈三尺余りです。 その昔奥州街道の傍、 道路仏として西向きに立てられましたが、 後に明和元年 (1764) 道筋が寺の東側に改り、 地蔵尊を前向きに建て直したところ、 不思議な事に一夜のうちに元の向きになったと人々に伝えられて、 この尊称が起こったといわれています。薬王寺(やくおうじ)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 正月行事の一つとして、七福神をまつる神社・仏閣を参詣する風習が起こり、それを七福神詣などと呼びました。谷中七福神詣りは江戸時代中期、宝暦年間(1751~1764年)に始まり盛んになった、江戸では最も古い七福神巡礼といわれています。谷中、上野など歴史的な建造物や寺・公園を通りながら、ゆっくりと一日散策が楽しめるコースになっています。
    上野・御徒町エリア 谷中エリア
  • 滋養のため、食材として、人々の胃袋におさめられたスッポンに感謝するために建立された塔です。上野恩賜公園内の不忍池の弁天島にあります。塔自体はスッポンの形をしていませんが輪郭が彫ってあります。
    上野・御徒町エリア
  • はなし塚は、太平洋戦時下で公演が禁止された「五人廻し」「明烏」などの名作落語と落語家先輩の霊を弔うために昭和16年(1941)に建てられた塚です。本法寺(ほんぽうじ)の外塀には、歴代の噺家の名が一面に刻まれています。境内には財と福をもたらす白狐を祀った熊谷稲荷があります。白狐を祀った稲荷は全国に2ケ所しかない非常に珍しいものです。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 横山大観は、近代日本画壇の巨匠です。明治22年(1889)に開校した東京美術学校に第一期生として入学し、岡倉天心に多大な啓発を受けました。その後海外に渡り、ニューヨークやパリなどで相次いで展覧会を開き、高い評価を得ました。日本でもその画風が評価され始め、第一回文化勲章の受章者となりました。お墓は谷中霊園にあります。
    谷中エリア
  • 岡倉天心宅跡は、旧宅跡であり日本美術院のあった場所で現在、岡倉天心記念公園になっています。 岡倉天心は東京大学在学中から日本美術の恩人フェノロサの感化を受け、日本の伝統美術復興に努力し、日本の近代美術の先駆者となりました。明治31(1898)に日本美術院を創設し、横山大観をはじめ優れた画家を世に送り出しました。
    谷中エリア
  • 屋形船は、江戸時代の末頃に始まった船遊びで、水の流れや川面を渡る風とともに料理を味わいながら、川岸の風景や夜景を肌で感じることができます。屋形船には乗合船と貸切船があり、浅草橋や柳橋をはじめ月島、浜松町などの発着場から、隅田川をはじめお台場などを周遊するコースがあります。
    浅草中央部エリア
  • 花川戸助六の歌碑は、明治12年(1879)に九世市川団十郎が中心となり、花川戸公園内の仰願寺に建立されました。関東大震災で崩壊し、後に現在地に再造立されました。碑面には「助六にゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で鬼は外なり」とあります。歌舞伎十八番の一つ「助六」は、代々の団十郎が伝えていますが、助六の実像は不明です。
    浅草中央部エリア
  • 笠森稲荷の本尊は、現在の天王寺の境内にあった養寿院末寺福泉院に祀られていました。明治3年(1870)にこの寺が廃寺になり、現在は江戸百観音の札所として信仰を集めていた養寿院に遷つされています。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸時代後期の著名な歴史人物画家である菊池容斎の墓は谷中霊園にあります。容斎は高田円乗の門に入って狩野派の画法を学び、絵を極めるには先哲の古跡を研究する必要があるとしてこれに専念し、一家を成しました。88才の時にアメリカの博覧会に出品して賞牌を受けました。また、明治天皇に「日本画史」の称を賜りました。
    谷中エリア
  • 御隠殿は輪王寺宮の別邸で、寛永時本坊で公務を執られていた宮が、時折り息抜きにこられた屋敷です。敷地は三千数百坪で、老松の林に囲まれた池を持つ優雅な庭園で、ここから眺める月が美しかったといわれます。慶応4年(1868)上野戦争によって焼失し、現在は全くその跡を留めていません。根岸薬師堂(ねぎしやくしどう)にあります。
    根岸・入谷・金杉エリア

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