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該当件数319件
  • 下谷七福神詣りは比較的新しい七福神詣りで、それまでは個々に御開帳日を定め行われいていたものを昭和52年(1977)から七社寺そろって御開帳日を定め、七福神めぐりが始められました。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 昭和通りの東側付近にある焼肉店やキムチを扱う韓国料理店・食材店が軒を連ねている都内で最も長い歴史を誇るコリアンタウンがあります。「キムチ横丁」の愛称で呼ばれています。その発祥は戦後間もない混乱期の昭和23年(1948)頃、現在の場所に焼肉店・精肉店・民族衣裳店等が集まったことに端を発しています。
    上野・御徒町エリア
  • 神田川に架かる浅草橋は、江戸時代には浅草見附があったところで、台東区側の橋のたもとに「浅草見附跡」の碑が建っています。浅草見附が置かれたのは寛永13年(1636)、江戸城の警護のため36箇所に設けられた見附の一つで、枡形の門は「浅草御門」と呼ばれ、警護人を置いて浅草観音や遠くは奥州へ往来する人々を取り締まりました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 源空寺は、浄土宗の寺で、天正18年(1590)円誉上人が湯島に開山し、明暦3年(1657)の大火で浅草に移転しました。湯島の草庵で多くの信者を集めて、徳川家康も円誉に帰依し江戸城に召して法を聞いていたといわれています。慶長9年(1604)に家康は、寺地と法然上人源空の名にちなんだ源空寺の号を円誉に与えました。
    上野・御徒町エリア
  • 上野恩賜公園内、不忍池の弁天島の天竜橋の向かい辺りに建てられている石碑で、徳川家康の愛用した眼鏡がかたどられています。東京の眼鏡業界の組合により昭和43年(1968)に建立されました。業界の発展に寄与した先覚者や建立者の名が刻まれています。
    上野・御徒町エリア
  • 永昌寺は、江戸時代永禄元年(1558)に浅草の下谷に下谷長者が開創した寺です。寛永14年(1637)に現在の地に移りました。近辺は大名屋敷が多く、肥前藩主松浦壱岐守の妻、永昌院が開基となり、寺名に由来しています。明治15(1882)に嘉納治五郎がこの寺院の境内に柔道場「講道館」を設立しました。
    上野・御徒町エリア
  • 人形の街のはじまりは、正徳元年(1711)吉徳初代、三河出身の次郎兵衛が開いた人形の店で、陳列や販売方法の工夫など、たくましい商魂で一大問屋街を作り上げました。以来、東京の人形問屋の約70%以上がこの浅草橋界隈に集まりました。
    浅草橋・蔵前エリア
  • ねぎし三平堂は、林家三平の笑いの精神を受け継ぐ場所です。林家三平は落語家の名門に生まれながら、それまでの古典落語に飽き足らず、殻を大きく破った三平落語を創り上げました。自由闊達な話芸は、寄席だけにとどまらず、あらゆるメディアに進出し、神風タレント第一号、昭和の爆笑王として、いつまでも日本人の心に残っています。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 東上野神仏具問屋街は、上野から浅草へ続く浅草通りにあります。別名「仏壇通り」といわれるほど、神仏具の専門店約60店舗が軒を連ねています。明暦3年(1657)の「明暦の大火」の後、徳川幕府により多くの寺院がこの周辺に集められたことで、仏壇・仏具などの職人が多く集まるようになりました。
    上野・御徒町エリア
  • 年始に七福神(恵比寿、大黒、毘沙門、弁財、布袋、福禄寿、寿老人)を祀る神社仏閣を参詣し、一年の平穏を祈る正月行事。江戸時代末期に始まり戦後は中断していましたが、1977年に復活し今日に受け継がれ親しまれています。

    浅草名所七福神の特徴は福禄寿、寿老人が2社ずつあり、巡る社寺が9ヶ所あるところ。九は数の究み、鳩と言う字にも使われていて、鳩は「集まる」という縁起の良い意味を持つ故事に由来しているそうです。福笹に各社寺の福絵馬をつけ、色紙・福絵に御朱印をいただきながら巡拝しましょう。

    江戸文化発祥の地といわれる浅草には、観音様の境内を中心として広く各所に名所・旧跡があります。七福神をめぐる途中、これらの名跡も訪ねながら江戸文化の面影を偲んでみてはいかがでしょうか。
    御利益にあやかりながらの散策は、福徳と心の安らぎを与えてくれることでしょう。
    浅草中央部エリア 奥浅草エリア
  • すしや通りという名称は、明治時代、雷門通りから六区に通ずる延長100mの通りに18軒もの寿司屋が連なったことに由来しています。昭和61年(1986)には、通りに全覆式アーケードやカラー舗装が施されました。
    浅草中央部エリア
  • 上野恩賜公園内の東照宮の入り口付近にあり、寛永8年(1631)、佐久間勝之が奉納した石灯籠です。高さ約6m、笠石の周囲約4mとあまりにも巨大な灯籠のため「お化け灯籠」と呼ばれています。名古屋の熱田神宮の石灯籠、京都南禅寺の大石灯籠と合わせて日本三大石灯籠のひとつに数えられています。
    上野・御徒町エリア
  • 江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた山岡鉄舟と初代三遊亭圓朝の墓は、鉄舟が明治16年(1883)に建立した全生庵にあります。鉄舟は晩年、禅を修め道場としてこの寺を建てました。居噺で人気を博した円朝は禅を通じて鉄舟に師事し親交を深めました。円朝の墓石には、鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とあります。
    谷中エリア
  • 昭和20年(1945)の「東京大空襲」の犠牲者を悼む慰霊碑で平成17年(2005)に海老名香葉子さん(故林家三平の夫人)によって上野恩賜公園内に建立されました。この塔は東京大空襲を忘れないため・同じ悲劇が起こらないよう、願いをこめて、大空襲で亡くなったご家族がモチーフになっている平和祈念母子像・時計塔です。
    上野・御徒町エリア
  • 駒形堂は、浅草寺のご本尊である観音像が、隅田川から引き上げられた地に建立されたお堂です。馬頭観音が祀られていることから「駒形」の地名の由緒ともなっています。現在の堂は平成15年(2003)に再建されたものです。ご本尊顕現の地のため、お堂周辺の十町余りの川筋は魚介殺生禁断となり、戒殺碑が建立されました。
    浅草中央部エリア
  • 谷中には各所に桜があり、特に谷中霊園は桜の名所としても有名です。天王寺の横から続く中央の道は「さくら通り」とも呼ばれていて、桜が咲く頃は桜のトンネルのようになり、平日でも桜を見ながら散策をする人が多くみられます。寛永寺から言問通りを渡り、浄名院の横を通り霊園に入る全長100mの桜並木や、霊園内に点在する大木なども見事です。
    谷中エリア
  • 神田川にかかる浅草橋から、春日通り交差点までの江戸通りの両端には数多くの卸問屋が並んでいます。ここは、主に、おもちゃや工具材料などの卸問屋街として、発展を遂げてきました。現在では、ビーズ、装飾品、手芸などのお店も加わって個性豊かな特色のある卸問屋街となっています。
    浅草橋・蔵前エリア
  • したまちミュージアム付設展示場は、明治43年に建てられ、昭和61年(1986)まで谷中6丁目で営業していた「吉田屋酒店」を移築した展示場です。前土間、揚戸の出入口など江戸商家の建築様式を伝える貴重な建物です。館内には、酒を量売りしていた時に使用した大きな棹秤、枡、樽や徳利、宣伝用ポスターなどの資料を展示しています。
    谷中エリア
  • 鳩ポッポの歌碑は、昭和37年(1962)に作詞の舞台となった浅草寺本堂の西側に建立されました。童謡「鳩ポッポ」は、作詞家である東くめ女史が、浅草寺の境内にて鳩と戯れている子供たちをみてこの歌詞を書き、滝蓮太郎により作曲されました。
    浅草中央部エリア
  • 日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正13年(1924)に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。これをうけて昭和3年(1928)に竣工したのが黒田記念館です。岡田信一郎により設計され、現在は黒田記念室と特別室で黒田清輝の作品を展示しています。
    上野・御徒町エリア
  • 蔵前橋西詰めの下流側に石碑と若木が植えられています。初代「首尾の松」は、江戸時代安永年間(1772~80)風災で倒れ、その後も枯れたり焼失し、昭和37年(1962)これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者と共にこの橋際に碑を建設しました。現在の松は七代目といわれます。
    浅草橋・蔵前エリア
  • 江戸時代、谷中には大円寺と福泉院に二つの笠森稲荷がありました。福泉院前の鍵屋という水茶屋にいたのが江戸で評判の美人お仙です。幕末の上野戦争で福泉院焼失し廃寺になり笠森稲荷は寛永寺の子院養寿院に移転しました。のち、明治26年に福泉院跡に建立されたのが功徳林寺(くどくりんじ)で、明治末期には稲荷社が祀られました。
    谷中エリア
  • 慶応4年(1868)の上野戦争によって荒れ果て、明治新政府が病院建設を決めていた上野の山を、近代的な公園にすべきと提言した長崎医学校教官でオランダ人医師ボードウィンの胸像です。昭和48(1973)年に建立されましたが、オランダ政府の資料の錯誤で平成18年(2006)に像を交換するまでは博士の弟の像でした。
    上野・御徒町エリア
  • 明治新政府に反抗して討滅された彰義隊の戦死者を供養するために明治15年(1882)に建てられました。上野恩賜公園内の西郷隆盛像の裏手にあります。墓石には旧幕臣山岡鉄舟の筆によって「戦死之墓」とのみ記され、「彰義隊」の文字はありません。墓碑の右手には上野彰義隊資料室があります。
    上野・御徒町エリア
  • 愛知県三河に創建された浄土真宗の徳本寺は、檀家本多正信に請われ神田に移転し、江戸時代明暦3年(1657)の大火後に西浅草に移りました。「本多正信夫妻の絵像」(国重要文化財)を所蔵し、境内には佐野善左衛門政言「世直し大明神」の墓があります。
    浅草中央部エリア
  • 旧東京音楽学校奏楽堂は、東京芸術大学にあった音楽ホールを昭和62年(1987)に移築・復原したものです。明治23年(1890)に創建された日本最古の洋式音楽ホールで、国の重要文化財に指定されています。2階にある音楽ホールは、かつて滝廉太郎、山田耕作、三浦環が公演した由緒ある舞台です。
    上野・御徒町エリア
  • 東京下町八社福参りは、 台東区内の鷲神社・今戸神社・第六天榊神社・下谷神社・小野照崎神社、中央区内の水天宮・小網神社・住吉神社の8つのお社をお参りして8つのお恵みを受けることです。正月七草までの年の始めに家族の開運・無事息災を祈り、お守を受けることで「八方除け、八方開き」にも通じます。
    根岸・入谷・金杉エリア 上野・御徒町エリア 奥浅草エリア
  • 岡倉天心宅跡は、旧宅跡であり日本美術院のあった場所で現在、岡倉天心記念公園になっています。 岡倉天心は東京大学在学中から日本美術の恩人フェノロサの感化を受け、日本の伝統美術復興に努力し、日本の近代美術の先駆者となりました。明治31(1898)に日本美術院を創設し、横山大観をはじめ優れた画家を世に送り出しました。
    谷中エリア
  • 川路聖謨トルは、幕末の外国奉行。奈良奉行、大阪奉行を歴任した後、外国奉行に就任し、下田で日露和親条約に調印したましが井伊大老と日米和親条約締結で対立により失脚しました。後に外国奉行に復権しましたが、慶応4(1868)年、江戸開城の報に接し、ピストルで自決しました。お墓は大正寺(たいしょうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 創業90余年の伝統的木造銭湯です。日替わりの薬湯が人気で、地元の人々を長年にわたり癒してた「下町の銭湯」です。店内にはジャズ音楽が流れ、グレープフルーツの輪切りや生姜、吟醸酒を使った湯が提供されることもあるといいます。谷中散歩の途中に立ち寄る人も多いです。
    谷中エリア
  • 川沿いの散策が心地よい「隅田公園」は、江戸時代から桜の名所として知られる人気スポット。吾妻橋から桜橋まで川の両堤沿いに広がる桜は約1km続いており、その美しさから日本さくら名所百選に選定されています。
    東京スカイツリーとの共演も見逃せません。風のない日は川の水面に映った「逆さスカイツリー」と桜のコラボレーションも楽しめます。シーズン中は夜桜がライトアップされ、日中とは異なる幻想的な雰囲気に包まれるのも魅力のひとつ。屋形船や水上バスも運航しているので、いつもと違った目線のお花見もおすすめです。
    浅草中央部エリア
  • 姥ヶ池は、隅田川に通じる大池で明治24年(1891)に埋め立てられました。「昔、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって石の下敷きになって死に、それを悲しみ悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げた」という言い伝えにより、「姥ヶ池」と呼ばれていました。その碑は花川戸公園内にあります。
    浅草中央部エリア
  • 根岸界隈のうち、旧日光街道沿い(金杉通り)は戦災で焼け残り、土蔵造りの商家が残っており、柳通りの裏路地には旧花街時代の建造物が所々に残っています。根岸の柳通りから来る道はかつて音無川が流れていた道です。柳通りには歩道の両側に柳が街路樹として植えられており、柳が密になるこの通りがかつて花街のあった界隈です。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 根岸御行の松は、江戸名所図会や広重の錦絵にも描かれています。江戸名松の一つに数えられ、根岸4丁目の西蔵院不動堂の境内にあります。この松は、樋口一葉の作品「琴の音」や子規の俳句の題材にもなりました。初代の松は樹齢350年を経た後枯れてしまい、現在は平成30年に植えられた4代目の松になります。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • こちらの三面大黒天は、創建した当初から安置されたもので、弘法大師の作と伝えられています。正面に大黒天、向かって右は弁財天、左が毘沙門天、後部は宝珠形光背を付けているユニークで徳のあるご尊像です。
    根岸・入谷・金杉エリア
  • 高橋至時は江戸時代中期の暦学者で、寛政7年(1795)に改暦の議が幕府で起こると、同門の間重富とともに天文方に抜擢され、「寛政歴」を作りました。伊能忠敬が実測地図を作成する際には、測量を指導し完成させました。二人は「日本地図の父母」といわれています。文化元年(1804)肺患のため没しました。お墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア
  • 不忍池由来碑は、上野恩賜公園の弁財天入口近くにある石碑で、昭和41年(1966)に建立されました。上野台地と本郷台地の間を忍ヶ丘と呼ばれていたことに由来しているといわれています。この地域は、古くは海で、海岸線の後退で沼のようになったのは平安時代といわれています。
    上野・御徒町エリア
  • 幕末期の蘭学・西洋医学者である伊東玄朴の墓は天龍院(てんりゅういん)にあります。玄朴は医学を志し、長崎の鳴滝塾でシーボルトよりオランダ医学を学びました。江戸で医者として開業後は、その腕が認められ、安政5年(1858)には幕府奥医師になり、蘭方医として種痘所(後の西洋医学所、現東京大学医学部)の開設などに尽力し、明治4年(1871)72歳で没しました。
    谷中エリア
  • 浅草迷子しらせ石標は、江戸時代安政7年(1860)の復元として、昭和32年(1957)に浅草寺本道前に建立されました。石標は当時、迷子や尋ね人の掲示板の役割を果たしていました。また、安政の大地震による吉原楼閣の犠牲者の慰霊碑でもあります。
    浅草中央部エリア
  • 幡随院長兵衛は、江戸初期の町奴で、肥前唐津の士族出身、幡随院の住職向導に私淑、浅草花川戸に住み、奉公人を周旋する口入れ業に従事していたといわれます。その時代町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、旗本奴も市中を乱していました。長兵衛は慶安3年(1650)に旗本奴頭領の騙し討で没しました。お墓は源空寺(げんくうじ)にあります。
    上野・御徒町エリア

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